一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

青木やよひ先生最後のベートーヴェン

2009-12-09 22:26:09 | 青木やよひ先生追悼


青木やよひ先生最後のベートーヴェン
平凡社新書 『ベートーヴェンの生涯』


 青春時代にベートーヴェンに魅せられたという青木やよひ先生は、〈不滅の恋人〉を核として、以降50年余にわたってその真実を追い続けてこられた。ベートーヴェン関係の著作は数多いが、私は最後の
3冊を編集者としてお付き合いさせていただいた。その3冊目、12月15日に発売になる『ベートーヴェンの生涯』が、文字どおり青木先生の「白鳥の歌」となってしまった。そしてこの本は、その言葉にふさわしく、透明な美しさに満ちた著作となった。いまその制作過程を顧みて、青木先生との最後のお仕事のありさまを書き記したい。

 青木先生がいつベートーヴェンの生涯を本にしようと思い立たれたのかはわからないが、私がその思いを最初に耳にしたのは、確か2006年の末、「知と文明のフォーラム」の忘年会の席上だったように思う。『ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究』(平凡社ライブラリー)も校了になり、一息つかれた頃である。2004年の11月に刊行された『ゲーテとベートーヴェン』(平凡社新書)と合わせて、ベートーヴェン3部作としたいというお話だった。編集者として異存のあるはずはない。

 ベートーヴェンの生涯を正面から取り上げた本は意外と少ない。まだ生存中の関係者から取材したりして大部な本にまとめあげたセイヤーの伝記は有名だが、専門家はともかく、一般の読者は手に取りがたい。結局、ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』が、ほとんど唯一の一般書としての伝記ということになる。しかしこの本は内容的にも古く、誤りも多い。ロマン・ロランの伝記に代わるべきものを書き残したい――この思いこそ、青木先生が『ベートーヴェンの生涯』を書こうとされた最大の動機ではないかと思う。

 北沢方邦先生の日記にもあるように、青木先生がこの最後の本に本格的に取りかかられたのは2008年5月の大腸癌の手術後である。綿密な資料集めの後、第1章はほぼ完了されていたようだが、第2章から第5章までは、癌の転移と闘いながらの執筆だったということになる。しかも第1章は、全章を書き終えられた後、全面的に書き改められたという。本を執筆するというのは並大抵の労働ではない。それにこの種の本の場合、資料的な正確さが求められる。執筆に割かれる時間の何倍もの時間が資料の点検に費やされたはずである。

 『ベートーヴェンの生涯』は新書の形で刊行されるが、青木先生は必ずしも新書を希望されていたわけではない。私も、とにかく思う存分ベートーヴェンについて書いていただき、出来上がった時点で出版形態は考えようと思っていた。図版をふんだんに挿入した、美しい装丁の単行本も選択肢に入っていた。いっぽう、2009年5月に創刊10周年を迎える平凡社新書は、メモリアルにふさわしいテーマを求めていた。青木先生のベートーヴェンは間違いなくそのひとつになると判断し、術後すぐ先生とも相談のうえ、2008年12月を原稿の締め切りと設定した。1日4枚のペースで書き進めれば12月には間に合うと考えられたようだ。

 さて、私が最終的に原稿をいただいたのは今年の8月である。昨年の5月に手術をされて以来、癌は肝臓、肺、卵巣と転移し、何度も検査のために入院された。最低限使用された抗癌剤の強い副作用のお話など病状についてお聞きすることはあっても、原稿の進捗状況を確認することはためらわれた。病と闘っておられる先生に向かって、原稿の進み具合はいかがですかとは聞けない。平凡社新書10周年に間に合わせることはあきらめていた。しかし先生は、常にそのことを考慮に入れながら執筆をされていたのだ。私から催促がないことを寂しいと思われていたことをあとで知った。ともあれ、進行に関しては3月頃に再調整をし、ベートーヴェンの季節である12月刊行に向けて態勢を組み直すことにしたのだった。

 私がいただいた原稿は、青木先生の古くからのお知り合いの手でテキストファイル化されていた。加筆訂正も済んだ、ほぼ完全原稿と思われた。一読して私は、全編に溢れるある種の清澄さを感じ取った。それこそ、ベートーヴェン研究50年余の知識が総動員されていながら、そんな大仰さは影も見られず、たんたんとベートーヴェンの人生が綴られている。そこには、女性を愛し、駄洒落を飛ばし、魚に舌鼓を打ち、甥への愛に振り回される、隣人ベートーヴェンがいた。もちろん、ナポレオンやメッテルニヒの影が濃いウィーンの政治情勢や、カントやフリーメイソン、インド思想との関わりなど、ベートーヴェンの哲学的な背景も語られる。バッハ、ヘンデル、モーツァルトの音楽との関連性が書かれた箇所など、音楽フアンには嬉しい情報である。こうして、興味深く読み進めるうちに、まったく新しいベートーヴェン像が胸に刻まれることになる。

 完成度の高い原稿であるため、あとは注、年表、索引など、いわゆる付き物の作成に集中すればよいと、一安心していた。ところが、初校を出す前に、訂正で真っ赤になった第1章が送られてきた。組み上がった初校を大急ぎで訂正し、ゲラを先生に送った。この本はDTPで制作したため、訂正は編集者、すなわち私が行うことになる。結果的にはこれが良かった。初校・再校とかなりの量の赤字を短時間で訂正しゲラを出校することになったが、通常の印刷工程では到底12月には間に合わなかっただろう。それにしても、完璧さを求める青木先生の意志の強さには舌を巻いた。内容の誤りを訂正したり、文章をより読みやすくするために修正したりするのは当然だが、先生の赤字は文章の完成度にも関わるものだった。言葉遣いひとつひとつを点検し、読点の打つ箇所を注意深く変更するなど、まさに「作家」のお仕事だと実感した。そして、これだけの赤字を入れられる体力が残されているのだから、先生の病状は当分維持されるだろうと考えた。

 青木先生のお仕事として、本文の校正とは別に注の作成が残されていた。今回の注は、文献表も組み込んだ、これだけ読んでも面白いものに仕上がっているが、9月と10月のお仕事の重なり具合は、健康な人間でも消耗するほどのものだった。章ごとに注の原稿が送られてくるとすぐテキスト化し、先生に送り返した。先生は本文の校正と注の続きの執筆以外に、この校正もしなければならない。おまけにTさんが作成した年表と索引にも目を通す必要がある。12月の刊行を守るため、私は、それらのお仕事を何日までにお願いしますと言わざるを得なかった。この2ヵ月間のお仕事だけでも、先生のお命を縮めるに十分な重労働だったのではないかと、悔いが残る。

 三校のゲラをお送りしたのは11月13日。それを確認していただいたあと、19日に入院された。24日にご自宅に帰られたと聞き、お声が聞けないかとお電話したが、休まれているとのことだった。その夜、北沢先生と慈しみ深いお時間を過ごされ、翌25日他界された。ある意味では、この本を完成させるために生き延びられたのではないかと、私は自らを慰めるしかなかった。そして残念だったのは、完成した本をお見せできなかったことだ。1冊だけでも早く作るべく印刷所とは話がついていたのだが、1週間足りなかった。

 それにしても、癌が体内で増殖し続ける中、よくも430枚もの原稿を書き上げ、ゲラでは何度となく内容に修正を加え、かつ最終校正までも確認し終えられたものだと思う。その意志の強さには驚嘆する。本書のあとがきにも書かれているが、青木先生はベートーヴェンの度重なる病苦を追体験されたのだ。「死に直面することによって人は、はじめて自分の存在意味を明確に自覚し、自己に託された仕事をなしとげずにはいられないという強い意志に動かされる」。青木先生の『ベートーヴェンの生涯』は、知力と体力と、この強力な意志力を使い切ることによって、見事に完成されたのである。そのお仕事に伴走させていただいた日々を、青木先生からのかけがえのない贈り物として、私は生涯忘れることはないだろう。

              2009年12月8日 森 淳二