昨日の続きです。
「マフラーから大量の白煙を吐いている車が画面から消えると、当時はタイヤ産業でかろうじて生きのびていたオハイオ州ならではの工場地帯の曇天下の煙突をバックにして、舗装の割れ目の目立つ道路を3人の車が疾走し、それに場違いなイタリア・オペラの旋律がかぶさる。ここも、車内の人物はこのように撮れといわんばかりのショットの連鎖が、ハンドルを握る男と女2人の関係を的確に描いてみせる。旧大陸からの移民だったハリーの父親は、クリフォード・オデッツとウィル・ロジャースの文章を暗記して英語を習い、服屋として何とか食いつないだのだという。そんなさりげない言葉で歴史的な背景が語られるのだが、その名前を聞いたこともなさそうなモリーとアイリスに向かって、ハリーは、オデッツとロジャースというのは大昔の2人組のダンサーだといって話をそらす。
オデッツはアルドリッチの『悪徳(The Big Knife)』(1955)の原作者でもある名高い左翼系の作家だし、ロジャースはジョン・フォードの『周遊する蒸気船』(1935)の主演者として有名だが、むしろ30年代前半のユーモラスなコラムニストとして広く知られている。『カリフォルニア・ドールズ』はそうした知識の共有を前提とした、高度な社会的背景を持った作品であり、「女子プロレス」を題材としたたんなる娯楽映画とはわけがちがう。とはいえ、アルドリッチが娯楽を自粛したりする理由は存在しない。実際、リノのMGMホテルでの好敵手のトレド・タイガーズとの3回目の対戦をクライマックスにすえたこの作品は、アメリカ映画にありがちなハッピーエンドで終わっており、絢爛豪華な衣装のカリフォルニア・ドールズがリングに登場する瞬間の過度の楽天性は、ハリウッドならではのものだともいえる。だが、そこへといたる過程で、この3人組が、アメリカ映画にはありえない反道徳性のかぎりをつくしていることを見落としてはなるまい。
例えば、リノでの興行権を手に入れるために、アイリスはみずから犠牲となって、醜いプロモーター(バート・ヤング)に自分のからだを提供している。高価な衣装を注文するために、ハリーは非合法な賭場で大金を稼ぎ、追ってきた2人の用心棒をバットで傷つけ、彼らの所持金まで奪う。また、会場では、演奏家をはじめあらゆる者にドル札をつかませて味方につける。こうして見ると、カリフォルニア・ドールズの勝利が、「売春」、「賭場」、「暴行」、「窃盗」、「収賄」、等々、間違っても模倣してはならないあぶなっかしい振る舞いによって可能となったものであることが明らかとなる。あのどこまでも楽天的な《Oh, You Beautiful Doll》のメロディとともにアイリスとモリーが登場するとき、その派手で豪華な衣装に悲しみをつつみ隠してみせる2人の美しい姿態が、ひときわ目に眩しいのはそうした理由による。これは、あくまで『苦い勝利』なのである。だが、その『苦さ』を忘れさせるプロフェッショナルな演出は、アルドリッチの遺言として見る者の涙を誘わずにおくまい。それを、ぜひとも劇場で確かめられたい。」
私は、この映画がオルドリッチの遺作だと思いながら、オープニング・タイトルにリチャード・ジャッケルの名前を見ただけで、もう涙し、ラスト、ドールズの勝利が決まり、ハリーが「California Republic」のたれ幕を下げ、「California,Here I Come」を皆が合唱し始めるのを見て、号泣してしまいました。チラシで黒沢清さんが「ひょっとすると映画史上最も、観客ひとりあたまから大量の涙を搾りとった映画がこれかもしれない。」と書かれていたのは、私にとっては冗談でも何でもなかった訳です。ジョセフ・バイロックの深みのある画面、突然鳴り始めたり、通底和音のように流れていたりするフランク・デヴォルの音楽が、この映画が紛れもなくオルドリッチ映画であることの証左でした。最後に。12月2日までこの映画を上映している“シアターN渋谷”は、この上映にて、'05年12月3日に開館してからの歴史を閉じるのだそうです。旧ユーロスペースの場所にある映画館ですので、オルドリッチの映画とともに、この小さな映画館の最後の姿を見届けることも、意義あることかもしれません。また、『ロバート・オルドリッチ読本1』という題の画期的なオルドリッチの評伝が1000円で売っていたことも最後に付け加えておきたいと思います。
→Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
「マフラーから大量の白煙を吐いている車が画面から消えると、当時はタイヤ産業でかろうじて生きのびていたオハイオ州ならではの工場地帯の曇天下の煙突をバックにして、舗装の割れ目の目立つ道路を3人の車が疾走し、それに場違いなイタリア・オペラの旋律がかぶさる。ここも、車内の人物はこのように撮れといわんばかりのショットの連鎖が、ハンドルを握る男と女2人の関係を的確に描いてみせる。旧大陸からの移民だったハリーの父親は、クリフォード・オデッツとウィル・ロジャースの文章を暗記して英語を習い、服屋として何とか食いつないだのだという。そんなさりげない言葉で歴史的な背景が語られるのだが、その名前を聞いたこともなさそうなモリーとアイリスに向かって、ハリーは、オデッツとロジャースというのは大昔の2人組のダンサーだといって話をそらす。
オデッツはアルドリッチの『悪徳(The Big Knife)』(1955)の原作者でもある名高い左翼系の作家だし、ロジャースはジョン・フォードの『周遊する蒸気船』(1935)の主演者として有名だが、むしろ30年代前半のユーモラスなコラムニストとして広く知られている。『カリフォルニア・ドールズ』はそうした知識の共有を前提とした、高度な社会的背景を持った作品であり、「女子プロレス」を題材としたたんなる娯楽映画とはわけがちがう。とはいえ、アルドリッチが娯楽を自粛したりする理由は存在しない。実際、リノのMGMホテルでの好敵手のトレド・タイガーズとの3回目の対戦をクライマックスにすえたこの作品は、アメリカ映画にありがちなハッピーエンドで終わっており、絢爛豪華な衣装のカリフォルニア・ドールズがリングに登場する瞬間の過度の楽天性は、ハリウッドならではのものだともいえる。だが、そこへといたる過程で、この3人組が、アメリカ映画にはありえない反道徳性のかぎりをつくしていることを見落としてはなるまい。
例えば、リノでの興行権を手に入れるために、アイリスはみずから犠牲となって、醜いプロモーター(バート・ヤング)に自分のからだを提供している。高価な衣装を注文するために、ハリーは非合法な賭場で大金を稼ぎ、追ってきた2人の用心棒をバットで傷つけ、彼らの所持金まで奪う。また、会場では、演奏家をはじめあらゆる者にドル札をつかませて味方につける。こうして見ると、カリフォルニア・ドールズの勝利が、「売春」、「賭場」、「暴行」、「窃盗」、「収賄」、等々、間違っても模倣してはならないあぶなっかしい振る舞いによって可能となったものであることが明らかとなる。あのどこまでも楽天的な《Oh, You Beautiful Doll》のメロディとともにアイリスとモリーが登場するとき、その派手で豪華な衣装に悲しみをつつみ隠してみせる2人の美しい姿態が、ひときわ目に眩しいのはそうした理由による。これは、あくまで『苦い勝利』なのである。だが、その『苦さ』を忘れさせるプロフェッショナルな演出は、アルドリッチの遺言として見る者の涙を誘わずにおくまい。それを、ぜひとも劇場で確かめられたい。」
私は、この映画がオルドリッチの遺作だと思いながら、オープニング・タイトルにリチャード・ジャッケルの名前を見ただけで、もう涙し、ラスト、ドールズの勝利が決まり、ハリーが「California Republic」のたれ幕を下げ、「California,Here I Come」を皆が合唱し始めるのを見て、号泣してしまいました。チラシで黒沢清さんが「ひょっとすると映画史上最も、観客ひとりあたまから大量の涙を搾りとった映画がこれかもしれない。」と書かれていたのは、私にとっては冗談でも何でもなかった訳です。ジョセフ・バイロックの深みのある画面、突然鳴り始めたり、通底和音のように流れていたりするフランク・デヴォルの音楽が、この映画が紛れもなくオルドリッチ映画であることの証左でした。最後に。12月2日までこの映画を上映している“シアターN渋谷”は、この上映にて、'05年12月3日に開館してからの歴史を閉じるのだそうです。旧ユーロスペースの場所にある映画館ですので、オルドリッチの映画とともに、この小さな映画館の最後の姿を見届けることも、意義あることかもしれません。また、『ロバート・オルドリッチ読本1』という題の画期的なオルドリッチの評伝が1000円で売っていたことも最後に付け加えておきたいと思います。
→Nature LIfe(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)