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大岡昇平『俘虜記』

2014-03-17 10:14:00 | ノンジャンル
 アーウィン・ウィンクラー監督の'92年作品『ナイト・アンド・ザ・シティ』をDVDで見ました。舞台はニューヨーク。昔ながらのボクシングの興行を実現しようとする、しがない弁護士(ロバート・デ・ニーロ)と、バーのオーナーで暴力的な夫から独立して店を持とうとする女(ジェシカ・ラング)を描いた映画で、ここでも360度のパンが何気なく使われていました。資産家の役でイーライ・ウォラックが、引退したボクサー役でジャック・ウォーデンが出演していたことも記しておきたいと思います。
 また、バズ・ラーマン監督・共同製作・共同脚本の'01年作品『ムーラン・ルージュ』もWOWOWシネマで見ました。『Nature Boy』から始まり、マリリン・モンロー、エルトン・ジョン、ポール・マッカートニーらの曲を使ったミュージカル仕立てで、1899年のパリのムーラン・ルージュのナンバーワンの高級娼婦で女優志願の女(ニコール・キッドマン)と貧乏作家との恋を描いた映画で、前半はおもちゃ箱を引っくり返したような鮮やかな色彩と映像の嵐を楽しめましたが、後半、話がシリアスになってからは時間がひどく長く感じられました。

 さて、河野多惠子さんが「戦争というものをよく描けている」と評した、大岡昇平さんの'52年作品『俘虜記』を読みました。
 最初の章「捉まるまで」から一部を引用させていただくと、「(一人草むらに隠れた私が先に発見した米兵を撃たずに、米兵が去った後)私は溜息し苦笑して『さて俺はこれでどっかのアメリカの母親に感謝されてもいいわけだ』と呟いた。(改行)私はこの後度々この時の私の行為について反省した。(改行)まず私は自分のヒューマニティに驚いた。私は敵を憎んでいなかったが、しかしスタンダールの一人物がいうように『自分の生命が相手の手にある以上、その相手を殺す権利がある』と思っていた。従って戦場では望まずとも私を殺し得る無辜の人に対し、用捨なく私の暴力を用いるつもりであった。この決定的な瞬間に、突然私が眼の前に現れた相手を射つまいとは夢にも思っていなかった。(改行)この時私に『殺されるよりは殺す』というシニスムを放棄させたものが、私が既に自分の生命の存続について希望を持っていなかったという事実があるのは確かである。明らかに『殺されるよりは』という前提は私が確実に死ぬなら成立しない。(改行)しかしこの無意識に私の裡(うち)に進行した論理は『殺さない』という道徳を積極的に説明しない。『死ぬから殺さない』という判断は『殺されるよりは殺す』という命題に支えられて、初めて意味を持つにすぎず、それ自身少しも必然性がない。『自分が死ぬ』から導かれる道徳は『殺しても殺さなくてもいい』であり、必ずしも『殺さない』とはならない。(改行)かくして私は先の『殺されるよりは殺す』というマキシムを検討して、そこに『避け得るならば殺さない』という道徳が含まれていることを発見した。だから私は『殺されるよりは』という前提が覆った時、すぐ『殺さない』を選んだのである。このモスカ伯爵の一見マキアベリスチックなマキシムは、私が考えていたほどシニックでなかった。(改行)こうして私は改めて『殺さず』という絶対的要請にぶつからざるを得ない。(改行)私はここに人類愛の如(ごと)き観念的愛情を仮定する必要を感じない。その宏(ひろ)さに比べて私の精神は狭小にすぎ、その稀薄さから見れば私の心臓が温かすぎるのを私は知っている。(改行)むしろこの時人間の血に対する嫌悪を伴った私の経験に照して見れば、私はここに一種の動物的な反応しか見出すことは出来ない。『他人を殺したくない』という我々の嫌悪は、恐らく『自分が殺されたくない』という願望の倒錯にほかならない。これは例えば、自分が他人を殺すと想像して感じる嫌悪と、他人が他人を殺すと想像して感じる嫌悪が全く等しいのを見ても明らかである。この際自分が手を下すという因子は必ずしも決定的ではない」
 前半の部分はまだ分かるのですが、後半の部分はあまり理解できませんでした。著者の見聞した出来事が詳細に語られた上に、上記のような著者の思考が詳しく書かれている本のようでした。文庫本で550ページを超える大著であることも記しておきたいと思います。

 →「Nature Life」(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/