「信仰の敵」
信仰は聖霊によって与えられる。それはイエスを
神の御子と信じることから始まる。
サタンはこれを妨げる。つまり、不信仰は
悪の霊の結果である。
信仰は主との交わりに進ませる。新生した
神の子を成長させるために。
サタンはこの交わり(祈り)を妨害する。
つまり祈れないことも悪霊の結果である。
だから聖霊により頼むことによって、敵の
力が打ち砕かれてゆく。
人生の問題は表に現れた表徴(結果)であり
その根(原因)は霊的超越的次元にある。
主イエスはこの深層の霊を取り扱われる
ことによって問題を解決された。
聖霊の導きのもとに、聖霊と共に祈り
語り、行うことによって人々に根本的解放を
もたらされた。
表層世界は変化しているが、霊の世界は
現代も変わっていない。
目に見える被造世界 は目に見えない霊
(4次元)にコントロールされている。
創造霊を心に迎え、偽りの被造霊(真の敵)
を見分け、これを打ち破っていただくこと
こそ、永遠的勝利の歩みである。
(月刊「ハーザー誌」11月号-特集「よみがえりといのち
のカンファランス:人生の問題を解決する・
ジョセファット・カジマ」参照)
(09・10・20)
「神の資産」
最近、Gメールも使用して「クラウド」を
体験している。ソフトが自身のパソコンでなく
あちらがわにあるので、故障しても他の機種でも
使用できる。
雲の上に資源があって、そこから引き出す感覚
である。
ところで、創造主ご自身が永遠の尽きざる資源で
あられ、こちらがわの事情の如何によって、失われる
ようなことはない。
祈りによってアクセスして、知恵や愛や平安やすべての
問題解決を引き出せるのである。
しかも神は聖霊として私たちの中に住まわれている。
このお方と共に祈る祈りは創造主の内部(至聖所)での
交わりであり、それ自体が力であり、資産の発掘となる。
(09・10・8)
「思考のあがない」
信仰は信仰の霊によって与えられる。
思考(考え)は潜在意識(霊)によって
影響され支配される。
生まれつきの魂(思考)はサタンの支配下にある
と聖書は語る。したがって思いはいつも否定的に
なりがちである。
十字架の血のあがないは我々の霊と魂と体の全領域に
及ぶ。主の血によって洗われた霊は聖霊の御支配に移され
永遠のいのちによみがえっている。
しかし心と体は絶えず世のさらされ、また自身の自我によって
汚され、サタンの攻撃の標的にされる。
思いを新鮮に保つために、日々主の血によるきよめと聖霊の
満たしを祈り求めたい。
思いが悪霊からあがなわれ、聖霊のご支配に移されると
喜びや平安、希望と可能思考湧き出て、インスピレーション
やよいアイデアが生み出される。
真の文化や文明は、あがなわれた心がもたした
ものといえよう。
時間もまたあがなわれなければならない。
むなしく失われた時間に、永遠を招き入れるとき
時は意味を回復する。
主を私たちの全領域に招きれる時、主は私たちと
共に働いてくださって、不滅の仕事を成し遂げて
くださる。
(09・9・17)
「知解と信仰」
信仰とは事実の知解なのか、超越者
なる神への人格的信頼なのか?
イエスが神の御子である事実を理解あるいは
納得した故に救われるのか、復活して生きておられる
主に出会い交わりにあずかった故に救われるのか。
私たちがある事実を受け入れ承認するのは、理性
或いは感性が納得した時である。
しかし復活の歴史的事実は、被造物を超えた創造主
の世界の出来事であるゆえに、被造物である脳と悟性
は納得しないのである。創造主なる聖霊が我々の霊のもと
に来られ、創造主の次元に引き上げて下さる時、そこに
み父と共におられる復活の主にお会いできるのである。
復活の事実は生まれつきの悟性によって認識されるのでなく
御霊によって新生した霊によって霊的に納得される。
その意味で神と御子への信仰も信頼も人間が生み出したものでなく
神から、聖霊から与えられた恵みである。
過去の出来事、あるいは未来のことを確認することは不可能であるが
現在、永遠を生きる者は、永遠的出来事があった事実を追認し、
永遠が実現することを確信できるのである。
人間の知解を超えた霊的知解(啓示)によって、神が私たちを愛して
共に歩んでおられることを知るのである。
悟性は否定されるのでなく、聖霊に触れられて飛躍的な神化を体験する。
被造物でありながら、それをはるかに超えた創造主のもとに迎えられて
主と交わり、永遠の相のもとに、働き、この世界を認識することを許される。
(09・9・16新政権誕生を記念して)
民主党のリーダーの論文が米国で問題視されたという。
イラク戦争批判が一つの原因らしい。
マニフェストディスティニーは米国の西進を正当化するための方便のように
思われがちがちであるが、本来、与えられた使命(天命)を明確化してそれに従う
という標語、公約のような意味を持ち、したがって民主主義国家の政党は「マニフェスト」
を掲げて選挙にのぞむことになった。
ここで民の声が天の声なのか、ヒューマニズムがイコール、デスティニーなのかという
課題がおこる。預言者を通して語られる神の声は必ずしも民の思いと一致しなかった
ことは旧約聖書で明らかだ。
福音宣教がイスラエルから西回りでにヨーロッパへ、そして新大陸アメリカを通してアジアに
帰ってきたこと、中国1億人近い福音派のクリスチャンに「バック・トウ・ザ・エルサレ
ム」(シルクロードを西進して最終的救いを受けるイスラエルへ福音を届ける)の思いが
与えられていることから、歴史は主の再臨という完結に向けて進んでいることが分かる。
いずれにせよ、歴史も個々の人生も完結に向けたプロセスの中にある。
ヨハネ福音書が3共観福音書にある黙示的表現を割愛したのは、「現在のプロセス」に
おいて共に歩まれる主と御霊の臨在と働きを再確認させるためであったという説を読ん
だことがある。
確かに人は何をなしたかを見て評価するが、心を見られる神は、そのプロセスにおいて
へりくだって、主を仰ぎ、その助けと知恵を求め、主に依存しつつ歩む一歩一歩のプロセ
スをご覧になる。
一瞬、一瞬を主により頼んで生きる、それこそが主の再臨に備える幸いな生活である。
(09・9・3)
「霊的混沌からの脱出」
創造主としての御霊と人間の霊との混同は、
霊的死あるいは霊的病に起因している。
霊(プニュウマSpirit)と魂(プシュケmind)との
混同でもある。
霊が死んでいる状況では、霊である神、霊の国
天国、霊的闇地獄のリアリティがない。
失われ、縛られた霊は、神の霊、聖霊に触れられた
時に生き返る。神の御子の十字架の血の贖いに依存
し頼る時に霊のよみがえりの奇跡が起こる。
新しく神から生まれるのである。
羊の血の贖いの力は霊にまで及ばなかった。
これが旧約の限界であった。
霊のよみがえりという永遠の視点に立って
創造霊と被造霊の違いを見分けることができる。
永遠の救いと一時的救いの違いが分かる。
天国の実在も確認できるのである。
霊が死んでいる者にとって、霊的なことは
愚かに見えるのである。
あるいは諸霊を創造霊と取り違えるのである。
(09・8・27)
「復活の主」
自分の任務は復活して生きておられる主イエス様を伝え、証しすることである。
このお方は聖書で証言され、そして現在も共におられるので、対話を喜んで下さり、
賛美と礼拝を受けて受けて下さる。聖霊は、今おられるこのお方に心を向けて、天の
交わりに導いて下さる。
私の肉は地上ものもに魅かれるが、御霊は私の霊と共に主を仰がせ主を喜ぶ者に
変えて下さる。バルトは「聖霊とキリスト教生活:救済者としての聖霊」で
「霊感を受けた者(エンテモス:ギリシャ語で神の中にという意味)
とは神によって、神と共に、神の中で祈り行動する者」だという意味のことを語っている。
(09・8・18)
「ブルーム・ハルト」
ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(Johann Christoph Blumhardt 、1805年-1880年)
1843年1月24日ー28日
ドイツ、メットリンゲンで少女ゴットリービンの背後にある闇の力とブルームハルトの戦いが終焉を迎えた。
「・・・すると娘の喉から、何度か、おそらく15分ぐらい続いたであろうが、絶望の叫びが発せられた。それは、そのために家が壊れると思われるほど震撼的な強さを持つ声であった。私はそれ以上に恐ろしいものを考えることができない。・・・やがて遂に、最も感動的な瞬間が来た。…朝の2時に、娘は頭と上半身を椅子の背にのけぞらせていたが、『サタンとなった天使』と称する者が、人間の喉から出るとは思えない声で『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ』と、吼えるように叫んだ。・・・・やがて悪霊の威力と力は、一瞬ごとに奪われてゆくように見えた。悪霊は次第に静かになり、おとなしくなり、次第にその運動が鈍くなり、つには全く認めることができないほどに消滅してしまった。・・・・それは朝の8時ころであった。」
(神の国の証人ブルームハルト父子・井上良雄著:1982新教出版85ページ)
この出来事はやがてカールバルトやトゥルナイゼンの信仰と神学に大きな影響を与えることになった。
2009年7月22日日本で皆既日食が見られる。月が400倍の大きさをもち400倍の距離にある太陽の前面に出てその光を遮るのである。我々の自我が創造主の前にしゃしゃり出る時、主の光を遮るであろう。自我とは生まれつきの魂(プシュケ)であり、時には「良心」という仮面をつけることもある。私は絶対正しいという自己偶像化、魂至上主義のもとに悪霊が働いてきた。
ブルームハルトの魂が砕かれ、彼の内なる霊(プニューマ)に宿る創造霊が働かれた時に、
闇の力が粉砕された。
バルトはカトリック、プロテスタント双方が『西方の父』アウグスチヌスに忠実すぎて、福音の持つ素晴らしい力の次元を軽視してきたのではないかと自戒している。
(7・21)
「依存と結合」
ラテン語で宗教とは「結び」を意味する。
人は依存する対象と結ばれる。
プラスイオンとマイナスイオンの化学反応
を考えると分かりやすい。
人は創造主と結ばれ、このお方に依存するように
造られた。
しかし、私たちの心は絶えず、被造物に依存しよう
とする。これが偶像礼拝である。
世と結合することによって、創造主との結合を忘れる。
永遠の地下水から飲むのでなく、一時的たまり水から
汲もうとする。そして渇く。
主イエスこそ、創造主なる父と結ばれ、一体となられた
まことの人である。創造主なる神がまことの人のあり方を
身を持って示されるために人となられたのである。
主の十字架を見上げるとき、主と一つとされ、主と共に
この世依存に死ぬことができる。サタンが誘う偶像礼拝
から解放されるのである。そうして、復活の主と共に
心に住まわれる御霊によって創造主に結合されるのである。
自分の心を自分で統御して、神と結合しようとしても挫折する。
人間の宗教心だけでは神に到達し得ないのである。
十字架を頼るときに、不可能が可能になり、創造主との
永遠の結合が成就するのである。
永遠者が私たちの内に生きて下さるので、私たちは
復活のいのちを生き、死を克服する者に化せられる。
まことの宗教とは創造主と結ばせるもので、それは
神からの贈り物である。
(7・7)
「心の世界と霊性の次元」
聖書では魂と霊の違いを識別
している。ほとんどの小説は
心象の世界を描くけれども
霊の次元まで掘り下げられた
ものは非常にまれである。
それは作家自体の体験に左右
されるからであろう。自分が単なる
心理体験のなかで生活しているなら
ばおそらくそれ以上の世界を認識
することは不可能であろう。
また人の心理が外的環境だけでなく
霊的実在の力に支配されていることも
気づくことができな.いだろう。
カルトの温床はこの霊的盲目とあいまいさ
にある。ナチズムの蔓延は形骸化したドイツ的
キリスト教世界で生じたといわれる。
spiritよりもmindあるいはsoulが重んじられ
心象のみにとらわれるとき、悪しきspirit
に無防備にされる。
ドイツ魂も大和魂も平和でなく破壊への
道をたどった。
心はそれを超えた霊の次元に左右される。
そして創造霊によってのみ、諸霊(被造霊)の
識別が可能になる。
したがって己の心的能力に依存するのでは
なく、創造主の霊に依存することが不可欠で
ある。つまり、祈りを通して主は真実を明らか
にされるのである。創造主の内なる至聖所に
生きること、physical lifeだけでなくmenntal life
だけでもなくspiritual life に心がけ、誰よりも
Spiritなるお方を重んじることこそ幸いである。
このお方はかつては外の次元から天使を通して
人間に近付かれたが、御子の血と御霊によって
今は私たちの内側に至聖所を備えられ、最も
近いところにおられるのである。
被造物への依存をやめて、この創造主に信頼を
置くときに、この方が全能の力を発揮されて奇跡
を行われる。そして最大の奇跡とは一時的な肉体や
環境への奇跡のみではなく、霊に触れ霊を生かす
永遠の奇跡である。水をワインに変えたように魂的罪人を
霊的神の子に変えるeternal miracle である。
人は奇跡を求めるが神は奇跡をおこなう
神御自身(聖霊)を与えたいと願われる。
(6・26)
「創造主を思う」
教育のほとんどは、被造物について
の学びである。それは有益ではあるが
しばしば疲労感をもたらす。現代教育の
一つの問題は生徒が学習意欲を失って
いる点にあるといわれる。
これは社会全体の閉塞感を反映している
と思われる。子供たちは親や大人の鏡なのだ。
創造主に対して閉ざされた状態が閉塞感の原因である。
永遠の創造者、歴史の主、創造霊として偏在者(有って
在るお方)天使もまともに見れないほどの清さ、人
となられて罪を負われ復活していつでも共におられる
お方、聖霊として霊に住まわれ、語り、教え、導き
慰め、ともに生きて下さる創造霊。なんと偉大で
すばらしい存在か。被造物の世界だけに埋没する
ことなく、造り主であるお方についてもっと考え
祈り、学んでゆくときに、天の息吹に触れ、新たな
活気を与えられ、天のリフレッシュに浴する。
宇宙と自然を観察してその創造主を思い
歴史を学んで、そこに主の足あとを見る
とき、このお方は今、私たちと共におられて
ともに歩んでおられることを知らされる。
十字架を通して主と結ばれたいのちには
無限の可能性が約束されている。
(6・25)
「黒船に乗っていた仙太郎」について
これまでの日本史は、黒船を迎えるこちら側から
描かれることが多かったが「サム・パッチ(仙太郎伝)」
は米国人とともに日本を見つめるあちら側からの
視点が織り交ぜられている。クリスチャンになって
ゴーブルと共に再び来日することによって彼は
かなり、米国人的思考の中で幕末の日本を認識
し始めたようである。
米国人的というより、人種を超えたキリスト教徒として
というべきであるかもしれない。それは聖霊論的にいうと
創造主なる神と共に、被造物としての日本を見直した
ということである。歴史はHis Story であるという前提
にたてば、自分を超えた創造主、すなわち「あちら側」
から洞察されることによって、「こちら側」の自己および自
国の真実が明らかにされるのだと思わされる。
(6.22)
「神の宮」
人間の偉大さは創造主なる神を宿すこと
である。あまりにも素晴らしいので天使
は感嘆し、サタンは ねたんだ。
父なる神は 私たちの中で働かれる。
その力が現されるための条件は、まず
その主の臨在の事実を自分のうちに認め
ること、そして心ゆくばかり、神との愛の交わ
りをもたせていただくことである。
週の初めが主を賛美し、主との交わりをささ
げる主日であるのは、先ず主との交わりがあ
って、そして働きがあるということだ。
つまり、主によく祈り、よきコミニケーション
を持つ者の中でより力強く主は働いてくださる。
力の油注ぎは主の血潮と御霊による交わりの
油注ぎの後に与えられる。
(6・20)
「永遠の現役プレイアー」
主がこの世を去られる時、はたして引退
ということを考えたのだろうか。弟子に後を
託して。もし、普通の死を迎え、そこですべて
が終わるとしたら、あるいはそう思われたに
違いない。しかし、主は復活することを確信して
おられた。働きはさらに拡大され、徹底された。
時間と空間の中で活動された主は
復活の体によって、これを超えた活動を開始
されたのである。
主と共に聖霊なる神は、弟子たちの中に住まわれ
全能の力を持って働かれた。
死とサタンとを相手に、絶望的な戦いを強いられ
敗北的な生活をしていた者たちの中に今や、万軍の
主が住まわれ、戦われるのである。
傷つき敗れたわたしたちの中にも
主は来て下さる。
永遠の勝利の栄冠を共に受けて
下さるために。
(6・5)
「クリスマス・イースター・ペンテコステ」
クリスマスの前のアドベント(待降節)
からクリスマスと主のバプテスマまでの降誕節
40に日の四旬節(受難節)、受難週、そして
イースター(復活日)と40日間弟子の現れた
復活節と昇天、祈りの後の10日後のペンテコステ
(栄光の主からの聖霊の注ぎ)と教会カレンダー
は約7カ月かけて主の歩みをたどる。
これは神のこの世へのいわば、ソフトランディング
をふりかえることだ。
もし、神がその栄光のまま、いきなりこの世界に
おいでになったら、巨大隕石の衝突をはるかにしのぐ
激震で世界は危機に瀕したであろう。
神はそのような形ではなく、一人の幼子として
小さなベツレヘムの馬小屋にきてくださった。
「恐れることはありません」と。
それはわたしたちへのソフトタッチング
でもあった。そして、徐々にその全貌を
現わしてゆかれた。もし、神が神であるだけなら、
本当の意味での人との接点は生まれなかった
だろう。我々は人として、バプテスマを受けそして
聖霊を宿し、油注がれた者としての主を見る。
そしてわ.たしたちの罪を負われて、十字架で血を流され
死と地獄を体験された主を仰ぐ。
また、復活して弟子たちと親しく過ごされた主と出会い
永遠の交わりを体験する。さらに父なる神の栄光の
御座に着かれて、力の油注ぎを日々与え、やがて
再臨される完全な救いを成就される主を待ち望む。
この一連の出来事は創造主がその永遠のいのち
にわたしたちを招くためにご自身を低くされ、その
身を投じて下さった愛と犠牲の業である。
神学者は経綸的帰納的(時間歴史的)三位一体の働きという。
この永遠のいのちと交わりを与えられて、神の
内側に入り、いわば4次元の中でその交わり
を体験する、これは本質的内在的(空間的)三位一体
と表現される。
アタナシウスは「神が人になられたのは、人
を神にする(神の子)にするためであった。」
と語ったが、主が父なる神の御許からこの世に
下り、聖霊を受けられることによって、まことの
人の姿を回復され、十字架と復活を通してその
聖霊なる神をわたしたちに住まわせてくださる
ことによって、創造主なる神の救いのプロジェクト
は完成したのである。
(6・1三位一体主日を前に)
「ペンテコステ(聖霊降臨日)はどのように
して起こったのか?
主が栄光の御座に着かれてすぐに
起こった出来事でなく、10日後のこと
である。その間、弟子たちは祈りに
専念したと書かれている。
専念の祈りとは依存と信頼を全面的に
創造主に向けることである。
彼らが一切の被造物と己の自我への
依存をやめた時栄光の主は聖霊なる
神とともに本格な活動を開始されたの
である。
(2009・5・30)
「重荷を主に」
日常迫ってくる問題とプレッシャーに多くの
人が傷つき心の病に苦しんでいる。
もし、自分が自分に依存するならば
頼られた自分は遂にはつぶされてしまう。
聖書は「人間を信頼す者は呪われる」
(エレミア17章)と語る。
自分を頼るということは実は自分を神の
座において自分を偶像化することである。
だから無理がきて破綻する。
「神に信頼する者は祝福される」と
約束されている。(同17章)
創造主なる聖霊を心に迎え入れて
このお方に依存するなら、このお方が
問題を処理して下さる。
つまり、知性の次元を超えた霊の次元に
生きることが真の問題解決となる。
具体的には永遠から永遠に、父と子と
聖霊の交わりをしておられる創造主の愛の
交わりの中に聖霊によって参入させていただく
のである。これこそが至聖所での祈りであり、
御子イエスがその血の代価をもって
備えて下さった栄光の会見である。
旧約時代のいかなる偉大な預言者であっても
この特権はまだ与えられていなかった。
三位一体は知性の産物ではなく、創造主の
自己啓示として与えられた真理であり
いのちである。
(2009・5・29)
「創造主が共にいてくださる人生」(その2)
ある人には主が御一緒してくださるが、他の人に一緒におられないと
いうことがあるだろうか。
神はそのような不公平なお方ではない。親にとってすべての
子供が大切なように、創造主にとって、大事でない人間は
いない。
主がおられるのに、目が開かれていないのだ。
正確に表現するなら、霊であられる神を見る霊の目が
ふさがれているのである。
人間は4次元的存在なのに、3次元でしか生きていないのである。
鷲は翼が生えた雛鳥を巣から突き落とすことがあるという。
彼は落下してゆく恐怖の中でに、とっさに翼を広げ、眠っていた
能力に目覚めて空高く舞い上がることを学ぶ。
神の霊に触れられる時わたしたち
の霊は無限の可能性を帯びる。
創造霊に結ばれることによって、想像を超えた
いのちと力が流れてくる。
パウロはかつては、被造物としての己に頼り、
その己を高めようとしていた。
しかし己は創造主に結ばれるときにこそ、
自分を超えた新たな己を見出すことを知らされる。
「創造主が共にいてくださる人生」
わたしたちは普通の凡人である。
しかし主が共にいて下さることによって特別な人にされている。
ダビデは人里離れた野で働く羊飼いの少年であった。
しかし、主が共にいて下さることによって、彼は獅子や熊を
倒し、その仕事を見事に成し遂げた。
巨人ゴリアテとの戦いにおいても、主が勝利してくださった。
主がともにいて下さることは特別な恵みである。
これに勝る栄誉はない。この事実自体が、偉大な奇跡である。
(2009・5・27)
「創造主の内側と外側」
創造主は永遠、スピリット(霊)、絶対であり、力の源泉である。
被造物の悲劇は人類の離反とともに、創造主のアウトサイダー
に陥ったことである。こうして人間は霊的に死に、永遠を失った。
創造主は、被造物を憐れまれ、外側の世界に歩みだされた。
もう一度、我々を内側に迎え入れるために。
創造主が被造物となられることによってそれは実現した。
4次元が3次元に入られたのである。
このお方は十字架によって、我々の罪を負われた。
十字架の主を見上げるときに、罪は除去され、創造主の
内側へ入れられ、創造主なる聖霊が私たちの霊に入られる。
そこで復活の主と、父なる神との交わりへ導かれる。
永遠から永遠にある父と御子と聖霊の交わりの中に入れられ
るのである。
栄光の主を仰いで、霊における至聖所での交わりをするとき
創造主なる聖霊がその臨在を現わして、力ある働きを見せてく
ださる。
創造主の内側に生きることは永遠を生きることである。
(2009・5・25)
(続)
永遠を生きるという表現より、私たちに内におられる
永遠者に生きていただくというべきと思う。
「私が」でなく「創造主が」という生き方が本来のあり方で
ある。私はいつも何事かをなさんとする。
しかし、その前に、私のうちに来て住んでくださって
いる聖なる創造主に感謝し、そのプレゼンス(臨在)の
恵みをもっと喜ぶべきだ。
一人でいる時も、人々の中にいる時も。
そうしてこのお方がどのように働いて
おられるか、体験させていただきたい。
「メーカーのもとへ」
人生に挫折し絶望したある人物が
時を定めて、定刻になったら、自ら
の生命を絶とうと考えた。
とこらが時計の針が動かず、予定の
時刻がこない。彼はふと考えた。
「この時計は自分のように壊れてしまって
何の役にもたたたない。だがメーカーに
もっていったら、新品のようにされ修繕さ
れて動き出すだろう」
ところで「一体自分のメーカーは誰なの
だろう?」と。
その時、彼の心にひらめいたのは真
のメーカーでありクリエイターである
創造主のことであった。
そうだこのお方のもとに、立ち返る
なら、すべてを御存じの方はすべ
てを新しくしてくださる。」
彼は祈った「主よあなたから離れた
私を十字架の血で赦してください。
私は自分をあなたのもとへゆだねます」と。
創造主は答えられた、「あなたは自分を
わたしに捧げてくれた。だからわたしも
自分をあなたに捧げよう」と。
この瞬間、彼は至高の富を手に入れた。
彼は創造主をもつ者とされ、最上の
栄誉に浴する者にされたのである。
神はあなたにもご自分を与えたいと
願っておられる。そして最も幸せな人に
なってほしいと願っておられる。
(2009・5・26)
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