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韜晦小僧のブログ 無線報国

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日本陸海軍の採用した軍用通信型受信機の根本的な欠陥について

2022年06月28日 10時35分19秒 | 96無線コラム

日本陸海軍の採用した軍用通信型受信機の根本的な欠陥について

表記については、問題提起として「特攻 御田重宝 1988年11月 講談社」から関連事項を抜粋します。
ここで日本の使っていた受信機(通信用)について書きますと、戦後、呉海軍工廠の無線関係の人たちが、米軍は日本海軍の受信機を見て、大変お粗末なのに笑った、と言っていました。
しかし送信機には大変感心して持って帰ったそうです。昭和21年、第二復員局に勤め、駆逐艦「夏月」(復員船として使用)に乗っていた時に聞きました。私はカラーテレビの修理技術者として生活していますが、今考えると、まことにお粗末です。
「大和」の通信機室では一波帯ごとにコイルセグメント(区分け)を取り換えていたのです。それが四つぐらいのボックスになっており、これを四、五本の足が付いていました。したがって一艦(小型艦)五台あっても、各自違った波長受信を持っており、まことに面倒なもので、現在のラジオのようにスイッチ一つの切り替えでパチパチと中波、短波、超短波など自由に切り替えることはできなかったのです。

それでは、これから日本陸海軍の代表的な受信機を見ることにします。
海軍
92式特受信機
海軍の代表的な受信機で各種艦艇は勿論のこと陸上の通信部隊に採用されています。
・ダイヤルは目盛から読み取った数値から校正表により実際の使用周波数を知ることが出来る。
・バンド変更は、6個のコイルパックを交換する必要がある。
・本機は周波数の変動が少なく、大変安定的な運用ができることが最大の長所である。

問題点
・軍隊での実際の運用では、使用周波数が事前に決まっており、その周波数に調整された受信機を配備しており、戦艦などの旗艦の通信室では受信機が十数台並べて運用するため、ダイヤルの直読方式やバンド切替の問題は発生しないはずであると海軍では終戦まで考えていたのである。
・この背景としては、昭和12年前後の日本の電子通信の工業技術では、ストレート受信機からスーパーヘテロダイン方式の受信機に転換することは可能でしたが、周波数直読の精度が保証できないことやバンド切替の機械的スイッチ機構では長期運用での接触不良などの問題で採用に二の足を踏んでいたのも事実であろう。 

・こういった無線運用の思想に対して米軍の調査団は笑ったという訳である。
・無線通信運用を考えれば、戦場における不確定要素に対応するための随時の周波数変更のためのダイヤルの周波数直読やバンド切替SWによる簡単なバンド変更が如何に重要な受信機の要素であることの認識が必要である。
・しかも、日本海軍のコイルパックは受信機毎に調整しており、同種のコイルパックを他の受信機に使用することができない。したがって、10台の受信機には10台のコイルパックが必要なのに狭い艦内に無用ながら場所を確保することになる。
・要は、日本海軍には無線運用に関する先進的な取組みに欠けていたといことになる。
・したがって、受信機に関してはメーカーに対する要求仕様が常に低レベルのものだったのだろう。
・もう一つは海軍技術研究所と海軍工廠のみで完結する組織で、外部のメーカーの意見をくみ取らないクローズな組織体だったのかもしれない。
・このような発想は陸軍も同様であり、しかも陸軍では航空機の無線機もコイルパック方式を採用している。いったい戦闘機のパイロットはどのようにしてコイルパックの交換ができるのでしょうか。
陸軍航空隊の地1号受信機

陸軍 航空機用無線の飛5号無線機受信機

戦時中の上記問題を排した例外的な受信機の紹介
陸軍 特殊無線機甲短波受信機 傍受用機材
敵無線通信を傍受し、通信系の判定、内容の解読等の手段によりその配備、編成、企図を察知することを目的として傍受用機材が制定された。
短波受信機は受信周波数を8バンドターレットコイルによる切替、低バンドにおいては、中間周波数は455Kcを仕様するIF3のシングルスーパーであるが、高バンドにおいては第1、第2中間周波変成器を2Mc台に切替、第2中間周波増幅真空管を第2周波数変換菅として動作させるダブルスーパー方式となっている。
この切替はターレットコイルの切換と共に、カムによって自動的に行われる。

 
本機のダイヤル目盛は本写真からでは判断できないが、たぶん直読式ではないようだ。

松下無線株式会社 RM-40L型中長波電信電話受信機 昭和19年8月製
本機は、戦時標準船用受信機として製造されていたが、軍からは大枠の概略仕様のみで製造時の詳細は各社の判断となっており、松下も独自の製造をおこなったものである。
このため、軍の受信機の設計思想は全くなく、むしろ民間ラジオそのものの発想で製造されている。
周波数は直読式であり、バンド切替もコイル内臓式で簡単である。

本来は軍の受信機もこの発展系となれば、米軍のものと同じ受信機を作ることができたはずなのですが・・・。

ここで、参考に戦時の米軍の受信機の写真を掲載する。

これらの資料から、受信機の根本的な原因は、軍のメーカーに対する要求仕様があまりにも無線通信運用を軽視したものだったことが原因と思われる。
しかしながら、大手の軍需メーカーの東芝、日本電気や日本無線などは意見具申もなく単に製造部門として機能しただけなのだろうか。
最後発の松下や日立なども軍需生産では既設無線機の製造に専念している。
ただし、軍の要求仕様がない製品では、本来のラジオメーカーとして受信機の機能を生かした製品を開発している。
戦時中のラジオ 放送局型第123号受信機(NHKにより仕様の標準化されたラジオ)
制定  昭和15年(1940)10月 
特徴  山間僻地においても受信出来るよう、高周波増幅付きの再生式グリッド検波で感度向上を図った。
初期型、後期型、末期型に分類できる。
真空管 高周波増幅 12Y-R1リモートカットオフ特性による音量調整
    検波 12Y-V1による再生式グリッド検波、抵抗容量結合方式
    低周波増幅 12Z-P1による低周波電力増幅
    整流 24Z-K2による倍電圧整流
    安定抵抗管 B-37によるフィラメント電圧の安定供給


では、軍が消滅した終戦後数か年での業務用の通信型受信機の開発状況を概観しよう。
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幻のレーダーウルツブルグ 津田清一 からの抜粋
昭和21年6月10日、日本水産㈱の梅田一正無線監督と大洋漁業㈱の並木文雄無線監督の2人が、重大な要件を以て中島社長に会いに三鷹工場に来た。社長とで重大要件を伺った。その要件とはGHQが、日本の飢餓を救う目的で南氷洋捕鯨2船団の出動を関係各国と交渉し、やっと了解が得られた、とのことであった。そして11月に出港する事となったむねが伝えられた。
その2船団の無線装置を「全部日本無線が設計生産し装備工事と逓信局の電波検定を受けてもらいたい。工期はわずか5か月だが、無理を承知で頼みにきた」ということであった。

昭和23年2月、GHQは外貨獲得のため岡山県玉野市の三井造船所で優秀船7,800トン2隻の建造を明示、これをデンマークに輸出する事となった。
無線機はRCA、マルコーニ、東芝、日本無線の競争だったが、日本無線に決まって忙しくなった。750W中波送信機、500W短波送信機、50W非常送信機、全波受信機2台、SOS受信機、SOS自動電鍵、方向探知機、400HZDC440VMG、等であった。
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JRC 日本無線 NMR119型 全波受信機 昭和22年7月製造
受信方式は、ストレート型いわゆる1-V-2の高周波増幅1段、検波、低周波増幅2段の簡素なものだが、使用真空管は最新型のGT管を採用している。写真ではプロペラマークの東芝製の6SJ7のようである。
これから、真空管構成は以下のように想定される。
RF(6SJ7)、検波(6SJ7)、低周波増幅(6SJ7)、低周波電力増幅(6V6)
真空管に関しては、時期から見て、どう考えてもライセンス生産ではなく、海賊版のようである。(戦後こんなに早期にGT管を採用したのか少し疑問は残るのですが・・)
また、このような簡易受信機は、戦後外洋の漁船団に搭載されていたのでしょう。
本機は横ダイヤルの無周波数直読とバンド切替SWを装備している。


参考として電子掲載する管の歴史からの抜粋
GT管も1948年にトランスレス受信機用のシリーズが東京芝浦と川西機械から発売された。それぞれ、周波数変換管12G-C5、高周波5極管12G-R6、2極3極管12G-DH3、出力5極管30G-P9、半波整流管30G-K5のシリーズである。
このほか6.3VのGT管も移動無線用として各社で試作された。
周波数変換管6G-C5、高周波5極管6G-R7、ビームパワー管6V6-GT、双2極管6H6-GTなどである。
1949年になると、GT管の本格的な国産化が開始され、周波数変換管6SA7-GT、可変増幅5極管6SK7-GT、双2極3極管6SQ7-GT、全波整流管6X5-GTなど次々に国産化された。

NMR125型中短波受信機 日本無線 昭和23年6月製造
受信方式は、高1中2のスーパーヘテロダイン方式である。
使用真空管はすべてGT管を採用しており、パネルの表記は英語となっており、海外使用を想定していようだ。
本機は円形ダイヤルの周波数直読とバンド切替SWを装備している。
占領下のためか銘板はケースの背面に秘かに配置されているが、メーカー名などは日本語となっている。

波803全波受信機 日本無線 昭和24年10月製造
NMR125型中短波受信機の同一構成となっているが、使用真空管はGT管ではなくST管が採用されている。
また、パネルの表記は全て日本語となっており、国内使用を想定するとともに、ST管使用による安価を狙っているように思える。
銘板もパネル正面に堂々と設置している。


結語
戦時中の軍用受信機と業務用更には民生用ラジオ開発動向を紹介した。
更に終戦から数か年での我が国の受信機の開発動向を紹介したが、いずれもアメリカの技術導入により開発されたものではなく、国内の元軍需生産企業の技術力で開発したものである。
ということは、戦時においてもこの程度の受信機は簡単に製造することが可能であったということである。
この原因は一重に軍の無線通信運用に関する理解不足と技術に対するチャレンジ精神の欠如といったところでしょうか。
心配なのが、戦時のこの受信機の開発動向と今日の日本の電子産業の歩みが同じように見えることである。


愚痴ですが・・・・
今日、日本の電子産業の企業の衰退は目を覆いたくなるほどである。
スマートフォンからの大手各社撤退を皮切りに、シャープの台湾企業の買収、各社液晶テレビ生産からの撤退、果ては台湾企業による半導体企業の日本誘致など数えればきりがない。
このような状況の中で、日本で大規模に半導体を生産しても、国内ではもはや大きな需要は考えられない。
パソコン、スマートフォンも液晶TVなども国内生産はしていないのだ。
自動車産業が使用する半導体があればいいだけなどだが、数年前この虎の子国内半導体生産会社が火災を生じたが、ほかの国では、半導体工場でのこんな火災の話を聞いたことはない。
もはや日本では半導体を生産する能力も資格もないということなのか。
もう一つ言わせてもらえば、36年前、国は営利目的で公社の民営化をおこなった結果、これ以降暫時研究開発力は低下してしまった。
民営化は営利目的しかない目のない会社になりさがり、今日の日本を形成しているようだ。



参考文献
特攻 御田重宝 1988年11月 講談社
幻のレーダーウルツブルグ 津田清一 昭和56年12月 CQ出版
電子管の歴史 岡村総吾 昭和62年11月 オーム社

 


断捨離最終処分につきオークション取引再開について(令和4年05月24日)

2022年05月24日 08時44分37秒 | 96無線コラム

断捨離最終処分につきオークション取引再開について(令和4年05月24日)

以前から断捨離を継続的に行っており、貴重品については既に公的機関へ寄贈し、不用品についてはyahooオークションで処分しておりますが、未だ倉庫が満杯状態です。
今回は最終処分して倉庫に眠っている不用品についてはできる限り断捨離することにしました。
yahooオークションの第一陣の商品として測定器関連として真空管式オシロスコープを引っ張り出してみました。
真空管式オシロスコープについては、20年前から収集するようになり秋葉原の篠塚電機の店主(海軍の元通信兵)に頼んでいたら、1点1万円でどんどん収集する羽目になった。
真空管オシロスコープの収集は、旧軍のレーダーの指示機を自作するための部品どりを目的としていたのですが、度を越えてどんどん収集に歯止めがきかなくなった次第です。
古い真空管式オシロスコープは今では動作品のものは皆無に近いのですが、修理はコンデンサーの交換で簡単に修理できますが、高耐圧のコンデンサーも高価なこともありあまりお勧めできません。
しかしながら、古い真空管式オシロスコープを一度修理するとその魅力ははまるかもしれませんね。

 


中国新聞社への投稿記事「今も耳に残る特攻隊の叫び」に関する30年後の考察について(令和4年05月19日)

2022年05月19日 08時08分26秒 | 96無線コラム

中国新聞社への投稿記事「今も耳に残る特攻隊の叫び」に関する30年後の考察について(令和4年05月19日)

平成3年(1991年)12月15日の中国新聞社の読者投稿欄に投稿された「今も耳に残る特攻隊の叫び」を掲載する。

中国新聞社に投稿された栗林登氏は、投稿当時68歳とのことなので、昭和19年当時であれば21歳で応召されたことになります。
ご存命されているのであれば、99歳となられると思いますが、日本は超高齢化社会なのでお元気で居られることをお祈り申し上げます。
今回は、本投稿記事を基に、あくまで軍用無線に関する事項を主眼として敗戦末期の陸軍小月飛行場に関連する当時の状況を出来る限り明らかにしたいと思います。

投稿記事の重要なキーワードを以下の3点として整理した。
1.昭和19年4月、下関小月旧陸軍航空隊に応召し、終戦まで通信兵として従事
2.昭和19年7月、旧八幡製鉄所の初空襲
3.小月から飛び立った1パイロットがB-29に初体当たりをし、これを機に特攻隊が編成され終戦までの約1年間に、多くのパイロットが北九州上空で散華した。
無線電話を通して、突入寸前に発する最後の肉声が、今でも耳に残る。

1. 昭和19年4月、下関小月旧陸軍航空隊に応召し、終戦まで通信兵として従事
小月航空基地の沿革
戦前
1937年(昭和12年)6月 - 逓信省の下関飛行場として着工
1940年(昭和15年)
3月 - 逓信省所管「下関飛行場」竣工
4月 - 帝国陸軍に移管され下関陸軍飛行場に改称。大刀洗陸軍飛行場より飛行第4戦隊が移駐
1941年(昭和16年) - 小月飛行場と呼称されるようになる
1942年(昭和17年)
4月 - 第4戦隊は二式複座戦闘機「屠龍」に機種改編
10月 - 第19飛行団司令部を配置
1944年(昭和19年)7月 - 第19飛行団司令部が第12飛行団司令部に昇格
※ 第4戦隊は本土防空飛行部隊として夜戦を含む練成にあたり、B-29による日本初爆撃である八幡空襲(1944年6月)に始まる本土防空戦に敗戦まで小月において従軍。

※コメント
下関小月旧陸軍航空隊とは、在内地航空部隊復員状況一覧表によると第6航空軍の第12飛行師団のことで終戦時約4,000名の人員を要する飛行師団であった。

終戦時の小月飛行場兵器集積現況表

※文字起こし版
戦闘機    
97戦           5機
1式単戦        6機 
2式単戦        1機
2式複戦         47機
3式戦         1機 
4式戦          18機 
5式戦         1機
練習機    
直協高練       8機
双練         7機
偵察機
軍偵         1機
百偵         4機
爆撃機    
99双軽             1機
機種不明   
B6N2                           1機 (※海軍艦上攻撃機 天山一二型のこと)
海軍中練          8機
合計         109機

※コメント
戦後、米軍への武器引渡しのために取りまとめた「小月飛行場兵器集積現況表」には、航空部隊の一般的な組織表にもTMとして対空無線の組織があるはずなのだが、無線通信機器に関する引渡し資料が何故かないこともあり、通信組織の実態が残念ながら本資料ではわからない。
しかし、引渡しには、表外との断わりがあるが「電波探知機3台」が含まれているが、陸軍では、通常は電波警戒機と電波標定機の2種類に区分されるが、その総称として電波探知機なる名称を使用している。
ここでは、基地周辺の対空警戒用の電波警戒機が配備されていたものと思われる。
ファザーさんのHPによれば、下関周辺では和久に電波警戒機乙要地用2台と電波警戒機甲1台の計3台配置されていたとのことから、このことを指しているのかも知れない。
なお、電波警戒機については第35航空情報隊が所管している。
参考情報 電波探知機の用語の使用例

更に、通信組織を調査するためアジア歴史資料センターのデータベースで検索すると第12飛行師団の組織表がヒットし、対空無線の組織は、第14対空無線隊(西部第109部隊)であることが判明した。
したがって、投稿者の方もこの第14対空無線隊に所属したものと思われます。
写真は熊本陸軍飛行場(熊本健軍飛行場)の通信室の運用状況

 ※文字起こし版
第12飛行師団
第12飛行師団司令部
独立飛行第19中隊
飛行第4戦隊
飛行第59戦隊
第41航空地区司令部
第4飛行場大隊
第64飛行場大隊
第65飛行場大隊
飛行第71戦隊
第142飛行場大隊
第148飛行場大隊
第162飛行場大隊
第172飛行場大隊
第173飛行場大隊
第174飛行場大隊
第248飛行場大隊
第57飛行場中隊
第19航空通信連隊(削除)
第6対空無線隊(削除)
第7対空無線隊(削除)
第14対空無線隊
第2航測連隊第2中隊(削除)
第193飛行場大隊
第194飛行場大隊

飛行第4戦隊の概要
飛行分科:偵察、戦闘
編成時期:1938年(昭和13年)8月31日(飛行第4連隊(4FR)を改編)
編成地:芦屋町
使用機種:九四式偵察機、九五式戦闘機、九七式戦闘機、九七式司令部偵察機、二式複座戦闘機「屠龍」
終戦時の所在地:小月(山口県)

当記事との関連を調べるため、戦闘機隊史を見ると「飛行第104戦隊が昭和19年7月26日小月の4戦隊内で編成に着手し、8月上旬第一次編制が完結し防空戦闘隊で、戦隊長に滝山和少佐が発令された。この間、中村和雄少尉は、8月20日のB-29来襲に際し、戦隊唯一の1式戦で八幡上空の迎撃に出動した。」とある。
その後104戦隊は満州防空を内示され、9月8日現在で、戦隊は奉天に進駐している。

独立飛行第19中隊/司偵防空戦闘機隊(靖第21204)
◆使用機種
百式司令部偵察機(新司偵)、百式司令部偵察機改(百改)
◆部隊史
西部軍管区内の防空作戦に参加
◆編成/昭和19年7月30日小月
◆復帰/昭和19年9月15日、小月
◆歴代中隊長
自在丸庫一少佐

飛行第59戦隊
昭和19年7月18日付けで戦隊は第12飛行師団隷下に編入されて制式に防空任務を付与され、8月20日の昼間来襲時には稼働戦力21機で迎撃して、B-29の迎撃の戦果をあげた。北九州地区の防空にあたり、昭和20年7月10日現在の戦隊戦力は5式戦48機(うち可動機22機)、7月25日付けで、戦隊は第12飛行師団から第30戦闘飛行集団に転入。

飛行第71戦隊
昭和20年4月1日比島から帰還し、第12飛行師団の隷下にあって北九州地区の防空任務についたが、4月ごろの4式戦可動機は4から9機にすぎなかった。
5月中旬、戦隊は義烈空挺隊の出発援護のため熊本県の隈之庄に前進後、5月24日防府へ復帰した。8月13日戦隊は南九州防空のため、15日夕方から知覧に前進して迎撃戦闘に当たるべし、との命令を受領したが、準備完了後、終戦により中止命令を受けた。
5式戦への機種改変する計画であったが、結局実現を見ないままに終わった。

一式戦闘機
一式戦闘機は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。愛称は隼(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機。

二式複座戦闘機
二式複戦は日本本土の防空部隊にも配備され、1942年(昭和17年)4月のドーリットル空襲の際には出撃したものの、会敵できずに終わった。B-29による本土空襲が1944年(昭和19年)6月に開始されると(八幡空襲)、二式複戦を装備する飛行第4戦隊や飛行第5戦隊、飛行第53戦隊といった部隊が戦果を挙げた。特に山口県下関市小月飛行場に駐屯する第12飛行師団隷下の第4戦隊は、日本の鉄鋼生産業の心臓部でもある北九州の八幡製鉄所を防空地区としていたこともあり、西部軍管区司令部直轄の来襲機情報の早期伝達、完全に整備された無線電話の積極的な活用、地上の戦隊長による戦隊指揮所から無線電話を利用しての部隊指揮、地上部隊(高射砲・照空灯)との緊密な協同戦、特に錬度の高い操縦者で構成されるなど、対B-29の本土防空部隊としては日本一の精鋭部隊とも称された。それらの準備は実戦においても生かされ、B-29の日本本土初爆撃となった1944年6月15日から迎撃戦に参加し、最多B-29撃墜王となった樫出勇大尉(B-29の26機撃墜を報告)を筆頭に多くのエース・パイロットを輩出し、以降終戦に至るまで連日出撃した。
しかし、高性能のB-29を撃墜するには速度・上昇力・高高度性能すべてが不足しており、有効な攻撃をかけることは難しかった。そのため、体当たり攻撃専門の空対空特攻隊(震天隊・回天隊)が一時編成された。通常攻撃の機でも体当たり攻撃は頻繁に行われた。

動画 日本軍] 二式複座戦闘機"屠龍" WW2 Japanese Kawasaki Ki-45"Nick"
https://www.youtube.com/watch?v=1aNk-qYSiKE


2.昭和19年7月、旧八幡製鉄所の初空襲
八幡空襲
八幡空襲は、第二次世界大戦中の1944年6月16日未明、アメリカ陸軍航空軍第58爆撃団の戦略爆撃機B-29が行った初めての日本本土空襲。九州北部の官営八幡製鐵所を第一目標とし計75機のB-29が出撃、うち47機が八幡市などを爆撃した。製鐵所の被害は極僅かだったが、爆撃は北九州5都市(八幡、小倉、戸畑、門司、若松)におよび、270名以上が犠牲となった。米軍側報告では作戦中の事故で5機のB-29が損失、2機が日本軍機により撃墜とされた。これに対し、日本側報告では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機、日本側被弾機1機と報じられた。
目標の八幡製鐵所コークス炉への命中弾はなく、空襲自体は不首尾だったが、同日サイパン島に米海軍の上陸を許したこともあり(サイパン島の戦い)、大本営は八幡空襲の報に衝撃を受けた。一方でアメリカや中国ではこの空襲の成果が大々的に報道された[4][5]。作戦中B-29の収集した情報によって日本本土の防空体制の脆弱さが明らかとなり、その後の大規模な本土空襲の発端ともなった。
八幡市は、1944年8月20日に中国から飛来したB-29によって2度目の空襲を受け、さらに翌1945年8月8日の3度目の空襲(八幡大空襲)ではマリアナ諸島基地発のB-29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸 死傷者は約2,500人の壊滅的な被害を被った。


3.小月から飛び立った1パイロットがB-29に初体当たりをし、これを機に特攻隊が編成され終戦までの約1年間に、多くのパイロットが北九州上空で散華した。
無線電話を通して、突入寸前に発する最後の肉声が、今でも耳に残る。

※コメント
投稿者は19年7月に初空襲で、小月から飛び立った1パイロットがB-29に初体当たりしたとありますが、実際は「飛行第104戦隊が昭和19年7月26日小月の4戦隊内で編成に着手し、8月上旬第一次編制が完結し防空戦闘隊で、戦隊長に滝山和少佐が発令された。この間、中村和雄少尉は、8月20日のB-29来襲に際し、戦隊唯一の1式戦で八幡上空の迎撃に出動した。」という記録がある。
一方、矛盾はあるのですが、飛行第59戦隊も、同日の8月20日の昼間来襲時には稼働戦力21機で迎撃して、B-29の迎撃の戦果をあげたとの記録もある。
77年前の戦争ですから、多少の誤謬があるのは当然の事で真相はわかりません。
なお、8月20日の体当たり特攻の記録については、確認できませんでした。

※コメント
投稿者の方も、「無線電話を通して」として強調されていますが、通常陸軍でも海軍でも無線通信はモールス信号による電信が主要な通信手段である。
しかしながら、陸軍航空隊の戦闘機と基地間及び友軍機間では無線電話が使用されている。
以下、99式飛行機用無線機について紹介する。
戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給からの抜粋
99式飛行機用無線機
99式飛行機用無線機は、昭和13年の研究方針に基づいて、航空が初めて審査を行った器材で、飛1号(遠距離用)、飛2号(中距離用)、飛3号(近距離用)、飛4号(編隊用)及び飛5号(指揮用)の5種があり、いずれも制式制定は昭和16年であった。
飛3号は雑音が大きく、周波数変動がはなはだしかったため、編隊通信を除いてほとんど戦闘機の要求を満足させ得なかった。飛4号は超短波を使用していたため、編隊構成時に他機の機影内に隠れた機とは通信が困難で、また、飛5号は出力が飛2号に及ばなかった。このため、飛4号及び飛5号に対する部隊の評価は芳しくなく、不必要という意見が出て、整備は途中から中止された。
ただ、99式の器材は部品の統一を図り、真空管も807A(送信用)、6F7(受信用)の各1種としたことで、補給は極めて容易となった。
機上用無線機に対応する対空用無線機として、地1号、地2号及び地3号が制定された。これらは従来のものより小型軽量となり、運搬が容易であった。
このほか、操縦訓練に使用する超短波無線機(操縦訓練無線送信機、同無線受信機、同無線車から成る)も制定された。

※コメント
陸軍の場合、航空機により飛1号(遠距離用)、飛2号(中距離用)、飛3号(近距離用)、飛4号(編隊用)及び飛5号(指揮用)の5種があるが、どの機種がどの無線機を搭載するような公式資料が全くない。
ただし、一式戦闘機「隼」については、飛3号(近距離用)が搭載されていることがわかっているが、二式複座戦闘機「屠龍」の搭載無線機については、永年不明であったが、今回の調査で下記の取扱法に飛3号を搭載するとの記録があった。

99式飛3号無線機の諸元については、下記のURLを参照願います。
99式飛3号無線機 https://minouta17.hatenablog.com/entry/2019/07/02/095059

※コメント
第6航空軍の第12飛行師団における飛行機搭載用の無線機及び対空通信用の地上部隊である対空無線隊の無線機の保守管理はどの部隊がおこなっていたのだろうか。
基本的には、飛行場大隊は飛行機の管理、航空部隊への支援、飛行場の整備などの保守管理を行う部門である。
第12飛行師団には、飛行場大隊として下記の大隊及び中隊がある。
第4飛行場大隊、第64飛行場大隊、第65飛行場大隊、第142飛行場大隊、第148飛行場大隊、第162飛行場大隊、第172飛行場大隊、第173飛行場大隊、第174飛行場大隊、第248飛行場大隊、第57飛行場中隊、第193飛行場大隊、第194飛行場大隊
この中のどこかの大隊が無線機の保守管理を行っていたと思われるが、第12飛行師団でのこれ以上の情報を探すことができなかった。
仕方ないので第5航空軍司令部での飛行場大隊の具体的な事例を調査することとした。
本資料は終戦後に飛行場大隊単位に中華民国への兵器引續目録表/兵器引續数量表(航空兵器)の中の通信兵器のみを抽出した資料である。
第5航空軍司令部
昭和19年(1944年)2月15日編成、在支航空戦力の増強を図るため、司令部を京城に置き、次の航空部隊を指揮した。(支那派遣軍戦闘序列内の第3飛行師団から格上げ)
第5航空軍直轄 第202飛行場大隊
地一号方向探知機(二型) 1組、地二号無線機(二型)1組、地二号無線機受信機乙1組、地二号無線機整流器、地二号無線機発動機属品箱
第5航空軍直轄 第221飛行場大隊
九九式飛二号無線機1組、 九六式飛二号無線機2組
第5航空軍直轄 第160飛行場大隊
地一号無線機受信機1組、地二号線機受信機4組、地二号線機送信機1組、地三号無線機7組、特殊受信機1組
第5航空軍直轄 第161飛行場大隊
地三号無線機1組
上記事例のように各飛行場大隊により、航空機搭載用無線機、対空通信用の地上無線機及び航測隊用の方向探知用無線機の保守管理を行っていることが分かる。

参考情報
陸軍戦闘機の無線兵装の実装の実態について
https://minouta17.hatenablog.com/entry/2022/05/07/090806


その他気付き
二式複座戦闘機「屠龍」のコックピットの右サイドの配電盤の上部にはオリジナル機体には何もないが、米国でのテスト機には、米軍の送受信機用の遠隔操作部を新たに設置している。
送受信機本体については、後部座席の背面に設置されているものと思われる。
二式複座戦闘機「屠龍」は飛3号無線機を後部座席に設置している関係上、米軍のテスト飛行ではパイロット一人で操縦するため、日本のオリジナル無線機が使用できないことから、新たに米軍の無線機を設置したのだろう。
米軍も日本陸軍の航空機にも直流電源の24Vが使用されていることから、容易に無線機の追加工事が可能だったものと思われる。
なお、日本の海軍機は直流電源が12Vのためこのような互換性は確保できない。

二式複座戦闘機「屠龍」に搭載された米軍の無線機について
SCR 274-N
BC-450-4 送受信機用遠隔操作部

BC-453-B  BC-454-B  BC-455-B 受信機

BC-457-A  BC-458-A 送信機

BC-456-B 変調機

 


参考文献
戦史叢書 陸軍航空兵器の開発・生産・補給 防衛庁防衛研修所
日本陸軍戦闘機部隊 航空情報編集部 昭和52年3月
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15011097900、小月飛行場兵器集積現況表(航空兵器) 昭和20年10月5日現在(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15011154700、12.昭和20年10月15日 在内地航空部隊復員状況一覧表(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12121028700、第12飛行師団(防衛省防衛研究所)」
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C15120130400、西部の部隊(防衛省防衛研究所)」
ファザーさんのHP http://www17.big.or.jp/~father/aab/FN/35FN/35FN.html
飛行第4戦隊 (日本軍) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E7%AC%AC4%E6%88%A6%E9%9A%8A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
二式複座戦闘機 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%BC%8F%E8%A4%87%E5%BA%A7%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
一式戦闘機 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%BC%8F%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F
八幡空襲 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A9%BA%E8%A5%B2
小月航空基地 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9C%88%E8%88%AA%E7%A9%BA%E5%9F%BA%E5%9C%B0
独立飛行中隊一覧データベース
http://soranokakera.lekumo.biz/tesr/2018/01/post-f304.html
Yahooオークション

 

 


戦火のウクライナから当ブログへのアクセスあり(令和4年05月05日)

2022年05月05日 10時27分00秒 | 96無線コラム

戦火のウクライナから当ブログへのアクセスあり(令和4年05月05日) 

日本帝国陸海軍無線開発史(https://minouta17.hatenablog.com/)なるブログを別途に開設しています。
本ブログは戦時の旧軍の無線機や電波兵器に対して、大変中途半端な内容ではありますが、網羅的、体系的に情報を整理することに努めているところです。
アクセス対象も日本語オンリーで国内専用のつもりですが、海外からも少しはアクセスがあるようです。
その中でも、数年前からウクライナからの時々アクセスがあり、どんなかたが興味を示されているかと思っておりました。
しかしながら、今回のロシア侵攻でもはやウクライナからのアクセスなどの考えられないと思っていた矢先に、2020年5月3日にウクライナから当ブログへのアクセスがありました。


IPアドレスから場所は首都キーウの北東のNizhynという地名のようです。
キーウの北西のブチャーなどの悲惨な動画から想像もできないのですが、北東部の都市には被害が少なかったのかもしれません。


 
この戦時のウクライナにあっても、ネットワーク環境には問題ないことと同時に、気休めでも自分の興味のあるブログを見ることができる心の余裕に対して感心する次第です。


ロシアのウクライナ侵攻に関しては、あらためて歴史からの手がかりをえるため両角良彦氏の1812年の雪モスクワからの敗走と「バルバロッサ作戦-ソ連侵攻に賭けるヒトラー」を読んでいます。
ウクライナ侵攻ではテレビ解説のために軍事専門家なる人物による「バルバロッサ作戦」の引用がよくされていますが、当人らが本当に読んでいるのか疑わしい次第です。
例えば、今回のロシア軍のウクライナ侵攻でロシアの戦車にZやVのマークをした話が出ますが、パウル・カレルの「バルバロッサ作戦」を読めば、「ドイツ戦車に<白いG>と言って、大きく白く描かれた<G>は、装甲集団の全車両のマーク、<G>はグデーリアンのことである。こうすれば一見して味方戦車であることがわかる。」
今回のウクライナ侵攻でロシアの戦車の白地のマークについては、これが本当の起源のようですが、本を読めば、必ず評論すべき重要事項と思いますが、今日まで軍事専門家と称する人からのこのような発言はありません。
YAHOOニュースでは、50年前の1968年8月に当時のチェコスロバキアにソ連軍などが侵攻した時に、ロシア側の戦車が自軍の識別マークとしてペイントされたとの記録があったとのコメントがあっただけです。

ロシアは第二次世界大戦では新型のT-34の大量投入によりドイツを打ち破り、今度はロシアのウクライナ侵攻ではロシア側のT72やT-80の過信により新戦術であるドローンなどの新型兵器の投入により、進攻側のロシアのほうが今度は敗北の可能性さえある危機的状況となっています。
第二次世界大戦では当時のロシアは、米のレンドリース法により大量の新型兵器の供与により勝利に大変貢献しましたが、今回は英米を中心として西側陣営がウクライナへ新型兵器の大量提供を行っていますが、これが最後にウクライナの命運をきめる戦いになることだろう。
とはいっても、簡単に戦局が動くことはなく、まだまだウクライナの困難は続くだろう。
日本のように「ウクライナがかわいそうだから?」の理由で、ヘルメット、防弾チョッキと民生ドローンなどを提供しても、ウクライナ側は本心から感謝はできないのです。
武器がなければ、ウクライナはロシアに負け、そうなれば支援国への感謝は永久に出来ないのです。
その理屈が判らず、ウクライナからの感謝がないことへ文句をいっている平和なニッポン国民は本当に大丈夫なのだろうか。


参考資料
レンドリース法
オークションウォッチ WIRELESS SET No19 MARK Ⅱについて(令和4年03月02日)
https://blog.goo.ne.jp/minouta17/e/b72dc7f58e0d192f2bf83e64cdd6c4bc

 

参考文献
バルバロッサ作戦-ソ連侵攻に賭けるヒトラー パウル・カレル 松谷健二訳 1971/9
1812年の雪モスクワからの敗走 両角良彦

 

 


YahooニュースのITER用ジャイロトロンの8機完成について(令和3年06月07日) 

2021年06月07日 10時24分28秒 | 96無線コラム

YahooニュースのITER用ジャイロトロンの8機完成について(令和3年06月07日) 

記事全文を以下に再掲します。
ITER用ジャイロトロン、日本担当の8機が完成。4機は検査を通過し出荷待ちに
6/1(火) 8:11配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/0d9b0f93c8cc12c93332e3d719a7f6e80b00d938

量子科学技術研究開発機構(QST)とキヤノン電子管デバイスは、2021年5月28日、フランスで建設中の核融合実験炉「ITER(イーター)」で、プラズマ加熱に使用する高出力マイクロ波源ジャイロトロンの日本担当分8機すべての製作を終えたと発表した。 【写真】人工ダイヤモンド製の出力窓。熱伝導率が高く、またマイクロ波のヌケもいいため採用された また、2025年に予定されているITERの運転開始に必要な4機の性能確認検査が終わり、ITERサイトへ出荷待ちのステータスにあるという。 2025年から開始予定の実験で使用するジャイロトロンは8機で、日本とロシアが4機ずつ担当する。加えて、2035年からの核融合実験で使用するジャイロトロンは24機で、分担は欧州と日本、ロシアが8機ずつ。日本は先駆けて必要数の8機をそろえた形となる。 高出力マイクロ波源ジャイロトロンは、キヤノン電子管デバイスが8機すべてを製作しており、1機ずつ那珂核融合研究所において性能検査が進められ、1~4号機は性能確認検査を通過済みだという。 1~4号機は、2022年以降にITERサイトへ空輸される予定となっている。 核融合をおこすためには、プラズマの生成や数億度までの加熱、さらに高温状態の維持が必要で、それらをすべて行うことができる加熱方法として、高出力波マイクロ波をプラズマに入射する方法がある。 高出力マイクロ波源ジャイロトロンは、電子銃から生じた電子ビームを強磁場中で加速し、そのエネルギーをマイクロ波に変換する装置で、そのマイクロ波でプラズマを数億度にまで加熱する。 原理は電子レンジと同じだが、出力100万W、周波数170GHzと、一般的な電子レンジと比較して出力約2,000倍、周波数約70倍の性能だ。 2035年に予定されている核融合運転時は、24機のジャイロトロンが並列使用され日本とロシア、欧州がそれぞれ8機ずつ製作を担当している。 ジャイロトンは全高約3m、重量約800kg。ほぼ中央に人工ダイヤモンド製の出力窓を備え、その窓から、本体内部で生じた高出力マイクロ波が出力されて、伝送部へ経て真空容器内の入射部に送られる。 求められる性能は10年以上運転可能で、かつ170GHz、100万W出力、持続時間数百秒以上、電力効率50%以上となっている。 そのため、性能確認試験では約4ヶ月の慣らし運転を経て、繰り返し運転や高速オンオフの切替試験を実施した。 製作直後の持続時間は0.001秒だったが、慣らし運転後は持続時間300秒になったとのことだ。 ジャイロトンの開発は1990年代から始まり、国内では2017年に1号機と2号機が、2021年に8号機まで完成し、日本が担当する分はすべての製作済んだことになる。 今後、5~8号機は慣らし運転と性能確認試験が行なわれ、2023年までにITERサイトに運び込まれる予定だ。 ITER組み立ての進捗度は2021年5月末時点で約73%。順調に2025年のファーストプラズマに向けて進んでいる。

この記事でおどろいたことは、TER用ジャイロトロンというと戦時中に陸海軍が殺人光線としてB29撃墜用の秘密兵器として開発していた大型磁電管(マグネトロン)の現代版のようなものに思えたからです。
もう一つは、製造会社が、キヤノン電子管デバイスという失礼ですが初めて聞いた名前の会社のことです。
日本でもまだ電子管を作っているのとかと実は感激しています。
以下にキヤノン電子管デバイスネット株式会社の情報を参照すると
マイクロ波管/送信管は、通信、気象観測、工業加熱などの社会基盤、更には高エネルギー研究、核融合研究に至るまでの多くの分野でご使用いただいております。
社会基盤分野では、送信管、クライストロンなど様々な用途に対応した製品を取り揃えております。
最先端科学技術分野では、国内外の大学・研究機関との共同研究で得られた技術を活かし、大電力クライストロンジャイロトロンなどで世界No.1の性能を達成し続けております。

ITER用ジャイロトロンの仕組みは以下のとおりです。

 

島田海軍牛尾実験所関係資料の紹介
当実験所で使用されたと思われる磁電管とパラボラアンテナ



 

陸軍のレーダーで使用された磁電管(MP-15)

 


参考資料
軍用無線のブログ
http://prc77.livedoor.blog/archives/2020-02-25.html

こころの風景 52
http://kanayakomyunithi.web.fc2.com/kokoro/kokoro52.html