私たちは創造主Creatorであり、霊Spiritである神の被造物creatureです。しかし神は私たちに御自身の永遠のいのちをお与えになるために御子を送ってくださいました。
御子の十字架の贖いに依って、罪によってサタンの支配下で死んでいた私たちの霊を、聖霊の支配下に解放されました。霊が新生(神生)すると神との永遠の交わりに入れられます。神によって造られただけでなく神によって生まれるという奇跡が起こったのです。
「誰でも神から生まれた者は、悪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人の内にとどまっているからです。その人は神から生まれたので罪のうちを歩むことが出来ないのです。」(ヨハネ第一の手紙3:9)
ヨハネ福音書やヨハネの手紙は「永遠のいのち」をもつこととその自覚を促すために書かれましたから、いわば至聖所の領域に集中しています。そして旧約のユダヤ教世界を超克することになります。神のDNAが御子の受肉と贖罪を通して私たちに与えられた訳です。
聖なる神と結ばれるために聖い血による贖いが必要であると聖書は証言します。そしていのちは血の中にあると書かれていますから、御子イエスが十字架上で神の血を流された時、神の永遠のいのちもこの世に注がれたのです。
ところでマタイ、マルコ、ルカに見られる悪霊払い(エクソシズム)にヨハネは全く触れません。肉体あるいは精神に害をもたらす悪霊との戦いよりも、永遠的な霊の救いの分野におけるサタンとの戦いに焦点を絞っているかのようです。
原罪からの解放とは十字架を通して私たちは神のいのちを受け、神から生まれることです。それでは私たちは全く罪を犯さないでしょうか、ヨハネの手紙では「御子イエスの血がすべての罪から私たちを清めます。もし罪はないというなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(1:8)とも語ります。
この世に生きる限り、神の子も日々の悔い改めと主の血に依る罪の清めが必要であるというのです。共観福音書的にいうならば悪霊払いを要するということです。救いのためというよりは神の子の肉体的精神的分野での健康維持のためというべきでしょうか。
誕生の後に養育と成長があるように、義認ののちに聖化が始まります。この局面でも主の血の力と御霊に頼らなければ勝利できません。神の前で罪を告発し公訴するサタンにたいして、主の義のみが弁護し対抗できるからです。そういう意味で、悪霊払いは御霊に依る贖いの適応であり、ヨハネ福音書も共観福音書も本質的には同じことが語られています。
十字架の真理が御霊に依って語られる時、それ自体の中に深い次元でのエクソシズムが行われます。いつでも、エクソシズムが力をもつのは主の字架の血の贖いに依存している時だということです。
霊が永遠の贖いを受けて救われたように、心と体は日々の主の血に依る清めと聖霊の覆いを受けて神のいのちの泉が人々に注がれてゆくように努めたいです。
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