外国人に日本の伝統的な歌を紹介するときに、必ずといってよい程歌われるのがこの『さくらさくら』である。それはオペラ『蝶々夫人』に登場して、早くから日本の代表的なメロディーとして西洋に知られたことが一因であろう。またNHKの海外向け放送でも、一日で何回もBGMとして流れていて、外国人にとっては「日本」を印象付ける曲となっている。
作詞者も作曲者もよくわからない。江戸時代末期には箏曲の練習曲であったことまでは解るらしいが、それ以上は不明とのことである。明治21年に東京音楽学校の『箏曲集』「櫻」として収められたときの歌詞は次の如くである。
さくら さくら 弥生の空は 見渡す限り
霞か雲か にほひぞいづる いざや いざや 見に行かん
ところが、昭和16年の国民学校音楽教科書の『うたのほん 下』では、歌詞が改訂されている。
さくら さくら 野山も里も 見渡す限り
霞か雲か 朝日ににほふ さくら さくら 花盛り
戦後はいくつかの出版社が教科書に掲載したが、それほど多く採用されたわけではないという。また歌詞も上記の二通りで、統一されていなかった。しかし昭和42年には学習指導要領で小学2年生で扱うこととなり、歌詞も昭和16年のものと同じに統一された。昭和52年には、同じく小学4年生の共通教材に選ばれ、平成元年には、同じく中学1年生の共通教材となった。ただし中学校の教材では、本来の歌詞に戻っている。これら一連の動きは、伝統文化の尊重をうたう学習指導要領の改訂を承けたものであろう。
さて歌詞の内容であるが、「弥生」は旧暦3月のことであるから、新暦ではおよそ4月に当たる。ちょうど桜が満開の時期であり、言葉の使い方としては正しい。新暦4月を旧暦四月の呼称である「卯月」と言われると、卯の花の咲く卯月に桜が咲くということになってしまう。
「霞か雲か」は遠くに見える桜の比喩である。もともと霞は春が立ったことの徴として理解されていた。それは、『古今和歌集』以後の勅撰和歌集では、春の部の巻頭はほとんどが春霞の歌で占められていることにも表れている。それで遠山桜が霞に喩えられるのであるが、そもそも桜に見紛う程に濃厚な霞などありはしない。霞かと思ってよくよくみたら桜であったなどということはあり得ない。また霞は気象用語でもなく、遠くの景色がぼんやり見えることを表しているに過ぎない。それでも遠山桜を霞に見立てるのは、そのような理解が伝統的共通理解であったからである。桜を霞や雲や雪に見立てた古歌は枚挙に暇がなく、常套的表現であったのである。参考までに、そのような歌をいくつか上げておこう。
○立ち渡る霞のみかは山高み見ゆる桜の色もひとつを (後撰集 春 63) 「山高み」は「山が高いので」という意味。
○おしなべて花のさかりに成りにけり山の端ごとにかかる白雲 (千載集 春 69)
○白雲のたなびく山の山桜いづれを花と行きて折らまし (新古今 春 102)
○白雲と峰には見えて桜花散ればふもとの雪にぞありける (千載集 春 79)
「にほひ」は「匂い」のことであるが、嗅覚的な香りのことではない。古語の「におい」とは色が美しく映えることであり、赤系の色に使われることが多い。「桜に匂いなどない」と本気で言われると、面食らって反論する元気もなくなってしまう。
不思議に思われるかもしれないが、「見に行かん」も古典的和歌の理解を踏まえている表現である。そもそも桜は山に自生していた樹木であり、庭に植えるものではなかった。その点で8世紀ころに唐から伝えられた梅は、わざわざ庭に植えて色と香を楽しむ樹木であった。それで「軒端の梅」はあっても「軒端の桜」という表現はないのである。もちろん後には庭にも移植されるが、桜は本来はまずは離れたところから遠山桜を眺め、そしてわざわざ出かけていって愛でる花であった。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という句がある。桜は剪定に不向きであり、梅は剪定して樹形を整えて眺めるのがよいことを表している。そういうわけで桜は大木に生長するが、梅は庭の広さに合わせて調節することが可能である。このような樹木の性質の相異も手伝っているのであろう。これも参考までに、山に花見に行くことを詠んだ歌を上げておこう。
○山桜心のままにたづね来て帰さぞ道の程は知りぬる (後拾遺 春 91)
○花見にと人は山辺に入りはてて春は都ぞ寂しかりける (後拾遺 春 103)
「朝日ににほふ」は本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」を意図して選ばれた表現であろう。昭和16年にこの歌詞が教科書に載ったことについては、時節柄「大和魂」を高揚させたい政治的意図が見えるが、本居宣長のいう「大和心」とは、儒教や仏教が採り入れられる前の、日本人が本来持っていた心を表す言葉である。本居宣長の歌の原点に還るなら、いきり立つ程のことはあるまいと思っている。
それにしても思うことは、誰の作詞かわからないが、正確に古典和歌の理解を踏まえて言葉が選ばれていることである。古典和歌の研究を趣味にしている私にとっては、「見に行かん」という言葉を選んでいることに驚くのである。
作詞者も作曲者もよくわからない。江戸時代末期には箏曲の練習曲であったことまでは解るらしいが、それ以上は不明とのことである。明治21年に東京音楽学校の『箏曲集』「櫻」として収められたときの歌詞は次の如くである。
さくら さくら 弥生の空は 見渡す限り
霞か雲か にほひぞいづる いざや いざや 見に行かん
ところが、昭和16年の国民学校音楽教科書の『うたのほん 下』では、歌詞が改訂されている。
さくら さくら 野山も里も 見渡す限り
霞か雲か 朝日ににほふ さくら さくら 花盛り
戦後はいくつかの出版社が教科書に掲載したが、それほど多く採用されたわけではないという。また歌詞も上記の二通りで、統一されていなかった。しかし昭和42年には学習指導要領で小学2年生で扱うこととなり、歌詞も昭和16年のものと同じに統一された。昭和52年には、同じく小学4年生の共通教材に選ばれ、平成元年には、同じく中学1年生の共通教材となった。ただし中学校の教材では、本来の歌詞に戻っている。これら一連の動きは、伝統文化の尊重をうたう学習指導要領の改訂を承けたものであろう。
さて歌詞の内容であるが、「弥生」は旧暦3月のことであるから、新暦ではおよそ4月に当たる。ちょうど桜が満開の時期であり、言葉の使い方としては正しい。新暦4月を旧暦四月の呼称である「卯月」と言われると、卯の花の咲く卯月に桜が咲くということになってしまう。
「霞か雲か」は遠くに見える桜の比喩である。もともと霞は春が立ったことの徴として理解されていた。それは、『古今和歌集』以後の勅撰和歌集では、春の部の巻頭はほとんどが春霞の歌で占められていることにも表れている。それで遠山桜が霞に喩えられるのであるが、そもそも桜に見紛う程に濃厚な霞などありはしない。霞かと思ってよくよくみたら桜であったなどということはあり得ない。また霞は気象用語でもなく、遠くの景色がぼんやり見えることを表しているに過ぎない。それでも遠山桜を霞に見立てるのは、そのような理解が伝統的共通理解であったからである。桜を霞や雲や雪に見立てた古歌は枚挙に暇がなく、常套的表現であったのである。参考までに、そのような歌をいくつか上げておこう。
○立ち渡る霞のみかは山高み見ゆる桜の色もひとつを (後撰集 春 63) 「山高み」は「山が高いので」という意味。
○おしなべて花のさかりに成りにけり山の端ごとにかかる白雲 (千載集 春 69)
○白雲のたなびく山の山桜いづれを花と行きて折らまし (新古今 春 102)
○白雲と峰には見えて桜花散ればふもとの雪にぞありける (千載集 春 79)
「にほひ」は「匂い」のことであるが、嗅覚的な香りのことではない。古語の「におい」とは色が美しく映えることであり、赤系の色に使われることが多い。「桜に匂いなどない」と本気で言われると、面食らって反論する元気もなくなってしまう。
不思議に思われるかもしれないが、「見に行かん」も古典的和歌の理解を踏まえている表現である。そもそも桜は山に自生していた樹木であり、庭に植えるものではなかった。その点で8世紀ころに唐から伝えられた梅は、わざわざ庭に植えて色と香を楽しむ樹木であった。それで「軒端の梅」はあっても「軒端の桜」という表現はないのである。もちろん後には庭にも移植されるが、桜は本来はまずは離れたところから遠山桜を眺め、そしてわざわざ出かけていって愛でる花であった。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という句がある。桜は剪定に不向きであり、梅は剪定して樹形を整えて眺めるのがよいことを表している。そういうわけで桜は大木に生長するが、梅は庭の広さに合わせて調節することが可能である。このような樹木の性質の相異も手伝っているのであろう。これも参考までに、山に花見に行くことを詠んだ歌を上げておこう。
○山桜心のままにたづね来て帰さぞ道の程は知りぬる (後拾遺 春 91)
○花見にと人は山辺に入りはてて春は都ぞ寂しかりける (後拾遺 春 103)
「朝日ににほふ」は本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」を意図して選ばれた表現であろう。昭和16年にこの歌詞が教科書に載ったことについては、時節柄「大和魂」を高揚させたい政治的意図が見えるが、本居宣長のいう「大和心」とは、儒教や仏教が採り入れられる前の、日本人が本来持っていた心を表す言葉である。本居宣長の歌の原点に還るなら、いきり立つ程のことはあるまいと思っている。
それにしても思うことは、誰の作詞かわからないが、正確に古典和歌の理解を踏まえて言葉が選ばれていることである。古典和歌の研究を趣味にしている私にとっては、「見に行かん」という言葉を選んでいることに驚くのである。
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