読んで、観て、呑む。 ~閑古堂雑記~

宮崎の某書店に勤める閑古堂が、本と雑誌、映画やドキュメンタリー、お酒の話などを、つらつらと綴ってまいります。

【閑古堂アーカイブス】追悼・大橋巨泉さん 自叙伝でたどる傑出したテレビマンの歩み(前編)

2016-07-24 14:37:46 | 本のお噂
7月に入ってちょこちょこと、当ブログに記事を書いてアップしていたわたしでしたが、ここしばらくは書く気力が失われていました。暑さが続く中でバテていたということもありますが、20日にタレント・司会者の大橋巨泉さんの訃報に接したことが強い喪失感となり、まとまった文章を書こうという気になれずにいたのです。
子どもの頃から、巨泉さんとその番組にはいっぱい楽しませていただきました。土曜の夜は、『まんが日本昔ばなし』と『8時だョ!全員集合』の間に『クイズダービー』を見ることが、子ども時代のわたし(そして、おそらくは同時代の子どもたちの多く)にとっての “黄金コース” でした。また、『世界まるごとHOWマッチ』は高校の頃に大いにハマっていた番組であり、テレビの視聴と同時に番組を録音し(当時持っていたテレビチューナー付きのラジカセで)、それを繰り返し聴いていたほどでした。
永六輔さんの訃報から1週間後に接することとなった巨泉さんの訃報。子どもの頃から親しみ、敬愛していた偉大なる放送人を、立て続けに失ったことは本当に残念でなりませんし、強い喪失感でいっぱいです。

わたしの手元にある巨泉さんのご著書『ゲバゲバ70年! 大橋巨泉自伝』(講談社、2004年刊。今月末に『ゲバゲバ人生 わが黄金の瞬間』と改題の上、講談社+α文庫として再刊されるようです)。生い立ちから “セミリタイア” までの70年の人生を、のびのびと振り返った自叙伝です。
巨泉さんが愛してやまなかったゴルフや競馬、将棋などのことや、各界の名士たちとの交流エピソード、そして最愛の妻・寿々子さんとの二人三脚ぶりについてのお話もふんだんに綴られておりますし、それらの中にも興味深いところが多々あります。ですが一番興味を惹かれるのは、やはり数々のヒット番組にまつわるエピソードです。
そこで当ブログでは、『ゲバゲバ70年!』からテレビについてのエピソードを中心に2回に分けて紹介しながら、巨泉さんの足跡を偲ぶことにしたいと思います。

大学時代からジャズ評論家として活躍していた巨泉さん。テレビでの初仕事は1957年、日本テレビの『ニッケ・ジャズ・パレード』という音楽番組での訳詞でした。巨泉さんに白羽の矢を立てたのは、日本のテレビ・ショウ番組の草分け的ディレクターであり、のちに巨泉さんと組んで『ゲバゲバ90分!』をヒットさせた井原高忠さんでした。
翌58年、やはり井原さんが演出していた草笛光子さん主演のバラエティ番組『光子の窓』に出演したことが、テレビタレントとして活躍するキッカケとなりました。当時、NHKで相撲解説をしていた大山親方のモノマネを面白がった井原さんが、番組でそれをやってくれないか、と引っ張り出したのです。井原さんのモットーは「最初に役柄ありきでそれにぴったりのタレントを探す」であり、イメージに合うような人物を役者以外の番組関係者からも見つけ出す名人だったとか。
そんなテレビ初出演のエピソードを振り返ったあと、巨泉さんは昨今のテレビ番組の現状をこのように嘆きます。

今どきのプロデューサーは、まずタレントありきで、タモリをつかまえる、たけしをおさえるから始める。そしてタレントに合った台本をつくらせる。井原さんは、まず作家に面白い本を書かせ、それに合ったタレントを探した。この差は実に大きい。近年のテレビに面白い番組が少ないのは、実はここに起因していると思っている。台本に金をかけないで、くだらないタレントのアドリブに頼っているから、我が国のテレビのショウは下落の一途なのだ。

このころ巨泉さんは、永六輔さんが放送局と衝突して突然降りてしまったあとの代役としての仕事も、いくつかやっておられたといいます。相次いで亡くなった偉大なる放送人は、そのような形でもクロスしていたのでした。

1965年の夏頃のこと。巨泉さんは井原さんからの電話で新番組のブレーン・ストーミングに永六輔さんや中原弓彦(小林信彦)さんらとともに参加します。井原さん曰く、「テレビは今もてはやされているが、実は売り場面積に関してはその辺の八百屋や魚屋にも劣る。彼らは客さえ来れば無限に面積を増やせるけれど、テレビは目一杯売っても一日二十四時間しかない。現在はやっと十五時間くらいが売れていて、深夜・早朝はまったく商売になっていない」ので、この辺を開拓したい、と。こうして生み出された深夜番組の先駆けが、あの『11PM』(1965年〜1985年、日本テレビ系列)でした。
とはいえ、開始当初はニュース・ショウ的な硬い内容。そこで巨泉さんは、「今までテレビで取り上げなかった、競馬とか麻雀とかゴルフとか、スポーツやギャンブルのコーナーを設けたら」と提案し、巨泉さん自身もそのコーナーに出演します。それが評判となり、巨泉さんは番組の司会者として起用されることになります。
ギャンブルやお色気といった軟派路線により「主婦の敵」ともいわれた『11PM』でしたが、一方でベトナム戦争や公害問題、沖縄返還、韓国・北朝鮮問題などの硬派な内容も盛り込み、それらも高く評価されました。巨泉さんは、当時のディレクター陣(その中にはのちにUFO研究家となった矢追純一さんもいました)との番組づくりを、このように振り返ります。

ボクが彼らといつも話し合っていたことは、鳥瞰図でなく虫瞰図で行こうということ、つまり上から見ないで地面から見ようであった。それといつも平易に叙すということ、朝日新聞の社説を読む人を相手とせず、ストリップを見る人を相手に番組をつくろう、であった。そして最後は、いつでも両側からモノを見るようにしよう、ということであった。

1968年、巨泉さんはTBS系列で始まった『お笑い頭の体操』(〜1975年)の司会者となります。月の家圓鏡(のちの橘家圓蔵)さんや高島忠夫さん、和田アキ子さんらが解答者となったこの人気番組で、巨泉さんは居作昌果(いづくりよしみ)さんという、これまた傑出したプロデューサーと出会います。
巨泉さんは、「今だから正直に書くが」と前置きした上で、問題が解答者に前もって伝えられ、圓鏡さん以外のタレントにはいくつかの解答例からその人に合ったものを選ばせていたことを明かします。にもかかわらず、答えをとちったり忘れたりするようなタレントがいたのだとか。こぼす巨泉さんに居作さんは「いいんですよ。結局は当人が損をするんだから。その辺は司会者の腕でなんとかまとめてください」とすましていた、とか。
この番組でタレントの才能をよく把握することができたという巨泉さんと居作さんは、後番組の『クイズダービー』でもコンビを組み、二十数年間苦楽をともにする戦友となっていくのです。

そして1969年。またも井原高忠さんと組んだ巨泉さんは、前田武彦さんとともに『巨泉×前武 ゲバゲバ90分!』(日本テレビ系列、1971年まで)の司会者となります。今も伝説として語られているこのバラエティ番組も、台本づくりにしっかり時間とお金をかけていました。巨泉さんはこう回想します。

渡された台本を見て、これは大変なことになるゾと思った。とにかく厚いのである。普通の一時間ドラマの本よりも厚くて大きい。大きいというのは、字だけでは説明しきれないので絵も入る。したがって通常の台本の倍の大きさになるのだ。今考えてもゾッとするが、なんと七ページにわたる独白(ひとりゼリフ)なんていうのもあったのである。

その台本を手がけた放送作家陣も、井上ひさしさんをはじめとして、ラジオの『小沢昭一的こころ』を手がけた津瀬宏さんや、『8時だョ!全員集合』や『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』を手がけた田村隆さんなどといった超一流のメンバーが十数人も集まって書いていたのです。
「この一事をもってしても、もう二度とあんな番組はできないと思う」巨泉さんはそう語ります。

『ゲバゲバ70年!』の前半部分をあらためて読み直してみると、出演者とプロデューサー、ディレクター、放送作家などのスタッフ陣が、面白いものにしようという熱意と創意工夫で、自由にのびのびと番組づくりをやっていたテレビの揺籃期の熱気が、巨泉さんの回想からいきいきと伝わってくるのを感じました。
『11PM』で、まだ始めて間もなかったというゴルフや競馬についても「失うものは何もない」と「ダメ・モト」の精神で取り上げたという巨泉さんは、こういいます。

ボクはいつも、ボクがやることに対する愛情と努力を欠かさなかった。それが好きで、しかも一所懸命にやった。そしてそれが良かったのだと思う。

このような姿勢はおそらく、巨泉さんが仕事全体において信条としておられたことなのではないか。だからこそ、数々の面白い番組でテレビ界に大きな足跡を残すことができたのではないだろうか・・・そのように思います。

(後編に続きます)

【短期集中連載・別府よいとこ美味いとこ】 第8回 プリン天国・別府

2016-07-17 12:00:03 | 旅のお噂
スイーツ好きには見逃せない逸品もいろいろとある別府なのですが、中でも代表的なのがプリン。
豊富に湧き出す温泉から吹き出す、高温の蒸気を活用して蒸しあげたプリンが、お菓子屋さんはもとより宿泊施設や観光名所でも販売されています。味わいや食感にそれぞれの個性もあったりしますので、いろいろと食べ比べてみるのをオススメしたいところです。
今回は、わたしがこれまでの別府の旅で美味しく味わったプリン4種をご紹介することにいたします。


まずは、別府八大地獄の一つである「海地獄」で売られている人気商品「地獄蒸焼プリン」。蒸気で蒸しあげたあとにオーブンで焼いている生地はけっこう固めで食べごたえがあります。卵と牛乳がしっかり効いた甘さ控え目の生地と、ちょっと苦めのカラメルがよく合った大人の味わいです。


お次は、別府市の北部山側に位置する明礬(みょうばん)温泉にある「岡本屋売店」の「地獄蒸しプリン」。その後続々と登場することになる別府プリンの元祖です。こちらのプリンも、カラメルがちょっと苦めの大人風味。卵と牛乳の旨味がたっぷり詰まった定番のカスタードのほか、コーヒーや抹茶キャラメルなど数種類のバリエーションもあります。


続いて、別府タワーの向かい側にある「ホテル三泉閣」の売店で販売されている「ぷるぷるぷるりんちゃん」。一人旅のオトコが買うのにはいささか気恥ずかしさが伴ったネーミングですが(笑)、モンドセレクション3年連続金賞受賞を謳うだけあって、濃厚でクリーミーな味わいは格別でした。大分県産トラフグから抽出したコラーゲン入りです。


最後に変わりダネを。やはり別府八大地獄の一つである「血の池地獄」で売られている、その名も「血の池ぷりん」。真っ赤な色の血の池地獄を表現したラズベリーソースが、なめらかなカスタードの生地の上にかかっております。キワモノかなあ、と思いきや、意外と美味しく頂くことができました。容器ともどもユーモラスで、お土産にもオススメです。

これらの他にもまだまだ、豊富な種類のプリンがございます。ぜひとも、「プリン天国」別府を味わい尽くしてみてくださいませ。

(そのほかのプリンについては、別府のプリンを網羅して紹介しているサイト「別府プリン -みんなに愛されるご当地スイーツ-」をご参照ください)

* 記述の内容は、2016年前半の時点に基づいたものとなっております。

【短期集中連載・別府よいとこ美味いとこ】 第7回 湯の町情緒溢れる鉄輪温泉街(後編)

2016-07-17 09:35:42 | 旅のお噂
懐かしい湯の町情緒が湯けむりとともに漂う鉄輪温泉街。旅館の立ち寄り湯や、多くのお客さんを集める人気の大型温泉施設のほか、リーズナブルな料金で入浴できる共同浴場も6ヶ所点在しています。
共同浴場には市営のものもありますが、その多くは地元の方々による「組合」の手で維持管理されているものです。素朴な雰囲気の共同浴場は地元の人びとの大事な生活の場であり、社交場でもあるところ。外来客はその中にちょっと混ぜてもらうつもりで、入浴にあたっての決まりやマナーを守りつつ入るのが一番でしょう。
共同浴場は、タオルや石鹸、シャンプーなどの、いわゆるアメニティーは備えていないところが多くありますので、必要なものを持参した上でご入浴を。


(上の写真は市営の「熱の湯」、下は組合が運営する「谷の湯」です)

いずれも長い歴史を持つ鉄輪の共同浴場のひとつが、この「渋の湯」であります。

鎌倉時代、一遍上人によって開かれたといわれる歴史を持つ「渋の湯」。その最大の特長となっているのが、「湯雨竹」と呼ばれている昔ながらの竹製の温泉冷却装置です。源泉のお湯を竹の枝を通して落とすことで、加水することなくお湯を冷ますというこの「湯雨竹」のおかげか、熱めのお湯が多い共同浴場にあって、比較的浸かりやすい温度のお湯となっています。
地元の方々がのんびりとお湯に浸かっている浴場内の雰囲気は、実に穏やか。長い歴史に思いを馳せつつお湯に浸かるのは、いい気分転換にもなりそうです。
「渋の湯」の隣には、温泉を開いてくれた一遍上人に感謝して建立された、その名も「温泉山永福寺」があります。こちらも、ぜひお参りしておきたいところです。


鉄輪温泉の共同浴場で最もよく知られているのが、「渋の湯」からすぐのところにある「鉄輪むし湯」でしょう。

こちらもまた、一遍上人によって開かれて以来の歴史を持つ名所。現在の建物の前には、かつてのむし湯の跡が残されております。ちなみに、昔のむし湯は男女混浴だったんだとか。・・・うーむ、そちらのほうも続いて欲しかった気が少々(笑)。

貸し浴衣を身につけ、小さな木戸を潜って8畳ほどの石室へ。温泉の蒸気が充満した石室の床一面には、清流にしか群生しないという薬草の一種、石菖(せきしょう)が敷き詰められています。その上に横たわること10分ほど。はじめはじんわりと温まっていた体が一気に熱くなり、全身からどどどっと汗が吹き出してきます。石室で蒸されたあとは、たっぷりかいた汗を内湯で流します。
たっぷり汗を流した上に、石菖からのいい香りが全身から漂ってきて、実に爽快なこと爽快なこと。今年の1月に別府に出かけてむし湯を初体験したあと、帰ってから勤務先の同僚に「なんか肌がキレイになったみたいだな」と言われたものでしたが(笑)、もしそうだったとすれば、このむし湯の効果があったのかもしれませんな。
入浴後、ロビーで買って飲んだフルーツ牛乳は、また格別に美味しかったのでありました。

(鉄輪温泉の共同浴場についての情報はこちらの鉄輪旅館組合のサイトをご参照くださいませ)

* 記述の内容は、2016年前半の時点に基づいたものとなっております。

【閑古堂アーカイブス】永六輔さん追悼・著書で振り返る永さんの世界 その3「本と本屋」

2016-07-16 10:56:28 | 本のお噂
ラジオを聴くことと本を読むことは、想像力を鍛え、育むということを繰り返し説いてこられた永六輔さん。その著作をあらためて繙いていると、本と本屋についても、気持ちに響くようなお話を残しておられました。
永さんのご著書からその遺徳を偲ぶ続きものの最後は、そんな本と本屋についてのお言葉を(若干手前味噌的なところがあるのですが・・・)取り上げることにいたします。出典は、『嫁と姑』(岩波新書、2001年刊)と『親と子』(同、2000年刊)の2冊であります。


『嫁と姑』に、さる書店にて行われたという、永さんのご著書のサイン会でのトーク・ショーの口述が収められています。
その中で、親友の俳優・小沢昭一さんについての、このようなエピソードが語られています。

ぼくの友だちに小沢昭一という人がいます。
彼は、ブラッと本屋さんに行ったときは、自分がまったく関心のないジャンルの書棚のところに行って、そこに並んだ本の背表紙を見るんですって。
そうすると、いままで知らなかったものが見えて、世界が広がると言うんです。
「面白い本の見方だな」と思いませんか。
ふだん本屋さんに行くとき、自分の好きな作家のところとか、興味のあるジャンルのところへ行くのがふつうでしょう。
関心のない書棚には近づきもしませんね。
ところが、自分が関心のないジャンルの書棚を見ていると、なんでこんな本が世の中にあるんだろうとか、どうしてこういうことを書く人がいるんだろうとか、いままで思ってもみなかったことが次々に浮かんでくるんです。
ですから、本屋さんにただ本を買いに来るだけじゃなく、いろんな利用の仕方があるんだなと思ってください。


続いて永さんは、紅茶が世界を動かしたという近代の歴史について語ります。
東洋のものに憧れたヨーロッパ近代の貴族たちが、東洋のお茶を飲もうと東インド会社を通じてロンドンにお茶を運ばせる。しかし、ロンドンに着くまでに緑茶は蒸れて紅茶となってしまっていたので、それを飲もうということでレモンや砂糖、ミルクを入れたことで紅茶が盛んに飲まれるようになった。一方で東インド会社は、紅茶の代金をインドの阿片を中国に売りつけて得た金で支払ったことがきっかけとなって阿片戦争が起こる。さらにイギリスは、アメリカ大陸に移住した人びとにとても高い税金をかけて紅茶を売ったため、それに反発した人びとがイギリスからの紅茶を海にたたき込む「ボストン茶会事件」が起き、それがアメリカ独立戦争のきっかけとなった・・・。
このように紅茶をめぐる世界史の流れを振り返ったあと、永さんはこう語ります。

ただ一杯の紅茶から、近代史が見えてきます。
そのことがわかって紅茶を飲むという飲み方のほうが、ぼくは大事だと思います。
こういうことは、本屋さんに行って、紅茶の本のコーナーを見ているだけではダメ。
世界史の本を読むと、えっ、ここにも紅茶が出てくる、こんなところにも紅茶が出てくるというふうに、見えてくるんですね。
そのことも含めて、ぜひ本屋さんの本の選び方、本の買い方を楽しんでください。
見たい本、読みたい本だけではなくて、背表紙だけでいいから、他のコーナーをのぞいてみる。
そうすると、そこから世界が見えてくるようなお茶の飲み方ができます。


あらためて繙いたこれらのお話に、わたしは再度大きな刺激を受けました。ふだんはまったく関心のない事柄にもあえて目を向け、自分の世界を広げていたことが、永さん、そして小沢昭一さんの幅広い好奇心の源だったんだな、と。
自分の世界を広げながら、人生を楽しく豊かにする、本と本屋とのつき合い方。もっと多くの方々に共有されるといいなあ、とつくづく思うのです。

その一方で、本に関わる人間としては、実に耳の痛い言葉もありました。
『親と子』には、永さんのお父上である永忠順さんについて触れた章があります。それによれば、忠順さんは調べごとのときはもちろん、調べごとがないときにも、図書館に行くのがお好きだったといいます。
そして、永さんは忠順さんが残したこのようなお言葉を引きます。

近頃の本屋さんはヤだね。
魚や野菜のように本が積んであって、しかも、新刊のものばかり。
ちょっと前の本だと、もう、並んでないんだ。
・・・・・・腐るわけじゃあるまいし。


このお言葉には、本屋(といっても、店舗を持たない外商専業の店、ですが)で仕事をする身として、はたと考えさせられました。
確かに、話題の新刊やベストセラー、人気の高い作家の作品を扱い、売っていくのもわれわれ本屋の人間の大事な仕事です。ですが、やはりそれだけで終わっているようではいけないのではないか、と。
過去に出ている本であれ、さして売れているというわけでもない本であっても、面白いものは面白い、いいものはいい、ということを伝えていくのも、われわれ本屋の大事な仕事なのだと思います。
そのためにも、狭い範囲の世界だけに引きこもらずに、自分の世界を広げていかなければ、とも思っております。そう、永さんの姿勢を見習いながら。

手元にある永さんのご著書をあらためて繙いて、それらに込められた知恵やメッセージの多くが、いまでも十分すぎるほど価値があるということを認識いたしました。
永さんは、親しかった小沢昭一さんや秋山ちえ子さん、加藤武さん、中村八大さん、いずみたくさん、そして坂本九さんたちとともに「夜空の星」となりました。でも、永さんが遺したものの価値は、これからも輝きを失うことはない、と思います。
永さん、本当にお疲れさまでした。そして、ありがとうございます・・・。


【閑古堂アーカイブス】永六輔さん追悼・著書で振り返る永さんの世界 その2「ラジオ」

2016-07-14 20:08:03 | 本のお噂
草創期のテレビで才能を発揮しながらも、その後は「テレビは嫌い」と公言しつつテレビからは距離を置き、ラジオをホームグラウンドにし続けた永六輔さん。『誰かとどこかで』や『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』といった永さんのラジオ番組は、長きにわたって多くの人びとに親しまれました。わたしが永さんの巧みな語り口を知るキッカケとなったのも、ほかならぬラジオの『誰かとどこかで』でした。
永さんは、学生時代の恩師であった民俗学者の宮本常一氏から「スタジオでものを考えるのではなく、電波の届く先へ行って、見たり聞いたりしたことをスタジオに持って帰って話しなさい」と教えられた、民俗学でいうフィードバックの方法論で、ラジオのお仕事を続けてこられました。永さんは、
「旅先で出会ったことや聞いた話をスタジオに持ち帰って、もう一回放送にのせる。ラジオの仕事でこれがいちばん面白いところだと思う」
と語っておられます(雑誌『放送文化』2006年秋号所載のインタビュー記事より)。
永さんが旅先ですくい取った、各地の人びとの息吹きや思いの数々。それらはラジオで伝えられただけではなく、ライフワークとなった「無名人語録」ともなり、大ベストセラーとなった『大往生』にも活かされるなど、出版の世界にもフィードバックされていきました。永さんにとって、「旅」と「ラジオ」は、まさしく車の両輪という関係だったんだな、とあらためて思います。そこで今回は、「ラジオ」というテーマのもと、手元にある文献から永さんのお言葉をピックアップしていくことにいたします。
出典のメインとなるのは、秋山ちえ子さんと永さんの対談をまとめた『ラジオを語ろう』(岩波ブックレットNo.550、2001年刊)と、かつてNHK出版が出していた雑誌『放送文化』2006年秋号の特集「ラジオ聴くべし。」に掲載された永さんのインタビュー記事であります。・・・そう、秋山ちえ子さんも今年の4月に旅立たれたばかりだったのでした・・・。


テレビの天気予報は、衛星中継の天気図が出てきて、「いまこの辺に台風がいます」という言い方がテレビはできますよね。ラジオの天気予報を聞いていると、それがなくて、確実に地名になるわけです。「いま横浜の上を通過して、東京湾を横切って、千葉から土浦の上にまわっています」と。そう言われたほうが、ああ、あそこへいった、それからあそこへいった、そしてあそこへいったな、というのが見えてきます。
だからラジオの話法というか話術と、目で見える世界の話術というのは、想像力という点で、まったく違うものだなという気がするんです。

(『ラジオを語ろう』より)

ラジオの話をしますと、年末のNHK「紅白歌合戦」、あれはラジオでも、同時に実況放送しています。
テレビとちがって、歌手の姿は見えませんから、アナウンサーも説明が大変だし、聴いているほうも一所懸命、想像しなければならない。
何が大変といって、小林幸子の衣装の説明が大変(笑)。
テレビで見ていれば一発ですが、あの、大道具のように変化する衣装、あれを全部、言葉で説明しなければならないんですからね(笑)。
想像力がまちがいなく、鍛えられます。
こういうなかで、先を読む力ができていくんです。

(『嫁と姑』より。岩波新書、2001年刊)

若者が深夜放送だけでなく、ラジオを聴かなくなった。ラジオを持っていない。それは若者が本を読まなくなったのと同じだと思う。本を読むのもラジオを聴くのも想像力が必要になる。主人公やその状況を頭の中に思い描けないと、本を読んでもラジオを聴いてもつまらない。放送の前に本を読むこと。読むという行動そのものを、ラジオやテレビが育てたいですね。
(『放送文化』2006年秋号所載のインタビューより)

ラジオは昔から出版の世界と仲が良かった。朗読って出版の世界なんだから。出版の仕事はもっとラジオにいろいろな形で協力態勢をとり、もっとはっきり言ったら、感謝すべきです。
(『ラジオを語ろう』より)

いままではラジオが好きという人とテレビが好きという人とがいますよね。でも、たとえば(引用者註:秋山ちえ子さんが、毎年8月15日にラジオで朗読していた)さっきの「かわいそうなぞう」なら「かわいそうなぞう」を聴くラジオの大好きな方は、じゃあテレビは見てないかといったら、そうじゃなくて、テレビもちゃんと見ているんですよね。
そうなると、ラジオが持っている言葉の知恵とか技術とか、いろいろテクニックも含めて、テレビに渡していかないと。テレビは言葉が貧し過ぎますから。

(『ラジオを語ろう』より)

テレビはすぐに忘れられてしまうけど、ラジオの音の記憶は残ります。(中略)
耳で残っている記憶の強さはテレビとは全然違う。ラジオをやっていて、最後に残るのは音だぞ、記憶に残るのは言葉なんだと思うんです。
(『放送文化』2006年秋号所載のインタビューより)

ラジオにはまだまだいろんな付き合い方が潜んでいます。それはいまみなさんが携帯電話の機能を使いこなせないのと同じで、ラジオのなかにはまだまだ宝物がいっぱいあると僕は思っているんです。それを誰がどういうふうに気がつくかなんですよね。それを考えると、ラジオってけっして落ち目のメディアではないし、みんなから忘れられていくものではないんです。
(『ラジオを語ろう』より)

ラジオって、マスメディアなのに、人脈でつながっているんです。テレビは「みなさん」が相手だけど、ラジオは「あなた」。その「あなた」が横につながってみなさんになるところが、ラジオの強みであり、これからも一番大切にしなければいけないと思います。
(『ラジオを語ろう』より)

これまで永さんは、ラジオを聴くことは本を読むことと同じように、想像力を鍛え、育んでいくのだということを繰り返し述べてこられました。
音に加えて、映像や字幕テロップですべてを説明することができるテレビには、それ相応のメリットもあることは事実でしょう。ですが、想像力を鍛えたり育んだりすることができるメディアであり得ているだろうかといえば、ちょっと考えてしまいます(もちろん、想像力や創造力を刺激してくれるような番組が、まったくないというわけでもないのですが)。
想像力を持っていればあり得ないような行動や言動をする向きをしばしば目にする昨今、ラジオで想像力を鍛え、育もうという永さんのメッセージは、まだまだ有効性を失ってはいないのではないか、と思うのです。

ラジオをめぐる永さんのお話を振り返る中で、ハッとさせられたことがあります。
秋山ちえ子さんとの対談『ラジオを語ろう』で永さんは、これまではラジオとテレビは受信機が違っていたが、ラジオの聞こえるテレビやテレビの映るラジオが登場したことで分けている意味がなくなった、と言い、こう続けます。

「それは間もなく全部そうなります。すべての受信機に、テレビとラジオが内蔵されます。そうすると、同じスイッチのなかで、テレビとラジオを選べる」
「小さなテレビもあります。ラジオだって、マッチ箱ぐらいのラジオがいくらもあるじゃないですか。カードみたいなラジオもある。それをテレビのなかに入れておくだけですから。
これからはそうなっていくと思いますね」

あくまでも2001年時点での認識であり、現時点では「すべての受信機に、テレビとラジオが内蔵され」るまでには至っておりません。ですが、現在ではそれに近いとも言える状況が生み出されています。パソコンやスマートフォン、タブレット端末といったIT機器では、テレビとラジオの両方を楽しむことができるようになっているのですから。永さんがお考えになっていたこととは少し違うかもしれませんが、ネット環境の普及と整備により、ラジオは「忘れられていくもの」どころか、気軽に接することのできる機会が増えているとも言えるのです。
時代が移り変わっても忘れたくないこと、忘れてはいけないことの価値を繰り返し説きながらも、新しい流れへの目配りも怠らなかった永さん。そのしなやかさと慧眼ぶりに、あらためて畏敬の念が湧いてきます。