創造

創造主とセルフイメージの世界

村田若狭・フルベッキ・上野彦馬写場

2024-08-10 19:41:47 | 福音

 

佐然賀藩の家老であった村田若狭がフルベッキ宣教師から洗礼を受けたのは1866年(慶応2年)5月20日ペンテコステの日でした。フルベッキ書簡集(高谷道男編訳・新教出版)にはミッション本部に送られたフルベッキ自身の詳述があります。

ところで本の口絵にある写真の説明(キャプション)には「村田若狭(前列中央)と二人の子息、後列は村田の家臣たち【慶応2年上野彦馬撮影】」とあります。

しかし何故か、以下のように同じ写真の説明には「文久元年(1861)長崎において」とあります。

上野彦馬撮影局について長崎市新大工町の歴史には

正徳元年(1711)旧鋳銭所(中島銭座)に孔子を祀った儒教のお堂である長崎聖堂が規模を拡大して移転してきた、とあります。

  慶応元年、江戸町にあった洋学所は元長州蔵屋敷跡地に移され、「済美館」と改称、明治元年には元奉行屋敷跡を修理して

 「広運館」と改称。洋学局のほかに国学と漢学を新設。同2年漢学局を中島聖堂内明倫堂に移しました。

 (長崎県教育史95頁)

  

*中島聖堂由来記長崎聖堂と長崎盲唖院 — 「中島聖堂由来記」を中心に | tomotake kinoshita (tmtkknst.com)

の略図(往時の中島聖堂)を見ますと奇妙なことに孔子の聖廟が北西部から南西部へ移されていること、北西部の敷石の配置がフルベッキ写真写場のそれと一致しております。

尚、文久2年(1,862)、中島鋳銭跡地に日本初の上野撮影局が開かれた、とあります。

 

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