敗戦末期の日本陸軍の電波兵器の生産状況について
敗戦末期の日本陸軍の電波兵器に対する生産情報を下記の資料である昭和20年度重点兵器生産状況調査表(造兵課)、昭和19年12月26日作成の電波器材(陸軍兵器行政本部)、電波対潜兵器資材整備予算・その他(陸軍省)を使用して紹介する。
本資料は、基本的には陸軍省の外局である陸軍兵器行政本部が文書作成したものと思うが、造兵課の正式の上位部門は不明である。
※ 原資料では判読が困難なことから、Execl表で再作成した。
陸軍としては電波兵器としては下記の整備計画を企画している。
昭和19年末の陸軍の電波兵器全体の整備計画(電波器材)を示す。
昭和19年12月26日作成の電波器材(陸軍兵器行政本部)
この中で、重点兵器生産状況を把握するため、下記の資料の中でタチ6、タチ18、タチ31、タチ35の4機種を重点兵器として生産管理を行っている。
昭和20年度重点兵器生産状況調査表(造兵課)
※ 製造所別の中で「第二」は東京第1陸軍造兵廠 第2製造所(通信)、「第二電子工業」、「電子工業」とは陸軍多摩陸軍技術研究所川崎研究室と東芝の総合研究所のなかの電子工業研究所が合弁で研究および量産する組織し「電子工業」と称した。
※ 「芝通」とは東芝の前身の東京電気株式会社が東芝通信工業支社と称したことにより、一方「芝電」とは東芝の電子工業のことを意味している。
タチ6 http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022255.html
タチ18 http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022257.html
タチ31 http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022269.html
タチ35 http://minouta17.livedoor.blog/archives/18022259.html
本資料は、陸軍兵器行政本部が昭和20年度重点兵器生産状況調査表(造兵課)として、毎月の生産計画と実績を管理する目的で作成したものである。
勿論、昭和20年8月の終戦までの記録となるが、住友通信(日本電気)、芝通東芝通信工業支社)のタチ18、35の生産、芝電(東芝電子工業研究所)は、4月から生産が出来ない状態に陥っている。
しかも、軍需工場に配置されている管理用の軍人から、陸軍兵器行政本部への月次報告さえもない状況となっている。
この原因は米軍の戦略爆撃による工場被災により工場が稼働できなくなったことがことによることは明らかである。
なお、生産が継続しているメーカーは、日本無線のように早期の工場疎開が実施されていたり、松下や岩崎通信のように軽微な被災で工場の生産活動が継続できたケースもあったが、主要メーカーである東芝、日本電気の工場被災は重大なダメージとなった。
ここで、メーカー各社の社史で被災状況を紹介すると以下のとおりである。
日本電気株式会社百年史の抜粋から
兵器生産の崩壊
機種別にいうと、海軍電波兵器、海軍無線通信兵器の実績が良好であった。
真空管でも海軍向けの実績が高く、相対的に良好な状態であった。
いずれにしても、最重点の電波兵器生産でも、1944年には崩壊の危機に瀕していたが、四半期別のデータによると、無線装置、真空管、音響機器の3機種すべてで、生産数量のピークは44年度第Ⅲ四半期に記録された。
そして、第Ⅳ四半期にはこれら3機種の生産は、前期比で57%も減少し、住友通信工業の崩壊に向かっていった。
後述のように、原材料・部品不足、物資配給の混乱、熟練労働者不足、労働の希釈化、さらにはアメリカ軍の重爆撃による被災、工場疎開などの生産活動の大きな制約となったのである。
東京芝浦電気株式会社八十五年史の抜粋から
第2節 生産の低下
1 労務事情の悪化
昭和18年ごろから労務の充足は、量の確保がかろうじて得られる程度で質的労働力は弱化の一方であった。
これは就労年齢の引き下げによる幼・少年工の激増のほか、徴用工・挺身隊・勤労報国隊・学徒動員、ひいては囚人・捕虜などによるものであった。
19年後半にはいると食糧事情は極度に悪化し、従業員の家族疎開も相つぎ、また、空襲による従業員の動揺などもあり、出勤率はきわめて悪くなった。
欠勤率は鶴見・川崎地区では毎月25から30%に及び、特に長欠者の増加したのが目立った。
19年後半には当社の全生産力は、あげて航空機用通信機器に集中された観があったが、その他の部門はすべて下降傾向を示しているのは、すでに見たとおりである。
2 戦災
昭和20年、敵機の空襲は激烈を加えてきた。
投射が本格的な空襲の被害を受けたのは昭和20年1月29日であった。
この時は白昼、銀座付近一帯が襲撃されたが、本社社屋であった当時の東芝館(現マツダビル)が多少の損害を受け、銀座配給所が全焼した。
その後、同年3月9日夜半の江東地区一帯にわたる大空襲で、亀戸・砂町・深川の諸工場が崩壊した。
さらに4月4日の空襲で、川崎京町工場の一部が損害をこうむった。
特に被害の大きかったのは、20年4月15日夜半の横浜・川崎地区における大空襲であった。
この時、当社主力工場は激烈な打撃を受けた。
すなわち、京町工場・富士見町工場は全焼、川崎本工場(現 堀川町工場)・柳町・小向の主力工場も80から90%の大損害をこうむった。
その結果、重電部門を除く当社の生産は殆ど停止するに至った。
電子工業
第2編東京芝浦電気改部式会社の発足と戦時下の歩み 第3章民需から軍需へ
第4節 電子工業研究所の生産
前に述べたように、昭和18年後期になると航空機優先となり、したかって、その耳目となる電波兵器・無線機・真空管の生産が急務とされた。
当社ではこれに対処して、東京電気(無線)のちの通信工業支社が主としてこれにあたり、川崎支社では、真空管工業主管のもとで受信管のみを生産していた。
そしてこれらの高度の技術研究は、総合研究所のなかの電子工業研究所(以下電子研と称す)があたっていた。
多摩技研研究室の開設
しかし、電子研では軍、特に陸軍からの要請がますます強くなってきたので、研究のみならず生産にも乗り出すことになった。
すなわち、18年9月、多摩陸軍技術研究所川崎研究室が川崎本工場内に設けられ、軍・民共同で電子工業(電波兵器)の研究および量産にあたるこことなった。
電子研の独立
18年12月1日、電子工業研究所を総合研究所から独立させ、川崎支社の「真空管工業」を電子研に包含させた。
そして、その活動の徹底と強化・敏速を期するため社長直属の機関とし、理事 浜田成徳が所長に任命された。
なお、通信工業支社と密接な連絡をたもつため、電子研・通信工業支社および川崎支社からそれぞれ委員を占守さし、真空管生産会を組織して、生産分野その他を協議決定するこことした。
また、その活動を徹底強化するため、関係重役及び理事をもって理事会を設けた。
電子研の製品
電子研の製品別売上高は、第Ⅱ-14表に見るとおりで、これらのうち、通信機製造所とは別に、電子研で製作電波兵器および特殊真空管であるソラ真空管について簡単に述べる。
電波兵器-電子研が、試作または内示をうけて生産したものは、つぎのとおりである。
多摩技研 第一造
タセ3号 10台 20台
タチ23号(G2) 5台 -
タチ31号(G4) 10台 25台
タチ25号(ち8号) 1台
ソラ真空管-電子研の製品のなかでも特筆すべきものは「ソラ」真空管である。
これはRH-2形を改良した万能の受信管であったが、生産がようやく軌道にのりだしたとき、空襲がはげしくなり、生産も意のようにならず、そのうち終戦を迎えるに至った。
戦後は、12G-R6という名で生産された。
岩崎通信機株式会社
https://www.city.suginami.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/022/256/01_1215.pdf
杉並区空襲リスト
昭和20年4月19日
機銃弾 久我山三丁目 岩崎通信機株式会社久我山工場、機銃掃射を受け職員2名死亡、3名軽傷
空襲の激化
19年7月にサイパンが陥落して以後、アメリカ空軍は同島を高速長距離重爆撃機B-29、B-25等の日本本土攻撃のための前線基地として使用し、同年12月には早くも東京空襲が開始された。
大都市では空襲対策のため市街地の建物疎開を実施したり、あるいは学童疎開にふみ切るなど決戦体制に入った。
また主要都市の重要工場に対しても19年1月に発令された防空法に基づき、疎開命令が次々と出された。
当社は都心から離れたところに位置しているため、当初は比較的安全とみられていたが、度重なる爆撃は20年に入ると艦載機の攻撃をもともない久我山地区にも及び、最重要兵器のレーダ工場であった当社は当然のことながらアメリカ軍機の攻撃目標となった。
そして4月には艦載機の機銃掃射による規格課長ほか1名の犠牲者を出した。
さらに5月25日夜から26日未明にかけての空襲の際には同日昼の艦載機の機銃掃射につづき、夜に入ると工場内に数百発の焼夷弾が落とされ、その数発は油倉庫に命中し全工場が炎上の危機にさらされた。
幸いに従業員の決死的な防火作業によって火災は未然に消し止められ、最小の被害にとどめることができた。
2名の従業員が殉職した。
また、同夜は千歳烏山にあった社宅十数軒が被害炎上したが、中野、杉並を含め近傍の大半が焦土と化したことを考えあわせると、むしろこの程度の被害ですんだことは幸運というべきであった。
その後も爆撃はますます激しさをまし、物資の欠乏は日によって深刻化し、通常の生産活動はすでに限界に達しつつあった。
ここにおいて当社も工場の疎開を決意し、その準備を始めたが、これが具体化する前に終戦となった。
日本無線株式会社
第4節 太平洋戦争下の開発と生産
当社は昭和16年(1941)太平洋戦争勃発以来陸海軍の監理工場となり、更に19年1月、軍需会社に指定され、全機能を挙げて生産を軍需一本に集中した。
軍需以外では、僅かに船舶用無線機を準軍需品扱いとして生産したのみであった。
無線兵器全般に亙(わた)って、当社に対する軍当局の期待は大きかったが、戦局の重大化に伴い、勝敗の奇数を決するとまで云われた電波兵器レーダの開発、増産の要請は愈々(いよいよ)急なものがあり、当社はこのレーダの開発と大増産に精魂を傾けた。
当社は開発した腫瘍製品としては、艦船用マイクロ波レーダ、陸上用マイクロ波レーダ、航空機用超短波レーダがあり、何れも相当量の生産を挙げた。
然しながら、戦況は次第に不利となり、生産、研究開発共一掃困難の度を加えるに至った。
当社は度重なる悪条件にも拘わらず、レーダの新製品開発に力を尽くし、艦船用並びに沿岸防備用と、航空機用の射撃用レーダ、陸上用の対空射撃用レーダ、航空機用レーダのPPI化などの生産を重点的に進めた。
斯(か)の如く、当社はレーダを主体として、その他各種の機器の開発と生産に全社一丸となって努めたが、度重なる空襲のため生産力の低下著しく、地方への工場疎開を図り、極力増産に努めたが、やがて終戦を迎え、茲に当社挙げての努力も空しく、結実を見ぬままに終わった。
参考文献
日本電気株式会社百年史 2001年12月 日本電気社史編纂室
東京芝浦電気株式会社八十五年史 昭和38年12月 総合企画部社史編纂室
岩崎通信機株式会社五十年史
日本無線株式会社 五十五年の歩み
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14011031700、重点兵器生産状況調査表 昭和19年度(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120838500、重点兵器生産状況調査表 昭和20年度(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13120839800、電波器材(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121805400、電波対潜兵器資材整備予算・その他(防衛省防衛研究所)」