もうすぐ春のお彼岸を迎えます。キリスト教徒の私でも、お彼岸には祖先の墓参りをします。彼岸に仏事を行う風習は平安時代からありましたが、不思議なことにこれは日本だけの風習で、かつて仏教国であつた韓国や中国には見られません。中国文化の影響の強い沖縄にも、彼岸に墓参りをする習慣はありません。
沖縄では祖先の供養が行われないのかと疑問に思う人がいるかも知れませんが、沖縄の人たちは、本土の人たちよりはるかに手厚く祖先の供養をしているのです。私などは月に一回、花を手向けに墓参りをする程度ですが、このあたりの基準に照らせば、それでも熱心な方かも知れません。しかし沖縄の人に比べれば、比較するのが申し訳ないほど粗略なものと言わざるを得ないでしょう。
沖縄では彼岸には火の神(ヒヌカン)や仏壇(トートーメー)に供物を供え、家内安全や厄除けを祈願することはありますが、特に墓参をするわけではありません。しかし春の彼岸からほぼ2週間後の清明に、一族こぞって墓前での供養をします。清明とは二十四節気の一つで、春分の次の節気にあたり、今年は4月4日ですが、5日の年もあります。沖縄ではこれを「清明」と書いて「シーミー」と呼んでいます。
沖縄で清明の墓参の起原については、18世紀半ばに書かれた『球陽』という歴史書には、「二月十二日始メテ毎年清明ノ節上王陵ニシテ奉祭スルコトヲ定ム」と記されています。
「清明」に墓参をすることは、もともとは中国の風習で、「清明」という言葉は、張擇端の描いた「清明上河図」という絵巻物でもよく知られていますね。「清明上河」とは、「清明の日の川の辺」という意味で、宋の首都である開封の繁栄が描かれています。ただし墓参の場面は見当たりません。
そもそも沖縄の墓地は、本土の墓地とは全く様子が異なります。初めて見る人は、その大きいことや住宅と混在していることに驚くことでしょう。沖縄の墓は、ギリシア文字のΩという字に似ている亀甲墓と、三角に尖った屋根のある破風墓が基本形です。
沖縄の古い墓は、山の陰や崖下の窪みや自然の洞穴を利用したものでした。その後手狭になると奥に穴を掘り進め、内部を広くして一族で共用する墓が営まれるようになりました。亀甲墓の起原は、1687年に琉球王国の尚清王の第七子朝儀を初代とする伊江家の墓まで遡れます。また破風墓の起原は、1501年に、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために営んだ墓にまで遡れます。しかしこれらの墓はあくまで貴族階級のもので、庶民に許されるようになったのは、廃藩置県後のことでした。それ以前は「祖先が苦しむから」といって
土葬はせず、海岸をのぞむ洞穴などで風葬することが一般的でした。そして3~4年後には洗骨して墓に葬るのですが、これによって祖先は一族の守護霊となったとみなされたのです。
このような独特の形の大きな墓が、至るところに見られます。初めて沖縄に旅をする人は、余りの多さに驚くことでしょう。ただ陰気臭さは全くなく、からっと開放的なのです。清明の前後の休日には、一族がその墓の前に集まり、祖先を供養した後、持ち寄った重箱入りの御馳走を食べながら、まるでピクニックのような気分で楽しく半日を過ごすのです。立派な墓の前には、そのための広場さえ設けられています。子供達はそこでお年寄りから祖先の話を聞かされ、またその供養の仕方を見せられて、祖先を敬い、墓と供養を継承してゆくべきことを、知らず知らずのうちに学んでゆくのです。こうして祖先の供養を通して、一族の団結は強められるのでしょう。
もっとも近年では墓地の不足や核家族化により、大きな墓を新設することが難しくなりつつあるようで、霊園墓地の家族墓が増えているようです。
沖縄の祖先供養は、旧盆にも盛大に行われます。墓に詣でる清明と異なり、盆は家に祖先の霊を迎える行事です。まず初日は「お迎え」(ウンケー)と称して、夕方に門で迎え火を焚いて祖霊を迎えます。古くは松の葉を燃やしていましたが、現在は線香を用いることが多いそうです。次の日を「中日」(ナカヌヒー)と言い、御馳走でもてなします。実際には親族が集まり、御馳走を食べながら楽しく過ごすのです。重箱には、餅と、豚の三枚肉・蒲鉾・揚げ豆腐・魚の天ぷら・昆布・こんにゃく・牛蒡などがぎっしりと詰められています。内地で食べる御萩や牡丹餅はありません。その他には、団子・菓子・各種の果実・葉生姜などを供えます。ここでも高齢者は祖先を知らない子供達に祖先の話を語って聞かせます。これを「語り供養」といい、何よりの供養になると考えられています。
話は脱線しますが、昆布が採れないのに、沖縄の昆布消費量は、富山県に次ぐほど多いのです。これは江戸時代に越中の北前船が運ぶ蝦夷地の昆布を、直接ではありませんが琉球貿易によって大量に入手し、中国に輸出していたことの名残です。帰路には中国から漢方薬の原材料を輸入し、これまた間接的にでしょうが越中にもたらされ、越中の製薬業の発展へとつながっていました。
三日目には「御送」(ウークイ)と称して、また線香を焚いて祖霊を送り出します。その時、砂糖黍の幹を杖として供えます。砂糖黍は風で倒されても不思議に立ち上がるので、高齢な祖霊が転んでも自分で立ち上がれるようにという意味が込められています。お腹がすいた囓れば良いということもあるのでしょうか。
日常的には、新聞に大きく葬儀の広告が載り、手厚く死者を弔う様子を見ることができます。何しろ新聞の一面全体が毎日葬儀の広告で埋め尽くされます。そして喪主の他に、その家族・親族・友人・地域の関係者の名前がずらりと並び、葬儀の日時と場所が記されているのです。沖縄の人に直接聞いたことなのですが、まず朝刊のこの広告欄を見て、義理を欠いてはならない葬儀の有無を確認してから、ようやく一般の記事を読むそうです。本土の人にとっては、本当に驚くことばかりです。沖縄に行ったら、ホテルのロビーで新聞を御覧になって下さい。
とにかく沖縄の人は、祖先を大切にしていて、それによって一族の絆が強められているのですが、学ぶべきことがたくさんあると思いました。それでも、我が家の墓の前で楽しく飲み食いをすれば、田舎のことですから、きっと顰蹙をかうことでしょう。
以上の話は、何回かの沖縄旅行で経験したことや、かつて一緒に住んでいた沖縄出身の友人から聞いたことです。沖縄と言っても広いので、違う風習もあるかも知れませんが、その点は御容赦下さい。
沖縄では祖先の供養が行われないのかと疑問に思う人がいるかも知れませんが、沖縄の人たちは、本土の人たちよりはるかに手厚く祖先の供養をしているのです。私などは月に一回、花を手向けに墓参りをする程度ですが、このあたりの基準に照らせば、それでも熱心な方かも知れません。しかし沖縄の人に比べれば、比較するのが申し訳ないほど粗略なものと言わざるを得ないでしょう。
沖縄では彼岸には火の神(ヒヌカン)や仏壇(トートーメー)に供物を供え、家内安全や厄除けを祈願することはありますが、特に墓参をするわけではありません。しかし春の彼岸からほぼ2週間後の清明に、一族こぞって墓前での供養をします。清明とは二十四節気の一つで、春分の次の節気にあたり、今年は4月4日ですが、5日の年もあります。沖縄ではこれを「清明」と書いて「シーミー」と呼んでいます。
沖縄で清明の墓参の起原については、18世紀半ばに書かれた『球陽』という歴史書には、「二月十二日始メテ毎年清明ノ節上王陵ニシテ奉祭スルコトヲ定ム」と記されています。
「清明」に墓参をすることは、もともとは中国の風習で、「清明」という言葉は、張擇端の描いた「清明上河図」という絵巻物でもよく知られていますね。「清明上河」とは、「清明の日の川の辺」という意味で、宋の首都である開封の繁栄が描かれています。ただし墓参の場面は見当たりません。
そもそも沖縄の墓地は、本土の墓地とは全く様子が異なります。初めて見る人は、その大きいことや住宅と混在していることに驚くことでしょう。沖縄の墓は、ギリシア文字のΩという字に似ている亀甲墓と、三角に尖った屋根のある破風墓が基本形です。
沖縄の古い墓は、山の陰や崖下の窪みや自然の洞穴を利用したものでした。その後手狭になると奥に穴を掘り進め、内部を広くして一族で共用する墓が営まれるようになりました。亀甲墓の起原は、1687年に琉球王国の尚清王の第七子朝儀を初代とする伊江家の墓まで遡れます。また破風墓の起原は、1501年に、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために営んだ墓にまで遡れます。しかしこれらの墓はあくまで貴族階級のもので、庶民に許されるようになったのは、廃藩置県後のことでした。それ以前は「祖先が苦しむから」といって
土葬はせず、海岸をのぞむ洞穴などで風葬することが一般的でした。そして3~4年後には洗骨して墓に葬るのですが、これによって祖先は一族の守護霊となったとみなされたのです。
このような独特の形の大きな墓が、至るところに見られます。初めて沖縄に旅をする人は、余りの多さに驚くことでしょう。ただ陰気臭さは全くなく、からっと開放的なのです。清明の前後の休日には、一族がその墓の前に集まり、祖先を供養した後、持ち寄った重箱入りの御馳走を食べながら、まるでピクニックのような気分で楽しく半日を過ごすのです。立派な墓の前には、そのための広場さえ設けられています。子供達はそこでお年寄りから祖先の話を聞かされ、またその供養の仕方を見せられて、祖先を敬い、墓と供養を継承してゆくべきことを、知らず知らずのうちに学んでゆくのです。こうして祖先の供養を通して、一族の団結は強められるのでしょう。
もっとも近年では墓地の不足や核家族化により、大きな墓を新設することが難しくなりつつあるようで、霊園墓地の家族墓が増えているようです。
沖縄の祖先供養は、旧盆にも盛大に行われます。墓に詣でる清明と異なり、盆は家に祖先の霊を迎える行事です。まず初日は「お迎え」(ウンケー)と称して、夕方に門で迎え火を焚いて祖霊を迎えます。古くは松の葉を燃やしていましたが、現在は線香を用いることが多いそうです。次の日を「中日」(ナカヌヒー)と言い、御馳走でもてなします。実際には親族が集まり、御馳走を食べながら楽しく過ごすのです。重箱には、餅と、豚の三枚肉・蒲鉾・揚げ豆腐・魚の天ぷら・昆布・こんにゃく・牛蒡などがぎっしりと詰められています。内地で食べる御萩や牡丹餅はありません。その他には、団子・菓子・各種の果実・葉生姜などを供えます。ここでも高齢者は祖先を知らない子供達に祖先の話を語って聞かせます。これを「語り供養」といい、何よりの供養になると考えられています。
話は脱線しますが、昆布が採れないのに、沖縄の昆布消費量は、富山県に次ぐほど多いのです。これは江戸時代に越中の北前船が運ぶ蝦夷地の昆布を、直接ではありませんが琉球貿易によって大量に入手し、中国に輸出していたことの名残です。帰路には中国から漢方薬の原材料を輸入し、これまた間接的にでしょうが越中にもたらされ、越中の製薬業の発展へとつながっていました。
三日目には「御送」(ウークイ)と称して、また線香を焚いて祖霊を送り出します。その時、砂糖黍の幹を杖として供えます。砂糖黍は風で倒されても不思議に立ち上がるので、高齢な祖霊が転んでも自分で立ち上がれるようにという意味が込められています。お腹がすいた囓れば良いということもあるのでしょうか。
日常的には、新聞に大きく葬儀の広告が載り、手厚く死者を弔う様子を見ることができます。何しろ新聞の一面全体が毎日葬儀の広告で埋め尽くされます。そして喪主の他に、その家族・親族・友人・地域の関係者の名前がずらりと並び、葬儀の日時と場所が記されているのです。沖縄の人に直接聞いたことなのですが、まず朝刊のこの広告欄を見て、義理を欠いてはならない葬儀の有無を確認してから、ようやく一般の記事を読むそうです。本土の人にとっては、本当に驚くことばかりです。沖縄に行ったら、ホテルのロビーで新聞を御覧になって下さい。
とにかく沖縄の人は、祖先を大切にしていて、それによって一族の絆が強められているのですが、学ぶべきことがたくさんあると思いました。それでも、我が家の墓の前で楽しく飲み食いをすれば、田舎のことですから、きっと顰蹙をかうことでしょう。
以上の話は、何回かの沖縄旅行で経験したことや、かつて一緒に住んでいた沖縄出身の友人から聞いたことです。沖縄と言っても広いので、違う風習もあるかも知れませんが、その点は御容赦下さい。
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