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2017.10.15 リリー荘物語(その1、「リリー荘」の名付け親、そしてこの20年の私の歩み)

      

今回は、「リリー荘」の名付け親に付いて書きたいと思いますが、まず、私と麻雀との出会いから書きます。
いろいろな思いが蘇りどんどん長文になってしまい、恥ずかしくて逡巡しましたが、勇気を出してUPします。

さて、麻雀については、小学校の同級生達が私が定年になったら一緒に麻雀を始めようと50代から待ってくれていた
ことは前に書きました。

しかし、その間に大きな出来事がありました。阪神大震災が発生しました。私はその時香港旅行中で命が助かりました。
何と言う幸運!大の旅行嫌いな私がその日に限って、日本に居なかったことは亡き母の導きだったと今も信じています。
阪神大震災で家が全壊した私に、思いがけなく多くの元職場関係の方々がボランティアとして現れ、献身的な協力により、
1年半後、家の再建が叶って神戸に戻ることが出来たこと、彼等の姿から多くを学びました。私はその感謝の思いから
今度は自分が何か役に立たねばならないと決心し、定年の1年前に職場を辞めました。
避難生活の苦しい1年半の間に、ある雑誌でパソコンのマッキントッシュを知りました。その時、もしも生きて神戸に
戻ることが出来たらマッキントッシュを買おう。そして命がけで新しい人生を切り開き、何か社会に役立つことを
したいと固く固く決心し、それを目標に苦しい復興の日々を頑張りました。

神戸へ戻ってから念願のマッキントッシュを買いました。パソコンに初めて出会った衝撃は私にとって強烈でした。
こんなものがあったのか?パソコンは自分さえ努力さえすれば何でもありの世界だと思いました。これで私は恩返し
が出来る。そう思った私は逸る気持ちを抑えきれず、神戸再出発と同時に定年の1年前に職場を辞めました。
(パソコンはまだ職場に1台あるだけで、それをワープロとして使っていたのが私だけでした。パソコンは無知でした。)
初めて握ったマウスで首を攣らせながら、毎日明け方迄マッキントッシュと文字通り格闘する生活を始めました。
私にとって退職は自分に出来る何かを探す旅への出発だったと言うのが正解です。毎日時間が足りませんでした。

麻雀どころではないけれど、約束なのでそうも行かないと思い、1年間待たせた後ようやく麻雀を開始しました。
私は、そのたった1年間で歩けない程に足を傷めていました。その頃は近所の医者も大病院でも、どこも悪くない
と言われ、では何故こんなに歩けない程激痛なのかと聞いても、さあと言われる始末で(現在では筋肉は使わない
と衰えることは常識ですが)、私はもう諦めてパソコンとの格闘を続けました。
私は、食材を自分で用意し朝昼晩の食事はきちんと作っていたので、自分が病気になる筈はないと信じていたので、
何が起こったのか理解出来ませんでした。
私の膝は元々震災復興の瓦礫撤去作業で傷め正座は出来ない状態でした。そこへ退職後1年間の座りきりの生活で、
ついに膝だけでなく足首にも来てしまい、足首に来たらもう終わりだと言われていました。

そんな激痛の中でも全く自分に容赦ない過酷な日々を過ごし、自分でホームページを作る為に奮闘していました。
その頃は法人がようやくホームページを作り始めた時代で、「ソネット」のサポート部門も法人部にありました。
「個人のホームページを、たった1人で作ろうとしている人が居る。しかも女性だ。」と評判になり、大変親切に
サポートして頂きました。受付は深夜11時迄でしたが、私には延長してくれました。そして個人でここ迄大規模な
ホームページは世界中の何処にもないと言って励まして貰い、ようやくUPに漕ぎ着けた日の喜びは忘れません。
「ソネットさんには足を向けて寝られない。」と言うのが私の口癖でした。
私はその世界に全く無知なので、そんな大それた挑戦をしたのかも知れません。当時目が悪かったのでネットも
見ることができなかったのです。
知人のプロが私の案を「インターネットを知らない人の案だ」と言いましたが、別にいいじゃない自分のホーム
ページなんだからと心で反論し、頑として諦めませんでした。無知の怖さでしょうか?
でもそんな無謀こそ、いかにも私らしいと言わざるを得ません。


そのホームページに載せるイラストを描くべく私は、イラスレーターで絵を描き始めていました。
その頃は、マックの先生でさえもパソコンでは漫画しか掛けないと思っておられたので、写生画に挑戦した
オバサンの私は、専門家に驚かれ注目の的(?)でした。これはどうやって描くのかと聞かれました。
プリーズばかりする発展途上のパソコン、老眼なのに暗く粗く小さな画面と格闘して微細な点描の絵を描く毎日、
酷い頭痛に悩まされ、ついに目を傷めて手術もしました。胃痛と湿疹は日常茶飯事でした。
パソコンなら何でもありの世界だと信じていた私は、出来ないとは考えず、ただ自分の努力が足りないだけだと
思っていたので、試行錯誤の明け暮れで気が付いたら朝日が射していることもよくありました。

絵など描けないと思っていた私が、コンピューターグラフィックを描き、廻りの強い勧めでまさかの「作品展」
を開催。50日間休み無しの開催で650名の来客があり新聞にも載りました。めまぐるしい人生の回転でした。

それでも、私は激しい焦りから眠れませんでした。友人が私の悩みを聞くので打ち明けました。
「この手法は誰も知らない私が開発したものだといくら思っても、老眼と格闘してやっと描いている私、
若くて目が良くて体力もある人達がやれば、すぐ追い越されてしまう。だから寝てはいられない。」と。
すると彼女が言いました。「まさか、こんな苦しい作業を若い人がすると思うの?絶対しないよ間違いなく。」
その言葉に救われました。
そうでしょうね。ここまで自分を追い込む必要はない筈。若い人は違う別の道を見付けるでしょう。
私はたまたまここに辿り着いてしまっただけ。他を知らないだけ…。少し眠れる様になりました。
最近になってパソコンのプロが言いました。「あの時代にあれをやり出したのは凄かった。今ならもっと楽に
あれ以上のことが出来たでしょうね。」と。
当時のパソコンの性能を思えば、プロペラ機での飛行とジェット機の飛行とを比べる様な隔世の感がありますね。



麻雀も始めた以上は遠路はるばる参加し、時には我が家も解放し食事も作ったり、麻雀以外でも毎年10組程の
食事招待をし(粗食、家庭料理のみ)、毎年お正月はおせち接待をしました。
お世話になった方々に一生おせちご招待をするんだと心に決めていました。

一方で、人の為ならどんな無理もしたい私でしたが、遠出をすると帰宅後泥の様な眠りを身体が要求しました。
その深い眠りの中で一種の臭いを感じました。足が激痛の時独特の臭い。あ、やはり酷いのだと分かりました。
脚の炎症から発生する何か(毒素?)が身体中を巡っていると思いました。
その泥の様な眠りから目覚めるのはいつも夜の静寂の中で、雨戸を閉める時隣家の夕餉の団欒の音が聞こえて
きて、どちらかと言うと感謝に溢れて生活していた私も、以前読んだ詩の一節を思い出し寂しさに襲われました。
「夜更け(夜半だった?)に目覚めることこそ悲しけれ」……誰の詩だったでしょうか?深く共感したものです。
目覚めてから晩ご飯を作り(割合きちんとした)食べてから、又明け方迄「トライトライトライ」の毎日でした。
今考えれば、この頃の生活を一言で言えば、まさに「トライ!トライ!トライ!」以外には無い様に思います。

その内にストレスからか両手の激痛が始まり、手が肩から上に上がらなくなり服の脱ぎ着も困難になりました。
両手両足の激痛で起き上がるだけに25分かかる様になりました。(ベッドではなかった)
でも、嬉しいことには手首より先は使えたのです。包丁は持てる布巾が絞れる。助かった!私はツイている!
人はほとんどそれを知りませんでしたし、私はそれで気持ちが萎えることはなく、まだまだ感謝が足りない、
もっとお役に立ちたいと思っていました。そんな明け暮れでした。
震災で命を助けられた運命へ、そしてあの様に長期間の献身的なサポートで家の再建を果たして貰った方々への
感謝の思いから発したとは言え、今から考えれば、まさに狂気の様な日々だったと思います。
良く言えば、ひたむき、悪く言えば頭がおかしい、当時はほんとにテンションが異常でした。

苛酷な毎日だったとは思いますが、私はこの様な苦労は過去に何回かあり(震災の復興の時など、神戸で家を
全壊した私が地震の被害がほとんどなかった大阪の職場で働きながら土日に神戸で復興作業をしていた日々
のことは、人に理解して欲しいと言う方が無理なのです。反対なら私だってわからなかったかも知れません)、
私は子供の頃から、神様が用意された試練は後の苦労を乗り超える為に必要だから準備されたものだと思って
いるところがあり、それを乗り越えて来たのでそれらがまさにこの時の頑張りに役立ったと納得していました。

ただ、私はおしゃべりのくせに自分の状況を言わない傾向があり、震災の時など特に「どうして〜?口がある
でしょうに」と友人に言われたことがあります。窮状を訴えないこの性格が、自分を生き難くしている様です。

震災時の避難生活中の日記が10冊程あります。得難い献身的なボランティアの方々への心からの感謝が綴られて
います。家族がいる人でさえ再建を果たせなかった方々もありましたのに家族のいない私が、しかも勤めている
私が家を再建出来るなんて誰が思ったでしょう。そして避難場所であった寮の皆さんの温かい配慮は生きる勇気
になりました。一方で余りにも苛酷な日々と苦しい不安を書いています。でももう読むことはないでしょう。
 

さて、無理を承知で参加した麻雀は楽しくて、全員夢中になりました。
メンバーの内の1人を除き、麻雀を知らなかった私達3人は麻雀教室に通い基礎を習ってから皆で合流しました。 

その頃です。同じく小学校中学校時代の親友Eさんと感激の再会をしたのです。
その彼女との再会には、二人にとって感動の物語があるのです。
そして彼女を麻雀に誘い合流しました。
何故延々とその頃のことを書いたかと言いますと、その狂気の様な日々の中で彼女と再会したこと。
そのことを、思い出さないではおられなかったからです。

そのEさんが「リリー荘」の名付け親なのです。

ある時、メンバーの家で麻雀をしていた時、私がダントツのトップになりました。
その頃私は「甲南山手」に住んでいて、その日胸に白い百合の花の模様のあるセーターを着ていました。
すると、彼女は突然、「甲南リリーさん、バンザーイ!」と叫んだのです。

その日以来、私の麻雀名(そんなのある?)は「甲南リリー」となり、我が家は「リリー荘」になりました。
これが、リリー荘の名前の謂れです。^^



「リリー荘の名付け親」という、たったこれだけのことを言うのに、余計なことを沢山書いて済みません。
次から次へ湧いて来て長文になりました。お許し下さい。

しかし、これだけ書き連ねても当時の狂気の生活の半分も言い得ておりません。(イヤハヤ!^^!)
 
数年前に狂気から目覚めて、 努力して足も治し、パソコンへの過度な期待は無謀な夢だったと悟りました。
麻雀に何年振りかで参加した時、私がスイスイと歩いて来たので「え〜?本当に◯◯さんなの?足なんて
治るものなの?」と仰天されました。最悪の時はゴミ出しまで人にやって貰っていた私が復活したのです。
私自身の感激たるやいかに! お察し下さいませ!!
 

我が家をリリー荘と名付けられた17年ほど前のことに思いを馳せて、今しみじみしております。

次回は、彼女との感動の出会いに付いて書きたいと思います。
もしよろしければ、次回もお付き合い下さいませ。 
 


(追記)

震災後再建した家に10年間住んだ後に西宮へ転居しました。そこでもう1つ大きな山が待っていました。
高額な家賃の重圧に悩み一念発起「ネットショップ」を目指しました。ネットショップの構築は300万
が相場。素人には絶対無理とのこと。それでもまたもや絶壁をよじ上る思いで、自分で立ち上げました。
何も分からない素人が一人で途方に暮れながらの格闘でした。プロから見たら欠点の多いショップかも
知れませんが、私の全力を投入しました。お陰さまでショップは今年開店10周年を迎えました。

定年後約20年、力のすべてを投入した結果、ようやく心の平安に辿り着きました。仕事の成果は当初の
目標にはほど遠いものですが、得たものがどんなに多かったかを実感します。感謝の思いしかありません。
言い過ぎかもしれませんが、遣り切ったと言う気持ちはこのことでしょうか?それ故の平安でしょうか?
78才にして、ようやく自分の老後に辿り着いた心境です。初めて得たこの平安が長く続きます様に。

 

 
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