うたことば歳時記

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古歌の春雨

2019-03-05 21:17:57 | うたことば歳時記
 日本の四季にはさまざまな要素があり、表情がとても豊かです。雨はその要素の一つで、四季それぞれだけでなく、同じ季節の中でも時期により、降り方により、色々な名前が付けられています。それは日本人の季節に関する感性の豊かさを示すもので、素晴らしいことだと思います。

 ところがネット情報には「雨の名前だけでこんなにあります」とばかりに、辞書から片端から選んで並べてあるのです。私はこういう取り上げ方には、あまり興味がありません。確かにあるのかもしれませんが、日常生活からは乖離していて、使うことがないからです。私は辞書の編者ではありませんから、身近ではない特殊な言葉には、心が動きません。特に漢語の場合には知らなかったり、使うことがないものが多いものです。例えば「催花雨」は「春に花の咲くのを促すように降る雨」ということだそうですが、生活の臭いが全くありません。ただ単純に「雨の名前だけでもこんなにあるのだから、日本人の季節感は豊かである」と説かれることがありますが、「数が多けりゃいいっていうものではないでしょう」と思ってしまいます。

 最初から本題とは離れてしまって済みません。題は「古歌の春雨」でした。俳諧・俳句の世界では春の雨にも色々な名称があるかもしれませんが、古歌の世界には、一般的には「春雨」が多く、他にはないわけではないのですが、とても少ないのです。今でも普通に使われる「菜種梅雨」「糠雨」「小糠雨」「春時雨」「花時雨」「みどり雨」という歌言葉は、勅撰和歌集などには見当たりません。

 「なんだ、古代日本人は、春の雨の風情を感じ分けなかったのか」と言われそうですね。確かに「○○雨」という形の春の雨の名称は貧弱です。しかしそれは雨に対する感性が貧弱だったという事ではありません。
まずはともかく、春雨を詠んだ歌を、古い歌からいくつか拾ってみましょう。

 ①細く降る 三月(やよい)の雨や 糸ならむ 水に綾織る 広沢の池  (夫木抄 春雨 970)  
 ②唐衣 かづく袂(たもと)ぞ そほちぬる 見れども見えぬ 春のこま雨 (夫木抄 春雨 959)

 春の雨は、乾ききっていた冬枯れの野辺をしっとりと濡らし、春の気の温もりと雨の細かさと柔らかさが相俟って、独特の風情を醸し出すものです。①は、春雨を細い糸に、池の水面に織りなす雨の模様を糸の縁語の綾に見立てたもの。②の「そほつ」は「濡れる」という意味で、衣をわずかに湿らせるように降る春雨の特徴が、軽快なリズムに乗せて詠まれています。このような感覚は現代人にもよくわかりますね。「こま雨」は「細かい雨」のことなのでしょうが、古歌としては珍しい表現です。

 しかし次のような歌はどうでしょうか。現代人の知らなかった春雨理解です。
 ③わがせこが 衣春雨 降るごとに 野辺の緑ぞ 色まさりける  (古今集 春 25)
 ④春雨の 色は濃しとも 見えなくに 野辺の緑を いかで染むらむ (寛平御時后宮歌合 春 16)
 ⑤水の面に 綾織りみだる 春雨や 山の緑を なべて染むらん  (新古今 春 65)
 ⑥春雨の 降りそめしより 青柳の 糸のみどりぞ 色まさりける  (新古今 春 68)

 ③の「わがせこが衣はる」は、「春雨」に掛かる序詞ですが、ここでは意味を深く追求しないでおきましょう。要するに、春雨が降るごとに野辺の緑が濃くなるというのです。④も同じですが、それを春雨が染めているからと理解しているのです。⑤も同じことですが、水面に縦横に見える雨の糸を綾織りに見立て、縁語の「染める」という言葉を意図して選んでいます。こういう凝った詠み方は、現代人はしないでしょうね。⑥は野辺や山ではなく、枝垂れ柳の細い枝を糸に見立て、それが芽吹き始めていることを、春雨が染めていると理解しているわけです。「降りそめし」が「降り初めし」と「降り染めし」を掛けているのはすぐにわかるでしょう。雨毎に野辺の若草が伸びて緑が濃くなることは、現代人でもわかりますが、自分で布を染める経験がほとんどない現代人には、それを雨が染めたと理解することはないのでしょう。経験に基づく歌であって、これを理屈であると言って片付けてはなりません。

 次の歌になると、現代人には全く思いも付かない発想です。
 ⑦四方の山に 木の芽はるさめ 降りぬれば かぞいろはとや 花のたのまん  (千載集 春 31)

 「かぞいろは」とは「父母」のこと。「かそいろ」とか「かぞいろ」とも言いました。春雨は春の草花を
育む親、「雨の恵み」はまさに「天の恵み」なのです。春雨の優しさが一層強く印象づけられる歌ですね。 現代短歌では、このような擬人法はあまり歓迎されません。しかし自然の背後に神霊の存在を感じたり、自然が意思を持っているように感じていた古の人たちにとっては、擬人的理解は自然なことなのです。擬人法を否定するあまりに、自然に対する敬虔な心を失ってしまうとしたら、現代短歌にとってだけではなく、現代人にとっても悲しむべきことではないでしょうか。
 
 春雨が「かそいろ」であるとまでは言わなくとも、春雨が花をほころばせるという理解は普通にみられます。

 ⑧降りそむる 春雨よりぞ 色々の 花の錦も ほころびにけり (堀河院百首 春雨 175)

 花が咲くことを「ほころぶ」と表現することはいまでも普通にみられますが、花を錦という織物に見立てているので、縁語の「ほころぶ」という言葉が生きています。

 春雨に限ったことではありませんが、雨に濡れた花の風情も、なかなか美しいものです。
 ⑨春雨に にほへる色も 飽かなくに 香さへなつかし 山吹の花 (古今集 春 122)
 ⑩ぬるるさへ 嬉しかりけり 春雨に 色ます藤の しづくと思へば (金葉集 春 87)

 現代ではあぢさゐには雨が似合うという理解があり、雨に濡れた様子を意図して楽しむことはあるかもしれませんが、春雨の降る中に、わざわざ花見に外出することはあまりしません。しかし雨に濡れると、花の色が鮮やかに見えるように感じることがあります。 

 春には太平洋側に低気圧が次々に西から東に通過して行きますので、晴れの日が続きません。時には何日もしとしとと降り続くことがあります。そのような雨を菜種梅雨というのですが、もちろん当時は菜種油を絞ることなどありませんから、そのような言葉はありません。古歌の中では「春の長雨」として詠まれます。そこまで言えば、すぐに思い当たる歌がありますね。

 ⑪花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身よにふる ながめせしまに  (古今集 春 113)

 言わずと知れた小野小町の歌です。春の長雨が花を移ろわせたのと同じように、春雨を見ていると、私の容姿が衰えてしまっていることをつくづくと思い知らされた、という意味ですね。ここには春雨が花を散らす雨であるという理解と、長雨は物思いをかき立てる雨という理解が見られます。同じような発想の歌は他にもいくつかありますから、そのような感覚は、共有されていたと言うことができるでしょう。

 いかがですか。確かに春の雨の呼称としては数は多くありませんが、古人が春雨について豊かな理解をしていたことはおわかりいただけたかと思います。あらためて春雨が野辺を緑に染めていると、野辺は春雨を自分を育ててくれる親と思っていると、春雨は綾を織る糸であると、春雨が花をほころばせ、また散らしていると、そんなことを思いながら、春雨に濡れてみませんか。