我が家の庭に、時々数匹の狸が来る。飼っているわけではないのであるが、生ごみを狙って来るようだ。他に悪さをするわけでなし、残飯や魚の骨などがあると、きれいに平らげてくれるので、それくらいならまあいいかと、程々に距離をおいて付き合っている。何回か目の前で見たが、なかなか可愛い顔をしている。
さて童謡『証城寺の狸囃子』は、日本人なら誰もが知っている愉快な歌である。作詞は野口雨情、作曲は中山晋平という童謡の黄金コンビであれば、名曲にならないはずがない。歌詞をよく読んでみると、何かいわれのありそうな内容である。証城寺のモデルは、千葉県木更津市にある證誠寺という寺のことで、その寺
に伝わる狸伝説を、大正10年に木更津へ講演会に訪れた際に野口雨情が聞いたようだ。そしてそれに着想して作詞し、中山晋平の曲を得て、大正13年に童謡『証城寺の狸囃子』として発表されたということである。
その狸伝説の内容は、インターネット情報を見る限り、大筋では共通しているが、細かいことになるとまちまちである。そもそも伝説というものはそんなもので、伝言ゲームのように尾鰭がついてゆくもの。どこまでが本来のものであるかはわからない。要は、寺の境内で多くの狸が腹鼓を打ったりして歌い踊る様子を見た住職が、狸たちと一緒になって踊ったというのである。どこまでが古来の伝承なのか、検証する材料を持ち合わせていないので、細かいことはそれぞれに検索していただくことにして深入りしない。自分で確認できないことは公表したくないからである。それより私が興味をもったのは、狸の腹鼓ということがいつ頃まで遡るのかということであった。
私は今時流行らない古風な和歌を詠む趣味がある。そんなとき参考にするのが、『夫木抄』という鎌倉時代末期に編纂された類題和歌集である。これは『万葉集』以来の17350首にも及ぶ膨大な和歌を、主題によって整理したもので、ある題で歌を詠みたいという時に、その題で検索すると、参考になる古歌を一覧できる、一種の「虎の巻」である。その中に珍しく狸の歌がある。その巻27の13046番の歌に、寂蓮法師の面白い歌がある。王朝和歌には見慣れぬ題なので、記憶に残っていたのである。
人住まぬ鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打つなり
無住となって荒れ果てた寺に狸が住み着いて、腹鼓を打っている、というのである。(インターネットでこの歌を検索すると、一様に出典は『夫木集』となっているが、最初に誰かが間違って載せたものを、原典に当たらずに孫引きするので、みな間違うことになる。正しくは『夫木和歌抄』である。)実際にそのようなことがあるはずがないから、夜、どこからともなく聞こえてくる不思議な音を、狸の腹鼓とする理解が、鎌倉末期には共有されていたことを示していて興味深い。私の想像では、秋の夜に遠くから聞こえる物を敲くような音と言えば、砧を使う音ではないかと思っている。秋の月を見ながら、また夫を思いながら砧を打っている音が聞こえるという歌が、非常に多く伝えられているからである。もちろんそれ以上の根拠はなく、あくまでも私の想像である。まあとにかく、古寺で狸が腹鼓を打つと言う理解が、鎌倉期まで遡ることを確認しておこう。
室町時代になる、面白いことに『腹鼓』という猿楽の演目がある。寛正4年(1464)というから応仁の乱が始まる3年前のこと、糺河原勧進猿楽で演じられたという記録が残っている。話の筋はそれを伝えた大蔵流・和泉流などの流派によって少し異なるが、粗筋は次の如くである。子を宿した雌の狸が帰ってこない雄の狸を案じていると、おそらくは雄狸を仕留めたであろう猟師と出会う。そこで雌狸は尼に変身して殺生の罪深いことを諭すと、猟師は悔い改めて弓矢を棄ててしまう。しかし猟犬が吠えて狸であることが露見し、腹鼓を打てば許してやるということになり、狸の姿に戻って腹鼓を打った、という話である。室町期に既に狸は化けるという理解があったことも面白いが、腹鼓がさらに広く共有されていたことがわかる。これが江戸時代になると、俳諧や川柳に狸の腹鼓が沢山登場し、そのような過程で、證誠寺の狸伝説が形作られていったのであろう。
ついでのことに脱線するが、腹の膨れた狸といえば、信楽焼の狸の焼き物が有名である。これが登場するのは昭和10年であるから、狸伝説との直接の関係はなさそうである。昭和天皇が戦後各地を巡幸なさった際、信楽で日の丸の小旗を持ったこの狸の焼き物がずらりと並び、陛下を歓迎したことがある。それが余程楽しかったらしく、
をさなきとき あつめしからに なつかしも しからきやきの たぬきをみれば
という御製を詠まれている。幼少時に狸の置物をお集めになられたというだけでも面白いが、この話が全国に伝えられ、信楽焼の狸が有名になったのであった。
閑話休題。野口雨情の原詩は、曲を付けて発表された時の詩とかなり違っている。そこにはいろいろ経緯があったようであるが、その辺りのことについては、池田小百合氏の実に詳細な考証がある。「なっとく童謡唱歌」と検索すると見られるので、敬意を表しつつ御紹介する。
さて童謡『証城寺の狸囃子』は、日本人なら誰もが知っている愉快な歌である。作詞は野口雨情、作曲は中山晋平という童謡の黄金コンビであれば、名曲にならないはずがない。歌詞をよく読んでみると、何かいわれのありそうな内容である。証城寺のモデルは、千葉県木更津市にある證誠寺という寺のことで、その寺
に伝わる狸伝説を、大正10年に木更津へ講演会に訪れた際に野口雨情が聞いたようだ。そしてそれに着想して作詞し、中山晋平の曲を得て、大正13年に童謡『証城寺の狸囃子』として発表されたということである。
その狸伝説の内容は、インターネット情報を見る限り、大筋では共通しているが、細かいことになるとまちまちである。そもそも伝説というものはそんなもので、伝言ゲームのように尾鰭がついてゆくもの。どこまでが本来のものであるかはわからない。要は、寺の境内で多くの狸が腹鼓を打ったりして歌い踊る様子を見た住職が、狸たちと一緒になって踊ったというのである。どこまでが古来の伝承なのか、検証する材料を持ち合わせていないので、細かいことはそれぞれに検索していただくことにして深入りしない。自分で確認できないことは公表したくないからである。それより私が興味をもったのは、狸の腹鼓ということがいつ頃まで遡るのかということであった。
私は今時流行らない古風な和歌を詠む趣味がある。そんなとき参考にするのが、『夫木抄』という鎌倉時代末期に編纂された類題和歌集である。これは『万葉集』以来の17350首にも及ぶ膨大な和歌を、主題によって整理したもので、ある題で歌を詠みたいという時に、その題で検索すると、参考になる古歌を一覧できる、一種の「虎の巻」である。その中に珍しく狸の歌がある。その巻27の13046番の歌に、寂蓮法師の面白い歌がある。王朝和歌には見慣れぬ題なので、記憶に残っていたのである。
人住まぬ鐘も音せぬ古寺に狸のみこそ鼓打つなり
無住となって荒れ果てた寺に狸が住み着いて、腹鼓を打っている、というのである。(インターネットでこの歌を検索すると、一様に出典は『夫木集』となっているが、最初に誰かが間違って載せたものを、原典に当たらずに孫引きするので、みな間違うことになる。正しくは『夫木和歌抄』である。)実際にそのようなことがあるはずがないから、夜、どこからともなく聞こえてくる不思議な音を、狸の腹鼓とする理解が、鎌倉末期には共有されていたことを示していて興味深い。私の想像では、秋の夜に遠くから聞こえる物を敲くような音と言えば、砧を使う音ではないかと思っている。秋の月を見ながら、また夫を思いながら砧を打っている音が聞こえるという歌が、非常に多く伝えられているからである。もちろんそれ以上の根拠はなく、あくまでも私の想像である。まあとにかく、古寺で狸が腹鼓を打つと言う理解が、鎌倉期まで遡ることを確認しておこう。
室町時代になる、面白いことに『腹鼓』という猿楽の演目がある。寛正4年(1464)というから応仁の乱が始まる3年前のこと、糺河原勧進猿楽で演じられたという記録が残っている。話の筋はそれを伝えた大蔵流・和泉流などの流派によって少し異なるが、粗筋は次の如くである。子を宿した雌の狸が帰ってこない雄の狸を案じていると、おそらくは雄狸を仕留めたであろう猟師と出会う。そこで雌狸は尼に変身して殺生の罪深いことを諭すと、猟師は悔い改めて弓矢を棄ててしまう。しかし猟犬が吠えて狸であることが露見し、腹鼓を打てば許してやるということになり、狸の姿に戻って腹鼓を打った、という話である。室町期に既に狸は化けるという理解があったことも面白いが、腹鼓がさらに広く共有されていたことがわかる。これが江戸時代になると、俳諧や川柳に狸の腹鼓が沢山登場し、そのような過程で、證誠寺の狸伝説が形作られていったのであろう。
ついでのことに脱線するが、腹の膨れた狸といえば、信楽焼の狸の焼き物が有名である。これが登場するのは昭和10年であるから、狸伝説との直接の関係はなさそうである。昭和天皇が戦後各地を巡幸なさった際、信楽で日の丸の小旗を持ったこの狸の焼き物がずらりと並び、陛下を歓迎したことがある。それが余程楽しかったらしく、
をさなきとき あつめしからに なつかしも しからきやきの たぬきをみれば
という御製を詠まれている。幼少時に狸の置物をお集めになられたというだけでも面白いが、この話が全国に伝えられ、信楽焼の狸が有名になったのであった。
閑話休題。野口雨情の原詩は、曲を付けて発表された時の詩とかなり違っている。そこにはいろいろ経緯があったようであるが、その辺りのことについては、池田小百合氏の実に詳細な考証がある。「なっとく童謡唱歌」と検索すると見られるので、敬意を表しつつ御紹介する。