今日は三人の青年が教会を訪問され、日英友好のメモリアルプレートの保存の要望をうかがうことができました。今後のために祈っていただきたいと思います。
東日本大震災について、主に旧約聖書の出来事、そして黙示録が思い起こされます。自然現象に関わる天使の介入のことです。科学的な究明と予防対策が急がれるところですが、自然異変が単にそれ自体に根本原因をもつのか、旧約聖書的な律法の祝福と呪いとしての側面をもつのか、それぞれの主観と解釈によって異なると思います。
ところで、ヨハネ福音書は他の福音書に比べて、悪霊追放や小黙示録的記述が極めて少ないことが分かります。これは非神話化されたギリシャ異邦人に配慮して、天使論的な部分を極力省いたからでしょうか。それともユダヤ教に再び退行しようとするキリスト者に対して福音の優位を説くためだったのでしょうか。
確かに主イエスの言行は同郷ガリラヤで活躍したカリスマ的預言者エリヤやエリシャと共通するものがありましたから、その違いを鮮明にする必要もあったのでしょう。
ヨハネ福音書は、物質的地上的祝福よりも、霊的永遠的救いと祝福に目を向けます。天使の働きよりも、創造主ご自身である聖霊の働きに焦点をあてます。
ユダの手紙9節に「モーセの体についてミカエルとサタンが論争した」とあり、またヘロデ王によって投獄されたペテロを天使が救出した(使徒12章)とありますように、外的部分への介入を担っていたことが分かります。しかし人間の最も深い次元、霊に内住され永遠の生命をもたらすのは創造霊の直接的介入であります。
けれども私たちは依然として肉体と言う器をもって生きています。その限りにおいてマタイ福音書にある主の言葉のように律法の適用を受けているのだと思います。つまり天使は今も働いているということです。モーセに律法をもたらしたのは天使でしたから、天使を仲介にした約束が今なお続いているのかもしれません。自然現象と人間の倫理的関係が問われるとすれば、この点なのでしょうか。
主は私たちの罪を負われて、呪いの十字架にかけられました。それは私達が霊と心と体に祝福を受けるためでありました。
謝罪と和解は祝福への道であると思います。
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