日本測定器株式会社に関する調査メモ
Yahooオークションに、令和2年3月に【貴重・レア・当時物】 旧日本軍 音叉発振器(レーダー部材)と【貴重・レア・当時物】 旧日本軍 九六式空二號無線電信機改一 が同時出品されていますが、商品をよく見ると、製造会社は共に日本測定器株式会社とあります。
当ブログで2011年8月に「音叉発振器について」
まず、ネット検索から井深大ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%B7%B1%E5%A4%A7以下から抜粋です。
東京芝浦電気(現在の東芝)の入社試験を受けるも不採用。
大学卒業後、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称:PCL)[4] に入社、取締役であった増谷麟の屋敷に下宿する。
学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」という製品がパリ万国博覧会で金賞を獲得。
後に日本光音工業に移籍。
その後、日本光音工業の出資を受けて、日本測定器株式会社を立ち上げて、常務に就任した。
日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社であり、その縁で戦時中のケ号爆弾開発中に盛田昭夫と知り合う。
敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年(昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業東京通信研究所を立ち上げる。
1929年(昭和4年)、国際活映巣鴨撮影所撮影部および松竹蒲田撮影所現像部出身の増谷麟、植村甲午郎の実弟・植村泰二らが現像とトーキーの光学録音の機材の研究、実際の撮影現場での録音の請負を目的として、1932年(昭和7年)6月1日に東京府北多摩郡砧村(現在の東京都世田谷区成城)に設立したのが、この「写真化学研究所」である[1]。
当時の同社の工作部長は、1915年(大正4年)に邦文タイプライター(和文タイプライター)を発明した杉本京太で、杉本は同社で、1936年(昭和11年)には「国産小型トーキー映写機」を完成した。
杉本はこのころ、植村が社長を兼務する光学録音機械メーカー「日本光音工業」の取締役技師長にも就任している。
また同年、早稲田大学を卒業した、のちのソニーの創業者井深大が入社し、植村に頼んで日本光音工業に移籍している。
無線と実験 昭和14年9月号からの抜粋
それでは本題の日本測定器株式会社を調査します。
東京通信工業株式会社設立趣意書 - 井深 大
最初は、日本測定器から譲渡してもらったわずかな試験器と、材料部品と、小遣い程度のわずかな資金をもって、できるだけ小さな形態で何とか切り抜けていく計画を立てた。
われわれが過去に属した日本測定器株式会社は、この数少ない測定器製造業の中でも屈指のものであって、わずかな資本と貧弱な設備を持って、極めて短日月の間に驚くべき発展を遂行し得たのも、時局とはいえ、ひとえに測定器部門の持つ経営的特性によったものと断言でき得るのである。
日本測定器株式会社の主要製品の一つたる超短波用の真空管電圧計は、われわれの10年近い年月と血の滲むような努力の結晶であって、その一般における絶大な定評は言わずもがな、まさにわが国の世界に誇り得る測定器の一つであることは、今回米国進駐軍がこれに対し異常な感心を持ち、参考のため本国に持ち帰った事実によっても、雄弁に物語られるところであろう。
簡易重畳(ちょうじょう)電話装置
これは、現在の電話線になお一通話増して、二重通話を可能ならしむる(現在の線路を使用して倍の通話を可能とす)非常に簡単な装置で、すでに日本測定器株式会社において、全く他の目的を持って多年研究されたるある種の兵器を若干改良すれば、この目的を充分果し得られるのである。目下盛んに試作中なるも、これもまた当社技術陣の独壇場、お家芸の一つであって、完成の上採用となれば、その需要度は恐るべきものであろう。
録字通信機
これも戦時中、航空通信に用い操縦士に電信符合習得の煩わしさから脱しせしむる目的を持って企図されたもので、完成を見ずして終戦となったものである。送信側において電鍵(でんけん)の代りに、50音のタイプライターを叩けば、受信側では通信文の50音が順次テープ上に印字されつつ出てきて、通信が終ればテープは停止する。装置は簡単であり、送信装置は大体携帯用タイプライターと同型、受信装置は手提げ金庫程度のもので有線無線双方に使用でき、将来電信局でこれを叩けば、加入者側ではテープの電報を受けることになり、また家庭で電話をかけて留守の場合等は、こちらから伝言を叩いておけば、何らの技術も要せず先方へ伝言を書いたテープを残すことができるのである。また、鉄道等の指令装置に用いても、命令の内容が明瞭に印刷されるため、極めて便利であり、応用利用範囲は極めて多く、電信機の当然到達すべき理想の一つの型であるが、これの完成は非常に意義深いものがあろう。本機の製作は相当精密な機械装置を必要とし、現在の状態では即時製品化することは困難であるが、とりあえず試作だけは完璧なるものにするため、設計進行しつつある。
プログラム選択受信方式
これも日本測定器株式会社において研究完成したる兵器の応用品である。放送局において、そのプログラムごとに異なった周波数の音(例えばニュースならば「ド」、音楽ならば「レ」のごとく)を放送前にちょっと出す(ピアノを叩く程度にてよし)と、受信側ではその音の高さによって動作する周波数継電器が動作して受信機が働く。それゆえに聴取者は自分が聞きたいと思うプログラムだけのボタンを押しておけば、自動的にラヂオのスイッチが入って、そのプログラムのみ聞くことができる。それが終わればやはり特定音を出し、また自動的にスイッチを切ることになる。その他、この装置を用い自動的に時報に時計を合わせることも可能である。
その他特殊部品
音叉発振器、濾波(ろは)継電器、音叉時計等のごときは、当社独特のもので、戦争目的をもって研究・製作してきたもののうち、今後の通信技術方面に転換利用可能なるもの数多くあるをもって、各方面の要求に応じ、逐次製作していく予定なり。
井深 大 「世界のソニー」を創業したモノづくりの天才
井深は最初、東宝映画の撮影所PCL(フォト・ケミカル・ラボラトリー=写真化学研究所、昭和5年創立)に就職(1933年)、次に日本光音工業に移り、軍国主義の影が濃くなった1940年には学友と日本測定器という会社を興した。
磁気計測を応用した潜水艦の探査装置、秘話通信の新方式などの開発に及んだ。
有名人の墓巡り~昭和の著名人と出会う旅~ 井深 大(いぶか まさる)
https://hakameguri.exblog.jp/30050538/日本光音工業に移籍し無線部長に就任。1940年(昭和15年)、日本光音工業の出資を受け「日本測定器株式会社」を設立。
常務に就任した。日本測定器は軍需電子機器の開発を行っており、戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。
1945年(昭和20年)10月、東京・日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げる。
今回日本測定器株式会社の出品の写真は以下のとおりです。
【貴重・レア・当時物】 旧日本軍 音叉発振器(レーダー部材)
なお、タイトルではレーダー部材とありますが、700Hzの発振周波数を使用した陸海軍の電探はありません。
【貴重・レア・当時物】 旧日本軍 九六式空二號無線電信機改一
本機は海軍航空機(2座)用の九六式空二號無線電信機改一の附加変調装置でA2電信として使用されたものです。
「東京通信工業株式会社設立趣意書 - 井深 大」からの感想
「世界のソニー」を創業したモノづくりの原点は、井深大氏が日本測定器株式会社に在籍し、敗戦による軍需会社から民需会社として戦後「東京通信研究所」を創業したことにあります。
今の日本のエレクトロニクス産業は斜陽となりつつありますが、単なる収益で事業を考えるのでなく、技術者を大事にしたモノづくりの原点に回帰する必要があります。
日本の技術はすでにアジア諸国のなかでも頂点にはありません。
過去の栄光にあぐらをかき、大企業が官僚的な組織の上に高価格の商品を製造・販売しようとしても既に世界では通用するような時代ではありません。
・・・・ただし、明快なる答えはありません。