一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

伊豆高原日記【133】

2012-11-05 11:19:27 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【133】
Kitazawa, Masakuni  

 今年は快い気候の秋は短く、朝夕の冷え込みの訪れが早く、はやくも晩秋の淋しさを感じさせる。まだ青い庭の芝生に落葉がはらはらと舞い、茜色の柿の葉蔭に野鳥たちがやってきて、熟した実をついばんでいる。

さまよう皇国史観の亡霊  

 11月3日の総合テレビNHKスペシャル「発見!幻の巨大船」が興味深かった。長崎県鷹島沖で、海底の泥約1メートル下から発見された元(モンゴル帝国の中国部分)の巨大軍船と、その積載物の分析や研究から判明した事実をドキュメンタリーとしてまとめたものである。

 1281年(弘安四年)の「元寇」つまりモンゴル帝国軍14万の第2次九州侵攻時に、「神風」によって沈没した数千隻の軍船のひとつである(全数は4千5百隻と伝えられ、沈没を免れたものは撤退したとされている)。近年さまざまなテクノロジーによって著しく発展した海中考古学の目覚ましい成果のひとつであるが、文献や絵巻物などによって伝えられてきた歴史的事実をはるかに上回る驚くべき発見があいついでいる。  

 たとえばこの巨大軍船は、約10メートルにおよぶ竜骨(キール)のうえに組み立てられていて(船の全長は20メートル以上になる)、外洋の大きなうねりをも吸収することができ、マルコ・ポーロがその見聞記で驚嘆している中国の先進的な造船技術を実証している。船室は隔壁でへだてられ、万一一か所が浸水しても、隔壁を閉じることによって浸水をその船室だけにとどめることができる(近代の軍艦にも応用された技術である)。  

 のちに明の大提督鄭和がひきい、平和裏にインド洋に進出し、さらにアフリカにまで足を延ばして交易にあたった大艦隊には、これを数倍も上回る巨船が使われていて、揚子江河岸でその船橋部分が近年発掘されたばかりである。モンゴルに征服された南宋の造船技術を元が、さらには明がうけついでいたのだ。  

 また驚くべき軍事技術のひとつは、元寇を迎え撃つ鎌倉幕府勢に多大な損害を与えた「てつはう」である。直径約15センチ程度の素焼きの玉に火薬と鋭い鉄片などを詰め、火縄に火をつけ、投石機などで遠くにとばすもので、爆発によって鉄片を吹き飛ばし、ひとを殺傷する。中世の迫撃砲とでもいうべき武器である。いままでその存在は知られていたが、火薬とともに鉄片が詰められていたことはわからず、ただ爆発音で敵を脅すものとしか考えられていなかった。中身が詰まったままのものが出土し、分析の結果はじめて明らかになったものである。  

 ただ解説では「てつはう」とのみ書き、発音し、視聴者にはそれが「鉄砲」であることを理解できなかったのは遺憾であった。ほんらい鉄砲はこの火薬兵器を指し、のちに渡来した火縄銃は、それを積載したポルトガル船が漂着した種子島にちなんで「たねがしま」とよび、ながいあいだ本来の鉄砲と区別していたのだ。ただ火薬を使う兵器ということで、のちに種子島も鉄砲とよばれるようになった。  

 さらに遺憾なことは、このドキュメンタリーへのコメントや解説である。半藤一利氏は日本の近現代史にはくわしく、また正論を述べるひとではあるが、中世や古代は専門ではない。元の数千隻の軍船を壊滅させた「神風」についてのコメントは、首をかしげるものというよりは明らかに誤りであった。  

 つまり古語では神風(本来はかむかぜ)はすなわち台風であって、そこにはなんの付加的な意味はない。「台風」は古代ギリシア語のティフォン(暴強風)に由来する英語の気象用語タイフーン(typhoon)の音韻的当て字の訳語で、明治以後の造語であり、明治以前はすべて神風であったのだ。  

 「神風の伊勢、常世[とこよ]の浪寄するところ」と古来呼ばれてきたように、聖地伊勢は、太陽女神アマテラスの常世での守護神である雷神サルタヒコ(イセツヒコ、タケミナカタなどさまざまな異名で呼ばれている)が、その妻である稲の女神トヨウケ(外宮に坐す)とともに鎮まる地である(のちにこのサルタヒコの守護をいわばあてにしてアマテラスをこの地の内宮に移した)。サルタヒコは夏の気象神であり、わが国にとってとりわけ重要で神聖な稲作の出来を支配する神である。その荒御魂は、手にした鉾を振り回すことで引き起こす神風すなわち台風にほかならない(稲の女神を妻とするので雷[神鳴り]は古来イナヅマ[稲妻と書くが古語ではツマは配偶者の呼称であり、本来は稲夫と書くべきである]と呼ばれてきた。台風は雷をともなう)。伊勢にかぎらず、天狗サルタヒコが先導するすべての祭りは、稲作の死命を制するサルタヒコの荒御魂鎮めと稲作の豊饒を願って行われる。  

 この神風を、国難にあたり神が日本を救うために吹き起こす風という定義に変えたのは、水戸派国学の流れを汲む明治ナショナリズムであり、昭和軍国主義のイデオロギー的背骨であった皇国史観である。義務教育を通じて徹底的にたたきこまれた皇国史観は、太平洋戦争末期、多くの若者に犠牲を強いた特別攻撃隊「神風」を生み、敗色濃厚な戦局挽回にかならず神風が吹きおこり、米艦隊を壊滅させるという幻想にひとびとをすがらせることとなった。  

 わが国の古語や真の伝統に対する無知がいまだにメディアを支配し、皇国史観の亡霊をさまよわせている現状には深い憂いを抱かざるをえない。  

 ちなみにいえば、昔の小学唱歌で「国難ここに来る、弘安四年夏の頃……」とうたわれていたが、旧暦では「夏」ではなく「秋」である。神風が吹き荒れたのは閏七月一日の夜であるが、そもそも七月は秋(したがって七夕は秋の行事である)で、しかも閏月であるから、電子計算機によらないかぎり正確には計算できないが、九月の末であったと思われる。