英国SLC探照灯管制レーダー系統から国産化の譜系について(令和3年12月08日)
戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給からの抜粋
第三編 第二章 南太平洋方面航空技術補給戦の敗退(昭和17年中期~18年中期)P335
陸軍 電波標定機
標定機の研究は、陸軍科学研究所で昭和14年ころから開始されたにもかかわらず、遅々として進展しなかった。
標定機の本格的な研究は、昭和17年(1942年)後半から開始され、しかも其の急速完成を要望される戦況にあった。
比島において鹵獲した米軍の電波標定機SCR-268の調査、研究によりようやく開発の目途を得、昭和18年初めに1型(住友通信工業株式会社)、2型(東京芝浦電気株式会社)各1機が完成した。
上記資料から分かるように電波標定機、所謂射撃管制レーダーの開発の目途が立ったのは、大東亜戦争の開戦により、シンガポールやフィリピンの占領による射撃管制レーダーの技術情報や装置自体の鹵獲が契機となった。
この経緯を時系列で下記に列記する。
シンガポールの攻略(昭和17年(1942年)2月15日降伏)
シンガポールで英軍のGL MKⅡシステムの鹵獲とSLC装置(サーチライト・コントロールの略称)のマニュアルであるニューマン・ノートを取得した。
ニューマン文書として取りまとめ、昭和17年(1942年)6月22日南方軍兵器技術指導班編として関係機関に配布した。
ニューマン文書 https://drive.google.com/file/d/1f0djEU9XZRONBhIe6cljwX8E_6qba4_P/view
英軍のGL MKⅡ https://drive.google.com/file/d/1J7hVir5FsyicRD-rDc3zDQNREU32mPk2/view
フィリピン作戦 コレヒドール攻略
KSRHラジオから全軍へ降伏を命じるウェンライト中将(昭和17年(1942年)5月6日降伏)
米軍SCR-268、SCR-271の鹵獲
米軍SCR-268 https://drive.google.com/file/d/198qf6C0eqRHWW-_F-tUchPeqD2uVvRJG/view
米軍SCR-271 https://drive.google.com/file/d/1JKdXOBu7C9360hJdm4XHdSI4vLTqIZ8b/view
国産化の譜系について
タチ1、タチ2とも、幻のレーダー・ウルツブルクの津田氏は、米軍の電波兵器を参考に独創的な設計を行ったとの記述があるが、陸軍として日本電気(住友通信工業)と東京芝浦電気株式会社に対して何の制約もなく、早急に電波標定機の試作を要求したもので、メーカーとしては、ニューマン文書から英国のSLCレーダーの理論の位相環(phase ring)を基に開発に着手したものと思われる。
とはいっても、シンガポールにSLCレーダーの配置はされておらず、完全にニューマン文書の資料だけで射撃管制レーダーを短期間で国産化したことになる。
ニューマン文書は戦後も保管されていたが、何故か原本のみで英訳された資料がない。
このため、SLCの理論の部分だけ英訳したものを以下に掲載する。
SLCの外観
SLCの理論 https://drive.google.com/file/d/1IpiUw8ymUL2mBdYaVKpKOf1PalZSBfo2/view
SLCで日本側に有用であった技術としては、使用周波数が200Mhzであること、空中線には位相環(phase ring)方式を採用し、レーダー指揮官による標的のマーカー技術としての信号選択器(Selectorのことで、独逸のウルツブルグの黒点と同様の機能)の採用などがある。
※参考資料 位相環(Phase Ring)とは
受信用空中線ローブ(Lobe)切換器により、左、上、右、下の空中線をセルシンモーターにて順次に切り替え、受信機側では切換同期用のセルシンモーターで切換え位置との同期をとることにより、左右と上下の受信ローブを形成する。
これを検波すれば、左右の受信感度レベルの差を零にするように空中線を水平に動作させることで物理的な位置が受信目標の方位角となる。
上下についても同様な操作により受信目標の仰角を測定することができる。
このような測定法をコニカルスキャン(conical scan)による等感度方式という。
この位相環を採用する最大の利点は、左右と上下の4つの空中線からの受信波を時分割することにより、1つの受信機で対応できることにある。
以下個別の国産化レーダーの開発事例を以下に示す。
電波標定機1型(住友通信工業株式会社)タチ-1
幻のレーダー・ウルツブルクからの抜粋 P45
日本電気は小林正次研究所長、大沢、森田、櫻井、三浦、田中、笠原、国府、内山、香川、長谷川、満、堀内技師たちが米軍兵器を参考としながらも独創的な設計で昭和18年初めに完成し、“た号1型電波標定機”と命名された。翌昭和18年までに35台生産された。
日本無線史からの抜粋 P151
周波数200Mc、尖頭電力10Kw、対飛標定距離20粁、測距精度正負100米、測角精度正負1度、測高精度正負2-3度、重量2.5トン、試作会社住友通信、実用化及び生産化済但し生産30機にて中止、標定距離増大及び安定度向上のため改4型送信機及び変調機に改修中
Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Armyからの抜粋
タチ1:
その他の名称:電波標定機1型(Radio Locater Model 1); タ号1型(Mark Ta Model 1)
タチ1は、シンガポールで鹵獲された英軍のSLC装置のコピーである。
住友通信(日本電気)は、1942年6月から1943年7月にかけて約35台を製作した. タチ1については、押収文書に記載されており、これらの装置は台湾と日本本土を防衛している。
付属機能
空中線は位相環
Selector Range Measure Receiver Synchronizer Transmitter Distributor Azimuth Elevation
電波標定機2型(東京芝浦電気株式会社)タチ-2
幻のレーダー・ウルツブルクからの抜粋 P45
一方、東芝は浜田成徳研究所長、西堀栄三郎副所長、長嶋部長、木塚、木村、田中、前川、菅野、鈴木、平野技師たちが米軍の電波兵器を参考に独創的な設計をなして、昭和18年初めには完成した。こちらは、“た号2型電波標定機”と命名された。翌昭和18年までに35台生産された。
日本無線史からの抜粋
周波数200Mc、尖頭電力10Kw、対飛標定距離20粁、測距精度正負100米、測角精度正負1度、測高精度正負1度、重量2.5トン、試作会社東芝電子研、実用化及び生産化済但し生産30機にて中止、その過半数は廃品に帰した。
前記鹵獲米軍用超短波標定機はSRC-268型で、銘板によればその高周波部分は陸軍通信兵技術研究所、諸元伝達装置は陸軍工廠の分担研究に係るものである。
各機関が互いその専門を信頼、尊重し合い、又各々その専門に自信、権威を堅持し、従ってそこには醜い割拠的葛藤の発生する隙のないことが想像される。
Japanese Wartime Military Electronics and Communications, Section 6, Japanese Armyからの抜粋
タチ2:
その他の名称:電波標定機2型(Radio Locater Model 2); タ号2型(Mark Ta Model 2)
タチ 2は英軍SLCのもう一つのコピーで、一般的にタチ1よりも優れたパフォーマンスを示した。
東京芝浦電気は、1942年6月から1943年9月までに約35台を生産した。
付属機能
空中線は位相環
Receiver Measuring Unit Indication Unit Transmitter Range Azimuth Elevation
一方、海軍での射撃用電波探信儀の開発を概観すると以下のとおりである。
日本無線史10巻からの抜粋
射撃用電波探信儀は、大別して対空用と対水上用とに分かれ、各々殆ど独立的に兵器化されて整備された。
対空用のものとしてはシンガポール、比島方面に於ける鹵獲兵器に依って、急速に兵器化が行われ、陸上用として四号一型、艦船用として四号二型、探照灯指向用として四号三型が兵器化された。
この中で、四号一型は日本海軍が比島に於て鹵獲した米国のSCR268型からの資料を得て設計され、四号二型と四号三型はシンガポールに於て鹵獲した英国のSLC装置の資料を、全面的に取入れて兵器化された。
なお、開発・製造会社は、四号一型、四号二型、四号三型とも日本電気(住友通信工業)の1社のみで開発を行っている。
今回は、SLC譜系の四号二型と四号三型について取り上げることとする。
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直からの抜粋
(四号電探二型及び同改二)
四号電探一型は大型で、その重量は五トンを超え、艦船に装備することは到底できないので、別に艦船搭載の射撃用電探を試作する必要が起こってきた。この目的で設計されたのが四号電波探信儀二型であった。
これはシンガポールで鹵獲した英軍のSLC装置(サーチライト・コントロールの略称)の資料を全面的に取り入れて設計されたものである。使用波長は一・五メートルで、アンテナは送信用として導波素子二本付の二段三列式を、受信用として導波素子二本付の四組を採用し、受信用アンテナの四組は左右上下に配列して、これを位相環に接続し、位相変換により指向性をベクトル式に回転させ、方位角と高角を測定するものであった。送受両アンテナと送受信機および指示機を一体として、既製の空中聴音機の架台上に装着し、なるべく小型軽量として艦船装備用に向くようにしたのであったが、実験の結果、高度三、〇〇〇メートルの中型攻撃機単機に対し、確実測定距離七キロメートル、距離精度±一〇〇メートル、方位角および高角の測角精度いずれも±1度程度で、能力不足と断定された。
そこでこれを大型化して陸上用に振り向けることにした。すなわちアンテナを大型にし、送信出力を倍加し、架台も新しく設計したものを作り、測距装置及び方向切替装置を改良して四号電探二型改二と称するものが出来上がった。
四号電探二型の第一号機は昭和17年12月に完成した。
四号電探二型改二は探信能力も測距および測角制度もともに優秀で、メートル波を用いる対空射撃用電探の最終型として七〇基製造された。しかしこの装置ができた昭和十九年後半には、戦局は急激に悪化し、そのため海軍として実際に装備実用したものは十数基にとどまった。
なお、量産の見地から、アンテナ形式、送信機、受信機、測距装置などは、四号二型改二と四号三号改二とは同一のものを使用することに設計が統一された。
このようにして陸上装備の対空射撃用および照射用電探は、性能としてもほぼ満足すべきものに完成され、フィリピン島方面にも装備実用されたが、終戦近くになって、波長一・五メートルを使用するこの種電探に対し、米空軍は妨害電波を発射して、その使用を不能にした。この有効な妨害に対し、種々対策が樹てられたが、遂に実用するまでに至らずして終わってしまった。
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直からの抜粋
(四号電探三型)
艦船用として設計された対空射撃用電探四号二型も遂にその目的を達成することができず、陸上用に転用される運命となったことはすでに触れたが、別にメートル波を用いた艦船装備に適する探照灯管制用電探の設計も進められていた。しかし、これも最終的には陸上用となり、四号電波探信儀三型と称されるものとなった。
四号電探三型は四号二型と同一系統に属するもので、英軍のSLC型を設計の母体としている。探照灯の前面に受信アンテナを装着し、送信アンテナと追尾指示器を探照灯管制用双眼鏡に背負わせ、送信機を管制機旋回盤上に装着したものである。使用周波数は一・五メートルで、性能としては、確実測定距離は高度三、〇〇〇メートルの中型攻撃機単機に対して二〇キロメートル、測距制度±一〇〇メートル、方位角及び高角の測角制度±一度程度の成績を得ている。その一号機は昭和十八年八月戦艦山城に装備し、艦船用としの実用実験を行ったが、艦の動揺および変針によって、追尾が甚だしく乱調となるなど、種々解決を要する問題が多いことが指摘された。一方、対水上射撃用電探が立ち遅れていたため、艦船部隊の夜間戦斗はむしろ回避される傾向にあったので、この種電探に対する要望も次第に薄らいできた。このような情況で、この型の電探も陸上用に転用されることになり、装着対象となる探照灯も一二〇センチメートルのものから、一五〇センチメートルのものに改め、アンテナも大型化し、測距装置などの改良を加えて、四号電探三型改一が試作された。次いで送信電力を二倍に増大し、精密測距装置を付加して、四号電探三型改二が完成された。改二の性能は照射用としては十分なものであり、照射実験においても殆んど照射毎に目標を捕捉しうる程度に改善されていた。この型の電探は改一、改二を合わせて、計二五〇基製造された。
日本無線史 第十巻 からの抜粋 P393
終戦近くなって波長1.5米のこの兵器は、米空軍に依り有効なる妨害電波を受けて使用不能となった。これが対策は色々たてられたが遂に実用に至らなかった。
考察
陸海軍の射撃管制用レーダーの開発事例を概観すると、陸軍ではタチ1の日本電気(住友通信工業)及びタチ2の東京芝浦電気とも途中で開発中止となり、更に別バージョンであるタチ3やタチ4への開発移行を余儀なくされている。
それでも、陸軍としては満足なものが出来ず、最後は独逸のウルツブル型レーダーの国産化へ望みを託すこととなった。
一方、同じ日本電気(住友通信工業)で開発した海軍の4号1型、4号2型、4号3型は性能不足を大幅な改善を行うことにより、問題を解決している。
同じレーダー製造会社である日本電気(住友通信工業)の開発にも拘わらず、陸海軍の相違だけで何故このような結果が生じるのか。
同様な事例としては、日本無線株式会社の開発した機上警戒レーダーでも同様で、海軍のH-6は良好に動作し、陸軍のタキ-1は問題が多かったとの指摘がある。
ただし、軍需工場は軍の管理工場に指定されており、陸軍と海軍の軍人が別々に配置されおり、同じ会社でもあっても相互の人員や技術交流は厳しく制限されていたような事実はある。
特に、陸軍のタチ1(住友通信工業株式会社)、タチ2型(東京芝浦電気株式会社)とも、昭和18年(1943年)9月までに、生産台数35台で生産中止となっている。
完全な失敗作ということである。
更に、陸軍のタチ2では、日本無線史の公式記録に、「実用化及び生産化済、但し生産30機にて中止、その過半数は廃品に帰した。」とあり全く使い物にならなかったことが良く分かる。
一体この差はどこから生じているのだろうか。
機械的・製造的な問題よりも、運用に関する教育体制の差かもしれない。
米軍も運用教育を重視しており、戦後日本のレーダー運用教育への調査が行われている。
海軍の電波兵器関係の教育機関の概要(日本無線史10巻からの抜粋)
教育に関しては、海軍では昭和19年9月に、神奈川県高座郡綾瀬村に海軍電測学校が設立され、これまでの横須賀通信学校で行われていた、電波兵器関係教育は新設の電測学校に移管された。
特修科(昭和19年5月から昭和20年5月まで)では129名、高等科電測術練習生(昭和18年11月から昭和20年7月まで)では821名、普通科電測術練習生(昭和18年8月から昭和20年3月まで)では7,015名の人員と、その外臨時講習として、昭和17年から昭和20年まで12.713名の人員の教育を行っている。
陸軍の電波兵器関係の教育機関の概要(日本無線史9巻からの抜粋)
昭和17年(1942年)には第一航空軍の隷下に、教育部隊として通信関係部隊兵の補充源たる航空通信連隊、航空情報連隊、航測連隊、気象連隊が各一隊創設せられた。昭和19年(1944年)2月電波兵器練習部が創設せられた。同部は当初多摩陸軍技術研究所長の隷下にあったが、昭和20年4月(1945年)4月航空本部長の所管とされた。航空教育中枢機関は第二期と同様である。但し教育機関は逐次作戦部隊化せられ、昭和20年4月航空総軍が編成せられて以後その所管は、総軍と航空本部とに両分される形となった。
なお、電波兵器練習部では、本部、教育部(将校学生教育)、研究部、教育隊(下士官学生教育)及び材料廠より成る。
昭和19年2月12日陸軍省調製の「軍令陸乙第6号 陸軍電波兵器練習部臨時編成(乙)要領」を参考情報として掲載するが、単なる人数合わせに過ぎない学生の兵種(丙種、丁種から多数採用)からの構成であり、とても本気で電波兵器のための人材養成を行おうとする上層部の意思を感じられない。
因みに電波標定機に関しては例外とも思われるが、昭和18年 (1943年)1月、完成した電波標定機1型・2型各10基が砲兵監部の千葉防空学校に搬入され、これらは速成教育を受けた指揮官や担務要員と共に各防空部隊に配置されていったとのことである。
上記の根拠資料から如何に海軍が人材育成に力をいれたことが分かり、その結果として海軍のレーダー運用に好結果をもたらしたことは疑われない事実であろう。
以下当時の海軍の教育ニュースを参考掲示する。
社団法人日本映画社 日本ニュース第219号
電探訓練
横須賀鎮守府検閲済、海軍レーダー(電波探信儀)、4号電波探信儀3型、3式1号3型の空中線展開実習、2式1号電波探信儀1型の運転実習https://youtu.be/J6dYd5XMlPg
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※追加資料 <R03.12.15>
電波兵器に対する陸・海軍の比較を兵員教育だけで論じたが、これでは電波兵器として陸軍よりも海軍の方が良かったという誤った印象を与えてしまった。
実際は、陸軍の電波警戒機については、性能はともかく、安定性・信頼性には全く問題はない。
陸軍の沖縄戦での電波警戒機の実際の運用の事例を下記に紹介する。
第三十二軍電波警戒隊対空戦闘詳報(昭和二十年一月三日 ~ 昭和二十年三月一日)
https://blog.goo.ne.jp/minouta17/e/3d5044192e7db89b1302e812e59f2f46
報告書によれば、レーダ運用上の技術的問題もなく、信頼性や測定精度も高そうである。
ようは電波警戒機には何の問題なく、電波標定機にだけに根本的な問題要素を含んでいることがわかる。
ここで、電波標定機に関する重要な問題点を指摘している資料を陸戦兵器総覧から抜粋する。
昭和16年12月8日、ハワイの真珠湾攻撃に端緒を開き、フィリピンにマレイ半島に戦線は逐次拡大していき、神速なる攻撃とその戦果は世界を震撼させた。
その戦果の一つとして、アメリカ、イギリスの電波兵器が押収された。コレヒドールでアメリカの警戒機、シンガポールでイギリスの標定機がえられた。
現地派遣員として、陸軍技術本部の元陸軍少将小林軍二氏、東京電気の浜田技師、日本電気の小林技師が選定され、その実体が明らかになった。この敵の兵器進歩の様相は、我が国に大きな刺激をあたえた。由来刺激の大きなところには常に混乱が起こるものである。
標定機もその例にもれず、電波に対する経験を無視してただちに技術本部の光学測器班で審査研究するという大きな過ちを犯してしまった。完成を急いだためであろう。そして「鹿を追うもの山をみず」の古言をそのまま、標定機を手のつけられないものにしてしまった。あらゆる苦心も、ついに完全な戦力とならず終わってしまったのはこのためであった。
これがわずかの期間でも登戸研究所の手で整理されて移管されて行ったならば、面目はまったく一新されていたであろう。経験は一朝にしてはできない。一つの組織には、想像のできない根強い力を持っていることを忘れてはならない。
既述のように、警戒機はこれによって体制を整えた。標定機が遅れたのはやはり主務の移管が早過ぎたためであろう。
本資料で分かることは、電波標定機の陸軍での主管を門外漢の技術本部の光学測器班としたことにあるとのことだが、正式には第二陸軍技術研究所の前身である陸軍技術本部第2研究所(担当:観測・指揮連絡兵器)の光学測器班という一部門に担当させたことが原因であるとの指摘である。この光学測器班は、高射砲の管制制御の専門家といったところだろう。
本来は、登戸研究所が主管すべきであったとのことだが、これは陸軍技術本部第5研究所(担当:通信兵器)のことのようである。
結局終戦まで、陸軍技術本部第2研究所の光学測器班が権限を離さなかったというこのようである。
以下、日本無線史第9巻からの抜粋
フィリピンで鹵獲した米軍の超短波標定機SCR-268を参考品として内地に移送し、昭和17年10月頃第二及び第五陸軍技術研究所並びに第四陸軍航空技術研究所に分配した。これらは相当に破損していたが、その中の第五陸軍技術研究所へ引き渡した程度のいいSCR-268は、12月末までに完全に作動するまでに修復され、昭和18年(1943年)1月には野外試験を実施している。
このことから第五陸軍技術研究所の電波兵器の担当者は、米国の電波標定機であるSCR-268に精通しており、陸軍の電波標定機の開発主務すべき担当であることがわかるが、結局は門外漢の第二陸軍技術研究所が開発の主管を担当させる事態となった。
海軍では、射撃用電波探信儀を開発にあたり、明快に4号1型は米国のSCR-268を、4号2型と3型を英国のSLCのものを基本にして、メーカーも日本電気(のちの住友通信工業)の1社にしぼり発注している。
一方、陸軍では、第五陸軍技術研究所にSCR-268のノウハウがあったにもかかわらず、第二陸軍技術研究所では門外漢であるにも拘わらず開発主務者として、フィリピンとシンガポールの現地へ派遣員された東京電気(東芝電気のこと)の浜田技師、日本電気の小林技師であったことから、東芝と日本電気2社に対してとりあえず仕様書なしで電波標定機の試作を発注したようだ。
このため、電波標定機の受入れ試験では、本務の光学測器と比較して合否を判定したことにより、つねに駄目だししたのではないだろうか。
電波標定機が本来主務の光学測器よりも優れていたら、自分たちの存在自体が危うくなることを恐れた結果かもしれない。
電波兵器である電波標定機を門外漢に任せたのが最大の失敗だった。
更に日本無線史の抜粋ではあるが、陸軍では、「電波標定機は本土防空の必要上標定機本然の目的たる射撃用具としてではなく、敵機の陸地上空侵入後に於ける航跡追尾用として昭和20年(1945年)2月頃から急速諸方へ配備することとなった。但し地上通信連絡か思わしくなかったので予期したほどの実効は収め得なかった。」
高射砲陣地築設要領をみると、電波標定機の設置計画も予定されているが、残念ながら電波標定機の運用を誤った方向へ追いやるような事態となったようだ。
高射砲部隊の実際の運用について
http://minouta17.livedoor.blog/archives/20559560.html
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最後に電波標定機に対する陸軍の苦悩を示す資料で終わることとする。(この陸軍の苦悩を人材育成の観点からよくみると真の原因が浮かびあがるのではないか。)
昭和18年9月30日で作成された「電波兵器研究方針」(案)は次のとおりであった。
戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給からの抜粋
第三編 第三章 絶対国防圏確保の航空技術補給戦備(昭和18年中期~19年中期)P397
第二 電波関係兵器研究事項
多摩研の設置に伴い、現行地上及び航空の兵器研究及び試作方針中の電波兵器関係項目を統合した「電波兵器研究方針」が制定された。
その制定の時期及び内容は明らかでないが、昭和18年9月30日で作成された「電波兵器研究方針」(案)は次のとおりであった。
電波兵器研究方針(案)
二 電波標定機
1 目標ノ位置ヲ正確ニ標定シ得ルモノトシ固定用、移動用ノ二種トス
2 飛行機ニ対スル標定距離ハ左記を標準トス
左記
固定用 30粁
移動用 20粁
3 18年12月整備可能ナル如ク努ム
陸戦兵器総覧 第九部 電波兵器からの抜粋 P589
すでに説明したように多摩技術研究所ができ、また陸海軍合同委員会もできて、いっきょ推進の態勢がとられ、一方においてはドイツ技術の積極的導入が計画された。
かくて、昭和18年下半期から電波兵器戦力化に必死の努力が注がれていった。
一番問題となったのは標定機である。本節の冒頭に説明した経緯で、基本観念がなく、ただあわただしく試作され配置されて行った標定機は近づきつつある戦闘を前に、誠に雑然たる姿で陣地についていた。まず、戦力化の重点はこれに注がれる。そして、つぎのような方針が立てられた。
一.陣地に配置した標定機は、部隊と協力して現地において性能向上と器材の安定化を図る。
二.整備中の機械については、第一項の試験を逐次反映させて戦力化に万全を期する。
三.ドイツより導入した技術により信頼できる新機種を作り、速やかに機種の転換をはかる。
第三項を最後の目標とし、完成期日を昭和19年の半ばにおいた。もちろん空襲は激化してくるであろうが、それまでは第一、第二項の手当てでしのぐよりほかなかった。
ところが、はじめ簡単に考えていた第一項の問題が着手してみると、なかなか大きな負担となってしまった。機種は三種であり、わずか十数機に過ぎなかった。ところが、同一機種でも、それが同一に仕上がっていない。試作機の関係でもあり、また逐次急いで作ったためでもあろう。したがって、一定の修理方針にもとづいて一挙に解決できず、結局1機1機現場で修理をして行かなければならなかった。部隊は戦力化を急ぎ、このためにかなり大きな技術力を吸収されたことは何としても痛手であった。
第二項の実行はさらに困難なものがあった。当時、戦争もすでに2年を経過し、製造工業にようやく疲労の色がみえてきた。そして、弾力性はまったくなくなってしまったといってよい。したがって、研究成果を製品に逐次反映されることはほとんど不可能であった。やむをえず実行を強行すれば、かえって逆効果となる場合がおおかった。こんなことで研究所と製造所とは、できる、できないでたえず対立する状態であり、この第二項の理想はほとんど実現できなかった。やむなく完成試験に並行して手直しが行われるという二重三重の手間となって、ここにもまた大きな技術力を吸収されてしまった。
これにつけても、研究から製造へと一貫した強固な組織の構成を痛切に感じた。アメリカやドイツが戦争の推移にしたがって、逐次新兵器を戦場に送り、技術戦そのままの戦争をやってきたことは、強大な技術力という一言でかたづけてしまうことはいけないと思う。科学技術が製造を指導していたことをよく検討しなければならない。戦争中、東芝の浜田成徳氏が、研究は製造を支配しなければならないと絶えず提唱してきたのも、この間の消息を物語るものである。
かくて150台ほどの生産に苦闘の日がつづけられて、逐次陣地についていったがこの時には既に大都市は焼かれて、空しく終戦を迎えたことは誠に悲劇であり、深く反省さるべきことでもあった。
第三項のドイツの技術導入は、さらに困難を倍加したものである。
ドイツのテレフンケン会社の技師フォーダース氏が、図面、主要製作部品などドイツの標定機製作に必要な資料を携行し、東京に着いたのは昭和18年9月であった。ベルリン出発以来、実に100日である。しかも、その旅行の大部分を廃品に近いイタリア潜水艦に身を託していた。6隻のこの種輸送船のうち3隻は行方不明となり、このため機長な陸軍の知嚢3名を失った苦難の旅行であった。
しかし、到着したフォーダース氏の張り切りかたはたいへんなものであった。半年を出ずして生産に移行しようと、ただちに計画に着手した。
ところが、彼我の技術水準に大きな開きができてしまっていた。当時のわが国の部品技術では、おなじ設計ではとうてい所期の能力がでない。部品の研究試作からかかっていった。それでも昭和19年の秋までにはできあがるであろうと考えていたが、日本の工業能力はついにこれを許さなかった。そして第一号機の完成が昭和20年7月終戦直前というまことに情けない結果となった。途中フォーダース氏はまったく退屈を感じてしまい、技術導入に関するわれわれの熱意を疑うにいたったほどであった。一見まことに無駄であったような研究であるが、しかしその完成途中において部分部分の技術の開発に貢献したところはかなり大きく、間接に戦力となりえたというるであろう。
さらに一方、既製の標定機にドイツの標定機の理論を導入し一日も早く戦力としたいと考えたが、これも容易なことではなかった。としにその空中線のごときは東北大学の大島、小池両教授が幾日もの徹夜によって、理論を実験にようやく完成した。そして、昭和19年の春にはと考えていたのが、1年遅れて昭和20年の春数機の試作機が部隊に渡された程度で、ついに量産にいたらずして終戦を迎えた。
なお、終戦時の陸軍の電波標定機の残存数の資料を示すが、この中で電波標定機としての性能を発揮できていたのは何台だったのだろうか。
参考文献
戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給
陸戦兵器総覧
日本無線史 9巻
日本無線史 10巻
「元軍令部通信課長の回想」昭和56年 鮫島素直
アジア歴史資料センター レファレンスコード C14010699400 軍令陸乙第6号 陸軍電波兵器練習部臨時編成(乙)要領 昭和19年2月12日 陸軍省調製
アジア歴史資料センター レファレンスコードC15010225800 電波兵器関係/附表 終戦時兵器器材配当数表
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