一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

『グエン・ティエン・ダオの世界』を聞いて

2012-11-17 07:56:03 | コンサート情報

2012年9月29日
『グエン・ティエン・ダオの世界』を聞いて
                      ―寺本倫子



                        カーテン・コール    写真(c)高島史於

私が、プログラムの中で、興味を持って望んだのは、『INORI3・11』でした。他国の作曲家が、我が国がかつて経験したことのないほどの悲しみを、どのように表現するのか、大変に興味がありました。第1楽章から第4楽章まで、それぞれ、性格がはっきりしており、のどかで平和な日々から、突如、震災に見舞われ、その後の悲しみから祈りへと進んでいったのが非常によくわかり、私たち日本人誰しもが持っている心の動きそのものでした。ベトナム人作曲家がここまで表現してくださっていることに、非常に感慨深いものがありました。続く『ジオ・ドング』は、このような形態のものを初めて聞きましたが、音楽というのか、声というのか、その不思議さに見せられました。特に、奈良ゆみさんの表現のあまりの多彩さは驚異的だったと誰しも思ったのではないでしょうか。最後の『テン・ド・グ』は、パーカッションの圧倒的な迫力と聞いたこともないようなエレクトーンの表現方法に、これもまた驚きでした。非常に興味深い、大きな感銘を与えられた音楽を聞かせてもらうことができ、充実しておりました。

途中の、西村朗氏のメシアンに対するご意見には大変に興味深いものがありました。

メシアンが、鳥の声を1つ1つ音符にして「スケッチ」していたとのこと。しかし、これに対して、「果たして、我々日本人は、鳥の声をそのように聞くだろうか。ただ単に、音の高低とリズムだけのものとして鳥の声を聞くのだろうか。森の中にあって様々な聞き方をするのではないか。これが西洋音楽の限界なのか。」といった指摘です。そこで、ふと思い出されたのは、ベートーベンが『田園交響曲』について、「この交響曲は、単なる田園の情景の描写ではなく、感情を表現したものだ。」と述べた言葉でした。『田園交響曲』では、特に2楽章の最終部分に、フルートで鶯、オーボエで鶉、クラリネットで郭公の鳴き声が演奏されます。これらを指摘して、鳥の鳴き声を模写描写したものなのかという論争がされることがあります。この点について、ロマン・ロランが、「ベートーベンは、(自然音を)模倣描写したのではない・・・(聴覚を失いつつあった)ベートーベンは、消滅している一世界を、自分の精神のうちから再創造したのである。小鳥たちの歌のあの表現があれほど感動を与えうるのは正にそのためである。小鳥たちの声を聴きうるためにベートーベンに遺されていた唯一の方法は小鳥たちをベートーベン自身のうちに歌わせることだったのである。」と述べたことが思い出されます。ベートーベンにとっては、鳥のさえずりがどんなに感動的であったことでしょう!そして、それは、『田園交響曲』の第5楽章のいよいよクライマックスに向かう最終の部分で、フルートがこの楽章の主題をまるで鳥のさえずりのように響かせるが、そのとき、ベートーベンは、もう聞こえなくなってしまった鳥の声を懐かしみ、まるで、鳥の姿を少し淋しげに目で追っているかのように聞こえます。私は、小学生の頃から、田園のこの部分を聞くとそう思っていました。ここがまた、ベートーベンの音楽の感動なのです。

ベートーベンにとっては、自然そのものが感動であり畏敬すべき存在であって、それを私たちに伝えてくれます。単に、自然界を模写描写したものを伝えるだけあれば、音楽にする必要はありません。それは、一人一人が森の中へでも行って自ら聞いてくればよいのです。芸術というものは、その人の思想の表出であって、科学でも機械でもない。こんな事を、西村氏のお話を聞くうちに考えたものでした。そして、この自然なるもの、宇宙の壮大さを認識し、人間もその一部であることに思い至ること。これこそがまさ、我々「知と文明のフォーラム」の目的とするものだったということを改めて思い知らされました。

『グエン・ティエン・ダオの世界』は、単に、ベトナムの音楽を紹介することや、西洋と東洋の結びつきを探求するきことのみを目的としたものではありません。これらを通じて、人の根元とは何なのか、人が行くべき道は何なのかを探求し、貢献することにあるはずであり、今後、最も必要となっていく作業であることでしょう。

今回のコンサートが、ベトナムに対する親近感と郷愁を呼び起こしたことは間違いありません。