一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

おいしい本が読みたい●第十九話

2011-03-02 22:39:08 | おいしい本が読みたい

おいしい本が読みたい●第十九話 

                            
                                   
                  セリーヌ VS 隆慶一郎

 

 昨夜遅く、“学生さん”が逝った。享年六十一。ゆえあって本名は明かしかねる。といって、著名人だからというわけではない。ほぼ九分九厘、わたしたちと同じように、彼は無名だろう。三十年くらい前は、多少知名度はあったかもしれない。十数年間にわたり、ある音楽雑誌の記事を書いていたという話は誰かの口から聞いたことがあったから。                   

 “学生さん”は生きることを、じつに淡々とこなした。社会的地位という意味でいえばりっぱな落ちこぼれでありながら(雑誌編集者をアルコールのせいで首になってからの半生はアルバイトで生活した)、おのが悲運をかこつわけでもなく、過去は語らず、発掘の手伝いにそれなりに充足しつつ、集めた土器のかけらのことを、ポソポソと、話した。  

 さぞや、家庭的には円満だったろうと思ったら、まるで違う。そもそも根っこは身勝手な男。まわりの迷惑なぞ歯牙にもかけない。電車の中だろうと、喫茶店の中だろうと、スティック片手に、所かまわず叩きまわっては一人で悦に入る。一緒にいると気が気じゃない。                                                           

 そういう、いびつといったら実にいびつな人間だが、これは見事だと思えるのは、自分の美学に合わない権威は一顧だにしない反骨が根底にあったことだ。その彼独特の美学が語られるとき、思わず爽快感を覚えるほど、古典的権威を無視したことはいうまでもない。実物の権威者の目の前で、ケッ!という言葉を吐くことも一再ならずあった。ただ、見てると気持ちがいいが、少し離れているほうが無難だった。

 さて、この変人 “学生さん”に、あるときお勧めの本はないか、と尋ねたことがあった。誤解のないよういっとくと、彼は相当な読書家だったはずだが、傍目にはそうは見えなかった。読んでるが読んでいる顔をしない、という人はそこそこいるが、それともちょっと違って、読んでいる匂いがしないのだ。ほかの匂いが強烈で…ということかもしれない。  

 ともかく、そのとき彼が口にしたのは、「セリーヌの 『夜の果ての旅』 と隆慶一郎」 だった。                             

 セリーヌのほうはこちらもお気に入りだったから、偏屈な彼と共通点が見つかって、正直うれしかった。ところが、もう一方の隆慶一郎はまるっきり知らなかった。あとで、こっそり 『鬼麿斬人剣』 というのを読んで、時代小説の世界にひたるきっかけになった。 セリーヌと隆慶一郎という組み合わせは、異色の組み合わせと映るだろうが、まったく無縁というわけでもない。これも後で知ったことだが、隆は仏文出身なのである。小林秀雄に私淑していて、小林の目の黒いうちは大衆小説を書けずにいたという話は聞いたことがある。      

 セリーヌはともかく、それからのわたしは、隆から、杉本、司馬、山本、吉村、藤沢、北原、乙川と、ありきたりな時代小説好きの道をたどってここまできた。しかつめらしい純文学をある意味でささえる大衆文学の豊かさを教えてくれた一人が、本人はそんな気は微塵もなかったろうが、あの“学生さん”だったのだ。畏友というのは少し気が引けるし、彼には似合わない。だが、恩人といっても許してもらえるだろう。誰からも振りかえられない人生をあれだけ何気なく生きる爽快さ、それをわたしに見せてくれた恩人だからである。

 合掌                                           
                                   むさしまる