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懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

蒸気機関車  石北本線遠軽

2011年12月02日 | 鉄道
北海道 石北本線遠軽駅と機関区の写真をお送りします。
かっては遠軽は交通の要所でもあった。
石北本線と名寄本線の分岐点でもあった。
蒸気機関車が行き交う姿が目にできた。
しかし、マイカーの普及とともに地方の鉄道は斜陽になっていた。国鉄の赤字削減の合理化でオホーツク海沿岸の鉄道は姿を消した。名寄本線も消えてしまった。

遠軽機関区ではD51蒸気機関車や9600形の蒸気機関車を目にすることができた。
北海道の北部の機関庫はほとんど扉を閉めていた。
機関庫の写真は雪の無い時期でないと撮れない。

遠軽はオホーツク海に近いので雪の量はそう多くないように思えた。
撮影旅行も駆け足であちらこちらと回った。遠軽にとどまったのは一時間程度だった。

D51が駅を発車、足元がアイスバーンになっていて夢中になり滑れば列車に轢かれるところだ。


D51この機関車の煙突はギーゼル煙突といわれ円形でなく長靴のような形

  

遠軽機関庫、扉は閉まっている凍結しないように蒸気機機関車には石炭の種火を燃やしている。ディゼルエンジンはアイドリングのまま


9600形蒸気機関車、標準レンズで撮るのでこんな写真しか撮れない。今のカメラがうらやましい




駅舎とセーラー服

2011年11月18日 | 鉄道
木造の駅舎とセーラー服の写真を投稿します。
山陽本線、玉島駅(現在の新倉敷駅)と西阿知駅の夕方の風景
学校帰りの生徒も一緒にとりました。

倉敷市の児島は学生服の町です。全国の学生服を作っていました。菅公や楠公学生服です。
菅公は菅原道真公、楠公は楠正成公、なんとも名前が古いですね。

20年程まえですか、女子高校の制服が私立高校からDCブランドの制服を採用して、やがて公立高校もセーラー服をDCブランドものに切り替えてきました。
ファッションに敏感な女性は制服のダサイ高校には行かないといいだした。
いままでセーラー服を作ってきた児島は大ピンチと新聞の片隅に載っていました。
これを見て定年後のライフワークに全国の女子高生のセーラー服を無くなる前に撮るぞと思ったものでした。
定年になった頃はセーラー服は消え、しかも身体が不自由になりこんな思いは断念。

デジカメになり鉄道ファンが急増、鉄女や鉄子まで現れる始末
木造の駅舎も人気、肥薩線の嘉例川駅(かれがわ)は乗降客は40人程度なのに休日になると800人が押しかけるそうです。
ネットの時代になりウィキペディアの検索は鉄道の記事を書くのは便利です。
鉄道は筋金入りのマニア、オタクが大勢いるので駅から機関車、電車までウィキペディアに投稿するのでしょうジャンルの中で一番充実しています。
全国の駅と切符をホームページにしている人がいますが、文明の利器があるからできる事でしよう。
これは乗用車、デジカメ、パソコンがなければできません。
一日何便かの鉄道に乗っては駅巡りはできません。デジカメでないとフィルムをケチって撮影していてはとれません。
しかし、私が撮って頃は駅前にはダルマポストとベンチ公衆電話BOXがあり絵にならない不法進入の車が全くいない良き時代でした。




鉄道 笠岡駅

2011年11月02日 | 鉄道
山陽線笠岡駅のホームの写真をお送りします。
笠岡駅のホームに井笠鉄道のホームが隣接していました。
井笠鉄道は明治44年に開業して昭和46年3月31日に廃業となっている。
この当時は笠岡と井原の路線だけが残っていた。
線路の規格は762mmで在来線より狭いのでナローゲージと呼ばれていた。
在来線も狭軌なのだがホームに並んだところを見ると車両ははかなり小さく見える。
九州行きの急行玄海と左の車両を見比べるとかなり大きさが違う。
井笠鉄道の木造客車は大正時代の車両で通称マッチ箱と呼ばれていた。
井笠鉄道には廃止までに何度か足を運んだので何回かに分けて投稿します。

私は昭和44年に他県から岡山県に転勤してきた。井笠鉄道の存在も知らなかった。愛着などあるはずもない。しかし、撮影していてよかったと思う、鉄道を通して昭和という時代、時代の流れが写真に残すことにより正確に判る。

写真左側が井笠鉄道、右側が山陽本線



マッチ箱と呼ばれた井笠鉄道客車、木製で走っているとギシギシときしむ音がする。暖房なしもちろんトイレなし



583系特急電車とすれ違い。特急はと、つばめが活躍していた。