水に流す
「水に流す」という言葉があります
これは二者間で何らかのトラブルが発生し、それが解決されたものとして、お互いの気持ちのしこりを、水で洗い流したもののように、さっぱり忘れるということを意味した言葉だと思います。
この「気持ちのしこり」とは、考えてみれば、精神的な意味の疾患なのかも知れません。それは、意識の中に一点の腫瘍のようにとどまり、ときには肉体にまで悪影響を及ぼしてくるものです。だから、この「精神的腫瘍」はぜひとも早急に取り去りたいものであり、それがお互いに忘れようという呼びかけの言葉として「水に流そう」という言葉になったものと思われます。
しかしこの「気持ちのしこり」は 何も二者間のトラブルのみから発生するものとは限りません。人生には、無数の「気持ちのしこり」を発生させる要因があり、それが「悪性の精神的腫瘍」にまで悪化してしまう場合もしばしばあるのです。そして、その精神的腫瘍は「肉体的腫瘍」にまで進行しないとも限らないのです。
私はすべての慢性的な難病が起こるもとは「意識」と「食」にあると考えます。すなわち、繰り返し続行されたマイナス的な思考と、健康を損ない免疫力を低下させるような食事を取り続けた結果、その病気に陷ったものと考えるのです。
とすれば、その回復のための方策も同じく「意識」と「食」にこそあると思うのです。この場合「意識」のことをまず考えれば、それは「気持ちのしこり」を「流し去る」ところにこそあるのではないでしょうか?
一方で、「流れ去らない」ことは、どういうことでしょうか?
それは表層意識の上に繰り返し思い出されるということです。それが、意識にとどまるというこでしょう。
そして、それが思い出されないということは「忘れた」のだと言っていいでしょう。
さて、人生にはそれを意識にとどめることが必要な場合と、むしろ忘れた方が有益な場合があることを考慮してみてください。
たとえば何かを学ぶ場合、意識をそこに集中し、意識がそこにとどまらなければいけません。記憶とは、ある意味では感情的意識の肌に傷をつけるようにも思えます、ある時には、血を流したような苦痛が、記憶として忘れられないものとなるのです。
さて、ここらで、初めの「流す」という視点に戻って話を進めたいと思います。
「流す」ということは「忘れる」ということであり、そのためには、あまり強く意識を集中しないことによって容易になるようです。
若い頃は、私もご多分に漏れず努力集中の信奉者でした、というより、それを「絶対的な善」と信じて疑わないところがあったのです。しかし人生の坂も峠も過ぎて、ようやく下り坂になってくると、人間生きるためには「流す」ということの方が、もっともっと必要なんだと思うようになってきたのです。また生き方も自然とそんな具合にそうなって来つつあります。
もっとも人様に言わせば「なあに、それはたんに老いぼれてきただけだよ」と言われるだけかもしれませんが・・・
ま、もしそんな悪口を言われたとしても、そしてそれが私の耳に入ってきたとしても、それは水に流しておきましょう! (唱元 平成つれづれ草より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夢の実現は常に一段上を見ることにある
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
心・思考が、何かに氣になり、引っ掛かり・・氣にするな でも 気になり・・
今の行動が決断が 周りの評価が気になり・・氣にするな でも 気になり・・
明日は病に 今が元氣でいれば でも 明日は病に・・氣にするな でも気になり
明日の生活に 今が豊かであれば 明日の生活に・・氣にするな でも気になり
すべて マイナスは 流し 忘れ 今 気をシメズ 氣をダシ
氣・・米・・放射し・・
「水に流す」という言葉があります
これは二者間で何らかのトラブルが発生し、それが解決されたものとして、お互いの気持ちのしこりを、水で洗い流したもののように、さっぱり忘れるということを意味した言葉だと思います。
この「気持ちのしこり」とは、考えてみれば、精神的な意味の疾患なのかも知れません。それは、意識の中に一点の腫瘍のようにとどまり、ときには肉体にまで悪影響を及ぼしてくるものです。だから、この「精神的腫瘍」はぜひとも早急に取り去りたいものであり、それがお互いに忘れようという呼びかけの言葉として「水に流そう」という言葉になったものと思われます。
しかしこの「気持ちのしこり」は 何も二者間のトラブルのみから発生するものとは限りません。人生には、無数の「気持ちのしこり」を発生させる要因があり、それが「悪性の精神的腫瘍」にまで悪化してしまう場合もしばしばあるのです。そして、その精神的腫瘍は「肉体的腫瘍」にまで進行しないとも限らないのです。
私はすべての慢性的な難病が起こるもとは「意識」と「食」にあると考えます。すなわち、繰り返し続行されたマイナス的な思考と、健康を損ない免疫力を低下させるような食事を取り続けた結果、その病気に陷ったものと考えるのです。
とすれば、その回復のための方策も同じく「意識」と「食」にこそあると思うのです。この場合「意識」のことをまず考えれば、それは「気持ちのしこり」を「流し去る」ところにこそあるのではないでしょうか?
一方で、「流れ去らない」ことは、どういうことでしょうか?
それは表層意識の上に繰り返し思い出されるということです。それが、意識にとどまるというこでしょう。
そして、それが思い出されないということは「忘れた」のだと言っていいでしょう。
さて、人生にはそれを意識にとどめることが必要な場合と、むしろ忘れた方が有益な場合があることを考慮してみてください。
たとえば何かを学ぶ場合、意識をそこに集中し、意識がそこにとどまらなければいけません。記憶とは、ある意味では感情的意識の肌に傷をつけるようにも思えます、ある時には、血を流したような苦痛が、記憶として忘れられないものとなるのです。
さて、ここらで、初めの「流す」という視点に戻って話を進めたいと思います。
「流す」ということは「忘れる」ということであり、そのためには、あまり強く意識を集中しないことによって容易になるようです。
若い頃は、私もご多分に漏れず努力集中の信奉者でした、というより、それを「絶対的な善」と信じて疑わないところがあったのです。しかし人生の坂も峠も過ぎて、ようやく下り坂になってくると、人間生きるためには「流す」ということの方が、もっともっと必要なんだと思うようになってきたのです。また生き方も自然とそんな具合にそうなって来つつあります。
もっとも人様に言わせば「なあに、それはたんに老いぼれてきただけだよ」と言われるだけかもしれませんが・・・
ま、もしそんな悪口を言われたとしても、そしてそれが私の耳に入ってきたとしても、それは水に流しておきましょう! (唱元 平成つれづれ草より)
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夢の実現は常に一段上を見ることにある
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心・思考が、何かに氣になり、引っ掛かり・・氣にするな でも 気になり・・
今の行動が決断が 周りの評価が気になり・・氣にするな でも 気になり・・
明日は病に 今が元氣でいれば でも 明日は病に・・氣にするな でも気になり
明日の生活に 今が豊かであれば 明日の生活に・・氣にするな でも気になり
すべて マイナスは 流し 忘れ 今 気をシメズ 氣をダシ
氣・・米・・放射し・・