goo

2017.10.22 リリー荘物語(その2、Eさんとの感動の再会)

明石大橋が出来上がる頃でした。
まず、橋が開通した時点で、希望者に解放し大勢で歩いて渡ることが行われました。
私は家が遠いのと足が痛いので考えもしませんでしたが、地元である舞子の友人は歩きました。
その友人が「先日橋を歩いたよ。その時、Eさんに会ったわよ。」 と言いました。
「Eさん?だったら、私の話にならなかったの?私が元気か聞かなかったの?」と思いました。 
私は、ショックを受けました。

次に、いよいよ完成して自動車道として解放する前に、最後にもう一度人が通れる日が設けられました。
その時も友人は言いました。「今度もやっぱりEさんと会ったわ。不思議やね、会う時は会うもんやね。」

私は落ち込みました。Eさんは私を懐かしくないのだ。このショックは大きくて、辛いものでした。
きっと、私は何か嫌なことを彼女にしたに違いない。それならば、今からでも謝らなければならない。
(実は後で聞いたところによると、舞子の友人は、私とEさんが仲良しだったとは知らなかったので、
私のことは言わなかった。すれ違っただけなので、挨拶だけだったと。) 

私は絶え切れず、昔の住所録を持ち出して来て、勇気を出して彼女に電話しました。 彼女が結婚した後
いつの間にか、連絡が途絶えてしまっていたのです。
すると、電話に出て来た彼女は大喜びしました。
彼女は子宮筋腫の手術をした直後で、あまりの苦しみの中で「これを乗り越えたら、◯◯さん(私のこと)
に電話しよう。それを楽しみに頑張ろう。」と苦痛に耐えていたと言うのです。
そう願っていたら当の本人から電話があったので、以心伝心こんな偶然があるのかしら?と思ったと。

私も、安堵しました。私は悪いことはしていなかった。思い切って電話して良かった。

そして、彼女は手術の苦しみが癒えた後すぐ我が家へ来てくれました。明石から東灘は病後には遠いでしょうに。
駅へ迎えに行く約束でしたのに、一刻も早く会いたかったからと、彼女は早目に自分で探してやって来ました。 
高校時代に一度来たことがあったので、何となく分かったそうです。 
と言っても、大震災の後、まるで別の町へ来たかの様な錯覚を覚える程、廻りは様変りしていましたのに。 

35年振りの再会でした。
彼女は、「いつも、悲しいことがあるとあなたの家の裏山に登って思い出していたのよ。一番会いたい人は 
いつも貴女だった。」と言いました。その時、私は母への感謝が込み上げました。
あの戦後の何もない貧しい時代なのに、 私が友人を連れて来ると母はとても喜んでくれました。
両親とも私の友人達を優しいまなざしで見てくれていた。それを思い出すと感謝で一杯になるのです。 
 


 

なお、17年前の自分のホームページから、関連分を下に添付します。

 

ホームページの中に「みずえのひとりごと」という、エッセイの様な日記の様なものを書こうと
思っていましたが表題のイラストがどうしても出来なくて悩んでいたのです。
しかし、彼女との再会の嬉しさで一気にアイデアが固まって、その日の内に描き上げたのが、
上のイラストです。嬉しさに踊っています。

「みずえのひとりごと」→ http://www.mizue-kobo.jp/40-hitorigoto-top/000hitorigoto.html


  

「みずえのひとりごと」のイラストを彼女用に「会えてよかった」に変えました。
泣きそうな心の震えは何週間も続き、父母への感謝が込み上げる日々でした。 

 

 

彼女が、こんなにもお花好きであることとは知らなかった。
お庭の花をおしゃれに束ねるセンスは、抜群であると思った。
彼女は、この白い花はお母さんにお供えしてねと言った。 
お母さんに優しくしてもらったと、何度も言った。 

 

 

都会で戦渦に会い焼け出された人達(その人達の為に近所に何百軒という大きな市営住宅群があった)や、
我が家の様な引揚者の家族が、何も無かった神戸の片田舎の漁村に、戦後都会の文化を持ち込んで
くれたのだと彼女は言った。子供心に本当に驚いたものだそうである。
我が家は特に文化的な家ではなかったけれど 、少しは違うものがあったのかも知れない。

 

 

私は定年退職後一時期シャンソンを習っていて、先生にこの時の感動を話した。
父や母への感謝で心が震えっぱなしの日々で、その日も感謝の涙にむせびながら
家へ帰ったことを思い出す。
何とナーバスになっていた日々であったことか?


(私は子供の頃キリスト教会の幼稚園に行っていたせいか、親に感謝するタイプで、
何かあると「お父さんお母さんありがとう。」と心の中で感謝する。もちろん神様にも。
人に良くして貰った時、偶然良いことがあった時その他いつでも。脚が痛くても関係ない、
病気でも全然関係ない。いやそんな中にむしろ感謝することが沢山ある。
思わず心に浮かぶ言葉、それはいつも「お父さんお母さんありがとう。」です。
兄嫁が最近言いました。「そうだったの?教会の幼稚園だったのね?それで分かったわ。
何故貴女が神様神様と言うのかが。いつも不思議だったのよ。」と。
私は別にクリスチャンでもなんでもありませんし、あまり意識していませんでしたが、
「三つ子の魂百迄」かも知れませんね。
それにしても、兄嫁は結婚後50年以上も経ってから、小姑の謎を解明した訳ですね。^^)
 

※  なお、その頃、脚が激痛の中で隣町のシャンソンの先生のところへ通うのに苦労しました。
  まだ、震災後全壊した町の復興が出来ておらず、道はでこぼこして危険でした。
  両膝がまるで大きな提灯の様に膨らんでいて全く曲がらない私は、何かにつまずいたら
  勢い余って一気に顔面から地面に激突します。一瞬です。アッと言う間もありません。
  お土産のケーキの箱を持って転んだ私は、ケーキが見事にぺちゃんこになったことばかり
  気にしていましたが、砂利で擦りむいた顔で到着した私を見た人達はよくぞそれで済んだ
  ものだと驚いていました。
  後で私も気が付きました。砂利だったから良かったけど、固いものに当たっていたら、
  何かの角に激突していたら、釘でも出ていたら、もし目でも突いていたらイラストを描く
  どころではないところでした。ぞっとする様なことが沢山あった日々でした。

  

「みずえのひとりごと」から、この再会の日のページをリンクします。
http://www.mizue-kobo.jp/41-2000-11-hitorigoto/00011hitorigoto.html 
 


  

 

そして、恥ずかしながら、私の執念の固まりの自分のホームページ「みずえ's ほのぼのハウス」を
リンクします。
私は、どうしてもホームページは自分の家と言う概念を持ちたく、そこへ行く「往路」、そして
そこから帰る「帰路」というイメージで作りたかったのです。 
http://www.mizue-kobo.jp/index.html
 

ひつこい様ですが、もちろんまだその頃は、ホームページって何?という時代です。 
今では、それらを楽に作れるブログと言う形式のものが出来たので、こんな苦労は昔話になりました。
ネットショップも死にそうになって作りましたけれど、いずれは楽々と作れる様になるでしょうね。

第一、昔は険しい山にわらじと杖で登るしかなかったけれど、今はケーブルカーやロープウエーで
足も傷めず楽々と登れます。
すべてがめまぐるしく進歩する、どんどん便利になる、有難い時代の到来です。 



◎ なお、第1話と第2話は少し重たい内容でしたが、次回の第3話は抱腹絶倒のお話です。
実は、それを早くお話ししたくて、うずうずしていました。
どうぞお楽しみにお待ち下さいませ。 

 

 
コメント ( 0 ) | Trackback (  )