いきなり、新約聖書を読むとありえないようなことが次々に書かれていて、とてもついてゆけないという思いやばかばかしく感じることもあるのではないでしょうか。
不可能と限界の壁に取り囲まれた日常の生活をしている者にとって、それは神話かおとぎ話のように思えることもあるにちがいありません。その最たるものが「処女降誕」であり、「復活」ではないでしょうか。
そこでこれを理解できるように解釈したのが「非神話化」という方法です。奇跡現象はひとつの人生訓を表現するための手段であり例えであると考えたのです。いわば聖書の人間化というべきでしょうか。
超越の部分をすべて比喩と捕えて、人間が納得できるレベルに置き換えて解釈します。孔子の倫理思想のように読んでゆくように。
しかし、ここでも主の要求のあまりのラディカルさにとまどうのではないでしょうか。
「人を憎むことは殺人と同じ」であり、左の頬をうたれたら右の頬をさしだしなさいとか、全財産を貧しい者に与えなさいとか。そのそも、神を愛し、隣人を己のごとく愛することが人間に可能でしょうか。
そもそも愛しなさいという教えが私たちにとって無理な要求であり最も重たい律法ではないでしょうか。
しかしその重圧にあえぐことの中に実は答えがあります。聖書で言う「罪」の原意は「的をはずす」と言う意味です。そして旧約聖書(新改訳)では「神は信頼の的」であると書かれています。
つまり、人生の問題の根源は創造主に頼らずに、被造物である自分の力(道徳性も含めて)や他の物(者)にのみ依存するところにあるということです。
被造物あるいは被造霊に依存する限り、私たちは不可能の世界に生き、死の壁を破ることはできません。
創造主に結ばれることによって人はすべてが可能な世界に生きることできます。キリスト教世界が西方と東方に分かれる以前の神学者アタナシオスは「神が人になられたのは人を神にするためであった」と語りました。
三位一体の神はそのファミリーの独り子を私たちにプレゼントして下さり、十字架刑と言うあまりにも大きな犠牲の代価を支払ってくださいました。御子は復活して生きておられますから、このお方に信頼する時に罪の赦しと言う絶大な恵みを自分のものとしていただけるのです。
罪が清められると借金取りのようなサタンンの告発から解放されます。そればかりではありません。
もう一人のファミリー聖霊なる神が私たちの内側に内住されるのです。有限なはずの私たちが永遠の存在に変えられるのです。
創造主なる御霊によって、永遠の神と結合されるからです。アタナシオスは神の人間化と共に人間の神化が起こったと語ります。もちろん私たちはあくまで被造物でありますが、神のいのちに生まれることにによって、可能と復活の世界が開かれます。
そしてこの創造霊に依存することによって、このお方御自身が私たちの内側から父と御子と交わり(神を愛し)そして、隣人を愛して下さるのです。
主はどのように十字架を負われたのでしょうか。「御霊によって」とあります。御霊に依存し頼るなら御霊が働かれます。ですから私の荷は軽いと語られました。
この生き方の一端でも体験しますと、俄然、聖書のことばがリアルに迫ってきます。
そして状況が八方ふさがりという不可能の壁に取り囲まれていましても、内にいますお方がすべてを可能に変え、困難の中でこそ栄光を現わして下さることを知るのです。
聖書の主人公は私たちを愛し、私たちと共にあゆまれる創造主なる神であります。主の年2012年のアドベントそしてクリスマスが祝福に満ちたものでありますようお祈りします。
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