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南伸坊『本人の人々』その1

2012-12-17 05:24:00 | ノンジャンル
 南伸坊さんの'03年作品『本人の人々』を読みました。
 まえがきから引用させていただくと、「(前略)私は単に、人間をわかりたいと思うばかりである。昔から『ヒトの身になって』考えよという。なかなかそうはいかないのだが、それは人々が『ヒトの身に』ならないからなのだ。私は文字通り『ヒトの身』になってみようと思った。(中略)私は、さまざまな本人になってみた。そうして、その本人の身になって文章を書いたのである。身になったまま、書くのがのぞましいが、実際には本人の身になった写真を、鏡を見るように『見ながら』本人としての言葉をつむぎ出す、という手順になったことが多かった。不思議なものだが、そのようにして書くと、ごく自然に自分の文章とは違う文章が書けるのである。外見は内面を映すが内面は外面に左右されるのだ。(中略)したがってこれは人物批評といったものとは根本的に違うものである。なにが近いかといえば、恐山のイタコに近い。故人になりきって話すとき、たとえばマリリン・モンローが東北弁であったとしても、聴く耳を持った人には、マリリンの声として聴こえるように、私の本人術も、あるいは受けての『才能』というか『能力』にかなり期待せざるを得ないときもある。そうしたときは、遠慮なく『才能』や『能力』を発揮していただきたいものだ。なぜといって、そのようにしたほうがオモシロイからである。『本人術』を論理的に展開するのは、私の手にあまるのでしないが、人々が思うほどに『本人』とか『自分』といったものが、確固としたものではない、というのは、こうしたことを実践してみると容易にわかることだ。もっとも人々の個性をあらわしているのは、本人の肉体であり、なかでも顔である。その顔になってみたらどうなるのか? この本は、そのようないわばオソロシイ事実をオモシロイ事実として表現している。」
 では、実際に文章を読んでみましょう。北朝鮮総書記の金正日の場合。「日本人は、ラチ、ラチ、とそればかりわめいていて、それしか言うことはないのか? 自分たちが、大東亜戦争の頃にどんな風であったのか、何をしていたのか、洗いざらい忘れてしまったとでもいうのか。共和国は今、戦時にあるのだ。日本がアメリカの奴らと戦っていた、あの大東亜戦争の頃と同じ状態だと思うがいい。日本にも、戦争を経験した人々は沢山いるだろう。日本は若者より年寄りの方が多いという話ではないか、年寄りが、みんな昔の事を何もかもすっかり忘れてしまったとでもいうのか。日本人は、全員が腰抜けとなって、アメリカの奴らの飼い犬になりさがったのか。アメリカの奴らは、自分たちだけは飛び道具を持ちながら、ほかの者には使ったら承知しないと言う、そういう卑怯者だ。卑怯者の飛び道具には、卑怯であっても飛び道具を使うしかない。そうしなければ、こちらがやられてしまうだけだ。アメリカの奴らは、飛び道具を使うなと禁止しておきながら、我が国がフセインのイラクに渡すはずのミサイルを渡していないのはサギだ、とわめいている。おかしな話ではないか!? 頭が狂っているとしか思えない。日本人は優秀なのになぜ、卑怯で間抜けなアメリカの奴らに、犬のようになついているのか? 私は日本人を憎んでいない。日本には、クロサワやミゾグチや、キタノや優秀な監督がいる。そして、引田天功や吉永小百合といった美女もいる。スシもあるし、うなぎも好きだ。スシはマグロの大トロが大好物だ。」といった具合です。また、チリ人妻のアニータの場合。「ダンナさん、大金持ち。ワタシ安心、お金もらう。大金持ち、全然ダイジョブ、心配ないノープロブレム。OH! ダンナさん、犯人の人ですよ。ワタシ知らない。お金が全部つかった、返せないよ。病院建てた。レストラン建てた。建物持ってけない。ムリですよ。お金はダンナさん8億円。ケンミン怒る、ゴメンナサイね、でも、私が知らないよ、悪くない。ケンミン怒る当たり前よ。でも、ね、もらったは、タッタ6億円、8億円もらった、ないよ、ウソよ。あの男、ウソつき。犯人ね。私、リコンした。関係ないね。私もらったは、私のお金。自由につかう当たり前ね。日本人、ケンミン私の怒る、違う。ウソつき信用できない。ワタシはだまされたは、ケンミンはだまされたはセイムでしょ? 同じでないですか? 私、もらった6億円。でも犯人の金、ドロボーの金、知らないよ。大金持ちのダンナさん、ウソ! ウソワカラナーイ。私、チリ人、日本語、すこしダケ。だまされる、しかたないね。(後略)」(明日へ続きます‥‥)

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