一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【102】

2011-05-21 17:57:16 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【102】
Kitazawa, Masakuni
 

 伊豆高原中に匂っていた柑橘類の花々の甘い香りも失せ、さまざまな樹々の花々が白く咲き誇っている。卯月つまり旧四月の名の由来である卯の花(ウツギの花)も盛りで、緑の木の間に淡い黄色がこぼれんばかりである。卯の花とくれば、もちろん空にはホトトギスのけたたましい声が、ウグイスを圧倒するばかりにひびく。

原発の「思い出」 

 自動車の定期点検を待つあいだ、ディーラーの明るい展示室で、ふだん広告以外に読むことのないいくつかの週刊誌に目を通した。そのなかで東電の内幕を書いた記事があり、そこに登場したかつての副社長の名に、鮮明な記憶がよみがえった。 

 1990年代の終わりだったと思うが、当時民主党の代表に復活した菅直人氏を招いて、新潟・魚沼のある温泉施設で勉強会を行ったことがある。それは東電が柏崎原発の代償として、地元の各地にいくつか造ったいわゆるハコモノのひとつ(いうまでもなく政府は巨額の原発立地交付金を地元に別に払っている)で、仄かな照明に照らされた雪景色を見ながらの露天風呂はまた格別であった。 

 夕食をはさみながらエネルギー問題の討議を行ったが、私がドイツにならって2020年代までに原発を撤収すべきであり、そうしたスケデュールを設けることで自然エネルギーのみならず、あらたなエネルギー開発や省エネルギー技術が促進される。太陽光・風力・地熱・高温岩体・小型水力発電・波浪・バイオマスなど、むしろわが国は自然エネルギーの資源大国であり、省エネルギー技術でも世界のトップに立ち、技術輸出ができるはずである、もし2020年代にいたっても代替エネルギーが十分でなかったなら、そのとき原発を暫定的に延長すればよい、と1時間あまり述べ立てた。 

 同席者の一人が「今日は北沢先生冴えていますなあ」とほめてくれたが、肝心の菅氏はあまり納得したようにはみえなかった。勉強会が終わったあと、オブザーヴァーとして同席していた東電の副社長(私は当然反論があるものとばかり思っていた)が、私に、同じ話を東電の幹部たちに話していただけないか、と思いがけない提案をしてくれた。もちろん喜んで、と名刺を交換し、名をみたら山本勝とあった。 

 伊豆に帰って一度連絡があり、7月ごろにお願いしますということであったが、その後連絡はなく、どうしたのかと思っていると、ある日新聞の訃報欄に急死の知らせが載っていて、驚くことになった。 

 当の週刊誌の記事によれば、彼は有力な次期社長候補であり、きわめて先見の明のある有能なひとであったという。もし彼が社長であったなら、福島原発もこのような事態に陥らなかったかもしれないし、大事故後の処理ももっと早く適切に行われていたかもしれない。私にとってはただ一度の出会いであったが、心に残る「原発の思い出」となった。

リスト・フェレンツの生誕200年祭 

 大震災のおかげもあるかもしれないが、今年はフランツ・リスト(父親がハンガリー人であり、彼自身もハンガリー人と考えていたから正式にはリスト・フェレンツである)の生誕200年祭というのに、目立った催しはない。その原因のひとつは、多くの日本人にとってリストは音楽的にもあまりにもスケールが大きく、人格や行動も破天荒であり、理解しがたい点にあると思う。 

 つまりモーツアルトやショパンも、多くの日本人の理解を超えた奥深さや偉大さがあるにもかかわらず、彼らは「天使の美」や「音の詩人」などといったセンティメンタリズムによる矮小化の枠に収められ、その生誕祭は熱狂的に祝われ、絶大な人気を博すことになった。だが、ベルリオーズもそうであったが、リストは、そのようなセンティメンタリズムをまったく受けつけない叙事詩的で記念碑的な芸術、つまり絵画上でドラクロアが行ったようなロマン主義の劇的で英雄的な側面を追求したひとといえる。 

 その意味でリストは音楽の革命家であったが、同時に政治や思想上の革命家でもあったのだ。 

 リストやベルリオーズの青春時代は、ユートピア社会主義の全盛期であり、とりわけこの二人はサンシモン主義者の同志として活動し、また異国にあってもつねに「危険人物」としてメッテルニヒの秘密警察の尾行に会っていた(その記録がいまでもウィーン警視庁の古文書館に残されている)。とりわけリストはハンガリー独立運動にもかかわり、巨額の資金の提供者でもあったため、一時期逮捕の危険にさらされていた。

 1830年の七月革命、さらには1848年の二月革命でどのような活動をしたか不明(二人とも革命の挫折後の反動期に口を閉ざして生きていたがため)であるが、決起した労働者のために、革命の指導者のひとりであったラムネーの詩によって書いたリストの「労働者の合唱」(1848年と推定されている)という革命歌が残されている(なんとナチス台頭の前夜、ウェーベルンがこの曲をオーケストラと合唱のために編曲し、労働者たちの祭典で指揮している)。

 社会革命や独立革命の挫折後の暗黒の反動期に、たしかにリストはカトリックの信仰を深め、多くの宗教作品を書いているが、それも彼の革命家としての信条を裏切るものではない。なぜなら、サンシモン主義そのものがすでにカトリック社会主義であったし、有名な「小鳥に説教するアシジのフランチェスコ」にみられるように、その信仰は、イスラーム神秘主義者ルーミーとともに太陽や自然をほめたたえるフランチェスコの原点に帰るものであったからである。

 いうまでもなく、リストは音楽においても革命家であった。ベルリオーズやワグナー同様、ベートーヴェンの後期の様式の圧倒的な影響を受け、その「ディアベッリ変奏曲」(彼はヨーロッパの各地でこの作品や後期のソナタを演奏し、その普及に絶大な影響を及ぼした)の万華鏡のような革命的な技法を、「変奏」ではなく「変換(トランスフォーメーション)」としてとらえ、伝統的な和声もその必要に応じて同じく変換し、自己のピアノ作品で徹底的に追求した。晩年の『巡礼の年』第3年の2曲の「ヴィラ・デステの糸杉」や「ヴィラ・デステの噴水」が存在しなかったならば、ドビュッシーやラヴェルは存在しえなかったといっても過言ではない(事実彼らは晩年のリストの様式に直接影響を受けている)。

 彼のハンガリー諸作品がなければ、スメタナやドヴォルジャークをはじめとする各国の国民楽派の台頭もありえなかったかもしれない。

 この巨人のあまりにも膨大な作品は渉猟するだけでも大変であるが、生誕200年祭のこの機会に、ぜひ埋もれた諸傑作を発見してほしいものである。