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2021.11.25 Kさんと会食、その後「リリー's cafe」で、お茶をする。

40年前、N支店へ勤めていたとき、猛烈勤務で、その日の内には帰れないほどだった
ことがあった。

その時、職場のすぐ近くに、店主が言うには「一膳飯屋」、一般的には、居酒屋を経営
していたのが、Kさんだった。
その時は、百貨店などが6時に終了する時代で、勤めている人は、食材を調達するのに
苦労していた。その為、私も、大型の冷蔵庫を買って対応しようと努力していた。

ある日、その店に立ち寄ったところ、「もし、遅くなって、提灯が消えていたとしても、
窓に明かりが付いている時は、貴女だけは入ってきても良いのよ。片付けに2時間ほど
かかるので、何もなくても、お茶漬けだけでも、食べて貰えるからね。」と言って貰った。
地獄に仏とは、このこと。それで、そうさせて貰っていた。
私の方が、店を閉めるよりも遅くなる時は、職場のドアまで、ご飯と秋刀魚の塩焼き
などをとどけてくれた。
おかげで、命を繋ぐことができた。
彼女のこの言葉を、それから38年経ったが、私は、忘れたことはない。
恩人を忘れるような、私では無い。

彼女の料理の腕前は、多分日本中の女板前の、全てを足しても、トップと思われるほど、
凄腕の女板前、それが、Kさんだった。
調理の腕、知識、心配りなど、優れたものを持っておられたが、能力だけでなく人柄も
慕われる人だった。
調理については、様々な知恵と技術を、私は教えてもらった。
私が、自称一番弟子だと言うのは、このことである。
私以外の人は、彼女から、料理を習おうとする人は、一人も居なかったから。

身体を壊して、惜しまれながら、彼女も、悔しいもっともっとやりたいと願いながら、
店を辞めて15年になるが、いまだに彼女のことは、語り草となっている。

彼女が店を閉めた後、彼女と、私は、よく会って、一緒に市場に買い物に行った。
彼女の魚の見立て、野菜の買い方、とても参考になった。
元々、彼女は、高血圧で目眩がして危険なので、入退院を繰り返し、次に、大腸がん
で大手術をして、しばらくして、今度は、胃がんで,胃の5分の4を切除して、
それでも、また会える時は会っていたが、今度は、腎臓がひどくなり、脚が腫れて
歩けなくなった。
今は、目眩がするので遠出は出来ないが、少しは歩けるようになった。



今日は、こうやって、一緒にレジに並ぶと 、昔を思い出して、嬉しく懐かしかった。


時々電話して、様子を聞いていた私が、阪神西宮駅前のお寿司屋さんへ行こうと誘った
ことから、今日のランチとなった。
私は、このお店が新しいと思っていたら、Kさんは、昔仕事帰りに毎日の様に来ていた
店なのだとか。とても懐かしがっていた。



食事の後、食べすぎて息切れがするので、自宅へタクシーですぐ帰りたいという彼女を、
気の毒かなと思いながら、我が家へ連れてきた。
喫茶店のかわりに、我が家の「リリー"s cafe 」で、お茶をして貰おうと。
もし具合が悪くなったら、タクシーで送ろうと思っていた。
すると、どんどん元気になって、話に熱が入り、その頃の思い出話に次々と花が咲いた。


更に、帰り際に、エレベーターホールでも、立ち話すること20〜30分。
すっかり彼女は元気になってくれて、安心した。
また、我が家でお茶をしましょうと約束して、元気に帰って行かれた。



彼女が帰って、外を見ると、すっかり夕暮れだった。
11時に待ち合わせて、5時まで、よく喋ったな〜。楽しい1日だった。


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