今から60年も前に親に連れられて東京湾の何処かの干潟に潮干狩りに行って以来、潮干狩りをしたことがありません。昨日は新暦の雛祭で、蛤が店頭にたくさん並んでいました。そこで思い立って江戸時代の潮干狩りの記事をあらためて読み直してみました。
今はいつ潮干狩りをしようと自由ですし、特に決まった日があるわけではありません。しかし江戸時代には3月3日にするものと決まっていました。実際にはそれ以外の日にもしたのでしょうが、この日が最適の日という共通理解がありました。
『俳諧歳時記栞草』には、「潮干 三月三日海潮大に乾く。泉州堺の浦、殊に甚だし。諸人競ひ来て蛤を拾ひ、小魚をとる」と記されています。『東都歳事記』にも「三月三日・・・・汐干、当月より四月に至る。その内三月三日を節(ほどほし)とす。・・・・芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川須崎・中川の沖・早旦より船に乗じてはるかの沖に至る。卯の刻過より引始て、午の半刻に海底陸地と変ず。ここに降りたちて牡蠣・蛤を拾ひ、砂中のひらめを踏み、引残りたる浅汐に小魚を得て、宴を催せり」と記されています。
その頃は江戸湾の奥一帯どこでも潮干狩りができたようです。現在潮干狩りができる場所はいくつかあるようですが、実際には漁業組合で管理してして、自然に生息しているものを採取するわけではありません。江戸時代のようにはいかないのも、やむを得ないことなのでしょう。
太陰暦ならば、満月と新月の日には大潮となりますから、理屈通りならば3月1日の方が適しているのかもしれません。ところがそれが3日が最適と理解されたのは、やはり雛祭に引きずられたからなのでしょう。まあ3日くらいならば、大潮の日程ではないとしても、かなり潮は沖まで引いたことでしょう。こういうことを考えると、伝統的年中行事は、旧暦の方が良いかとも思ってしまいます。現在は潮干狩りをしながら雛祭を連想する人は、もういないことでしょうね。
潮干狩りを詠んだ川柳を拾ってみました。
○「買い足して 辺りへ配る 潮干狩り」
お土産としてご近所に配るには足りなかったのでしょう。明治末期の『東京年中行事』には、「あさりの十に蛤の一つ二つも拾えば上等の方でね大抵は人の帰る頃を目がけて売りに来る商人のを一升二升ずつ買って帰って・・・・」と記されていますから、いつの時代も同じだつたのでしょう。
○花の頃 海も潮干の 桜貝
旧暦ならばさくらの花の頃ですから、桜貝に目が留まったのでしょう。本当にさくらの花びらの色をして いて美しいものですが、小さくてとても食べられません。
○ぱらりっと 潮干は人を 撒いたやう
沖の方まで干潟が広がり、人がまばらに見えるのでしょう。現代の潮干狩りは、人で大混雑です。
○蛤を礫(つぶて)に投げる潮干潟
子供にとっては、採るより投げて遊ぶ方が楽しかったのかもしれません。
この(旧暦)3月3日が最適の日という理解は、雛祭と大いに関係があります。雛祭で雛に供える食器は、蛤の殻が用いられていましたから、それにあわせて蛤を拾いに行くことが恒例になったのです。よく雛祭の蛤は、他の蝶つがいとは合体しないことから、女児の幸せな結婚の象徴として、雛祭には蛤の料理を食べると説明されています。そのような理解が後に派生したことは事実ですが、もともとはそうではなく、雛人形に供える食器として、ちょうど旬が重なる蛤の殻を利用したことに始まります。
一般に流布している年中行事解説書には、例外がないくらいにそのように書かれていますが、著者は江戸時代の文献を自分の目で確認したことがないのでしょう。詳しくは私のブログ「うたことば歳時記 雛祭の蛤(出鱈目な流布説)」に書いておきましたので御覧下さい。世の中の通説がいかに出鱈目であるか、確かな文献史料によって論証してあります。
今はいつ潮干狩りをしようと自由ですし、特に決まった日があるわけではありません。しかし江戸時代には3月3日にするものと決まっていました。実際にはそれ以外の日にもしたのでしょうが、この日が最適の日という共通理解がありました。
『俳諧歳時記栞草』には、「潮干 三月三日海潮大に乾く。泉州堺の浦、殊に甚だし。諸人競ひ来て蛤を拾ひ、小魚をとる」と記されています。『東都歳事記』にも「三月三日・・・・汐干、当月より四月に至る。その内三月三日を節(ほどほし)とす。・・・・芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川須崎・中川の沖・早旦より船に乗じてはるかの沖に至る。卯の刻過より引始て、午の半刻に海底陸地と変ず。ここに降りたちて牡蠣・蛤を拾ひ、砂中のひらめを踏み、引残りたる浅汐に小魚を得て、宴を催せり」と記されています。
その頃は江戸湾の奥一帯どこでも潮干狩りができたようです。現在潮干狩りができる場所はいくつかあるようですが、実際には漁業組合で管理してして、自然に生息しているものを採取するわけではありません。江戸時代のようにはいかないのも、やむを得ないことなのでしょう。
太陰暦ならば、満月と新月の日には大潮となりますから、理屈通りならば3月1日の方が適しているのかもしれません。ところがそれが3日が最適と理解されたのは、やはり雛祭に引きずられたからなのでしょう。まあ3日くらいならば、大潮の日程ではないとしても、かなり潮は沖まで引いたことでしょう。こういうことを考えると、伝統的年中行事は、旧暦の方が良いかとも思ってしまいます。現在は潮干狩りをしながら雛祭を連想する人は、もういないことでしょうね。
潮干狩りを詠んだ川柳を拾ってみました。
○「買い足して 辺りへ配る 潮干狩り」
お土産としてご近所に配るには足りなかったのでしょう。明治末期の『東京年中行事』には、「あさりの十に蛤の一つ二つも拾えば上等の方でね大抵は人の帰る頃を目がけて売りに来る商人のを一升二升ずつ買って帰って・・・・」と記されていますから、いつの時代も同じだつたのでしょう。
○花の頃 海も潮干の 桜貝
旧暦ならばさくらの花の頃ですから、桜貝に目が留まったのでしょう。本当にさくらの花びらの色をして いて美しいものですが、小さくてとても食べられません。
○ぱらりっと 潮干は人を 撒いたやう
沖の方まで干潟が広がり、人がまばらに見えるのでしょう。現代の潮干狩りは、人で大混雑です。
○蛤を礫(つぶて)に投げる潮干潟
子供にとっては、採るより投げて遊ぶ方が楽しかったのかもしれません。
この(旧暦)3月3日が最適の日という理解は、雛祭と大いに関係があります。雛祭で雛に供える食器は、蛤の殻が用いられていましたから、それにあわせて蛤を拾いに行くことが恒例になったのです。よく雛祭の蛤は、他の蝶つがいとは合体しないことから、女児の幸せな結婚の象徴として、雛祭には蛤の料理を食べると説明されています。そのような理解が後に派生したことは事実ですが、もともとはそうではなく、雛人形に供える食器として、ちょうど旬が重なる蛤の殻を利用したことに始まります。
一般に流布している年中行事解説書には、例外がないくらいにそのように書かれていますが、著者は江戸時代の文献を自分の目で確認したことがないのでしょう。詳しくは私のブログ「うたことば歳時記 雛祭の蛤(出鱈目な流布説)」に書いておきましたので御覧下さい。世の中の通説がいかに出鱈目であるか、確かな文献史料によって論証してあります。