一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【62】

2009-07-07 21:19:49 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【62】
Kitazawa, Masakuni  

 ときおり晴れ間が顔をのぞかせるが、梅雨らしい日々がつづく。ウグイスやホトトギスの声も、心なしかくぐもって聴こえる。梅雨がなかなか明けず、冷夏となった敗戦の前年の夏を思い出す。小さな茶碗摺り切り一杯の雑穀飯にひもじい思いをしながら、冷たい海水に震えあがり、「サイパン島玉砕」の新聞の大見出しに暗澹とした気分となったその夏の遠泳合宿の記憶がよみがえる。 

 毎日ではないが、冬に餌をだしてやったヒヨドリたちが、挨拶に姿をみせる。パーゴラの白い棚の下にやってきて、空中で羽ばたきながらホヴァーリングをし、われわれが声をかけたり、手を振ると、喜んで飛び去る。

ホピ、脱近代の枠組みについて 

 人類学者で立教大学教授の阿部珠理さんの依頼で、比較文明学会全国大会の「Indigenous Thoughtsと還流文明」というセッションでホピについて話すこととなった。以下はそのメモである: 

 近年ホピではトラブルがつづいている。かつては伝統派対進歩派の葛藤であったが、いまはホピ対外部の葛藤といってよい。1990年代には、日本人の映画監督を含むアメリカ白人などのグループが、ホテヴィラのある「長老」の土地や畑にいくつものヤシロを造り、擬似的な儀礼を執り行うという事件が起こり、村人たちを怒らせた。 

 母系制のホピでは土地は母系氏族の所有であり、「長老」の妻をはじめ女たちの管理下にある。「長老」といえども母系氏族の許可がなければ、土地を勝手に使用することはできない。また村人といえども、正式の儀礼でないかぎり、村から離れた聖なるヤシロの周辺に立ち入ることはできない。まして仮設のヤシロや儀礼暦にも従わない擬似的な儀礼など、冒涜行為以外のなにものでもない。 

 1997年に、ホテヴィラの宗教結社の首長たちが集まり、こうした行為の厳禁や自称長老・自称スポークスパースンの排除などを記した声明を発表したのも当然である。 

 2009年、NPC(日本でいうNPO)「文化の目覚め協会」(The Institute for the Cultural Awareness)が、アースデイの期間中ホピの土地で「祖先たちの集い」(The Gathering of the Ancestors)という大規模な集会(予算150万ドル)を行うとして、ホピ部族議会に許可を求めてきた。 

 伝統派の村の首長たちを含め、部族議会は不許可を通知した(伝統派と進歩派である部族議会が一致するのは珍しい)。その理由は、あなた方が主張するように「異なった集団が異なったフィロソフィーをもち、それを実践する権利は認めるが、残念ながらあなた方のフィロソフィーは、ホピの伝統的で祖先伝来の道とは異なっている」からであるとする。 

 あまり説得力のある理由とは思われないが、われわれはその根底にあるものを理解しなくてはならない。それは近代の思考の枠組みと、ホピのみならず一般に野生の思考の枠組みとの大きな断絶である。 

 上記ICAのホームページも開けてみたが、マヤの長老の言を冒頭に引用しながら、アメリカ・インディアン(インディオ)の生き方に共鳴し、それぞれの祖先の霊たちと秘儀的な交流を図りながら、いまの地球環境を救おうという、いささかオカルト的ではあるがきわめて真面目な善意の団体である。だがそれは日本人を含む90年代のグループ同様、近代的思考とその尺度でホピをはじめとする野生の思考を理解し、自己の「善意」の支持を押しつけようとする点で、たんに有難迷惑というより、むしろ犯罪的でさえある(「罪を知りながら犯罪を犯すものよりも、罪を知らずして犯罪を犯すもののほうが、より罪深い」というインド『マヌ法典』のことばを思い起こそう)。

プラクシスとプラティーク 

 すなわち近代の思考はすべて、意識のレベル、つまり私のいうプラクシス(意識的実践)のレベルを基本としている。なにごとにもよらず、とにかく近代人は自己の「主体」あるいは「主観」を確立するために、意識的に認識し、行動する。社会的にはつねにそれが「権利」の確認と行使となる。 

 わが国の憲法第21条の「言論の自由」の保証、合衆国憲法修正第1項のいわゆる「知る権利」、あるいはわが国の憲法第13条に保証された「幸福追求の権利」などは、その法的な裏書となる。法体系からはじまり日常生活にいたるまで、すべて言語化可能な認識や行動に支配され、それが「理性」の証しとされる。それ以外の行動は理性に反する「非合理」なものである。 

 上記のイヴェントにしても、善意の参加者はホピのフィロソフィーを理解しようと努力し(「知る権利」)、相互に、また村人ともコミュニケーションを図ることで、自己と人類と地球環境の調和を実現しよう(「幸福追求の権利」)という、きわめて合理的な行動にほかならない。 

 だが野生の思考にとっては視点はまったく異なる。なぜならそこでは、思考体系はすべて無意識のレベル、私のいうプラティーク(無意識的行動)を基本としているからである。そこでは「理性」や「正義」などといった抽象語はまったく存在せず、言語化された法体系もない。だが価値判断の基準は「感性」や「身体性」にいわば埋め込まれ、それはきわめて厳密であり、プラクシスのレベルで起こりがちな恣意的なもの(個人や集団相互で起こる齟齬、その調停のために民法はある)の介入はほとんどない。 

 ホピでは幼児の躾から村の集会の討議にいたるまで、最終的にすべては「ホピ」か「カ・ホピ(ホピでない)」かの2語で決定される。ホピであるとは、平和である、礼儀正しい、生き物を殺さない、自然を尊重し、必要なものは儀礼とともに頂くなど、1語では表現できない行動の規範を包括している。 

 むしろこうした無意識のレベルの構造が確固としてあるからこそ、ひとびと相互には絶対的な信頼関係があり、「知る権利」などを行使する必要はまったくない。個人相互だけではない。兄弟姉妹といえども所属が異なっている宗教結社の伝承や儀礼は相互に秘密であり、話すことはタブーである。だがそれぞれの結社がその伝承された無意識のレベルの思考である儀礼や儀式(もちろん祭壇の造成や儀礼の手順などは綿密な意識的行為であるが)を厳密に行うことが、ホピ全体の、さらには人類全体の平和と繁栄を保障することになるのだ。 

 ここでは種々の権利の行使は、自然や部族の調和を破壊し、ひとびとを離反させる悪といわなくてはならない。

プラティークの復権と脱近代の枠組み 

 プラティークのレベルに埋め込まれたこうした構造こそ、人間を人間たらしめる倫理の源泉であり、文化の基盤である。この点でプラクシスのみに依存する近代社会ほど倒錯した人間社会はないといってよい。 

 だが一旦成立した近代社会を、一気にホピ風に逆転させることなど不可能である。ではどうすればよいか。それは、プラクシスの合理性追求ゆえに非合理的なものとなり、肥大した欲望に支配されているわれわれのプラティークのレベルから、それらを排除し、感性や身体性に本来の姿をとりもどすことである。

 まず、欲望を肥大させるメディア情報の氾濫に溺れる自己を救いだすためには、ホピがひとつのモデルであるような、宇宙や大自然のなかの人間の姿をもう一度見つめなおし、老子のいう「足るを知る」ことの充足感をとりもどすことである。いいかえれば、個々の人間がそれぞれの内部に宇宙論を確立することで、われわれはこのグローバルな消費社会の蟻地獄から脱出することができる。ホピに自己を発見しにいくのではなく、われわれ自身のなかにそれぞれのホピをみいだすことこそ、脱近代の枠組みを造りだし、世界を変革する手がかりとなるのだ。