一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【58】

2009-05-05 18:40:03 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【58】
Kitazawa, Masakuni  

 今年は異様に季節の移り変わりが早い。新緑の季節というのに、もはや新緑とはいえない。ツツジの花は散り、旧六月、つまり夏の花である牡丹も散ってしまった。わが家のボタンは深紫色の大輪で、今年は多くの花をつけ、出入りの植木屋さんが賛嘆したが、他のひとの目には触れずじまいであった。あいかわらずウグイスは鳴いているが、ホトトギスの声が聞こえそうな雰囲気である。

日本の色 

 「みどりの日」にちなんで、メディアのコラムにさまざまな記事が載るのが通例となっている。毎日新聞の「余禄」に、「古事記や万葉の時代は白と黒以外の色を示す言葉は“赤”と“青”しかなかったという」との書き出しで「みどりの日」の随想が書かれていた(5月4日)。まるで古代人は色について関心がなく、色彩の判別に無知であったといわんばかりである。すぐに以下のような手紙を送った: 

 《二〇〇九年五月四日の毎日新聞「余禄」を拝見致しました。みどりの日に寄せて日本の古代の色彩ついての説明が、古代人がいかに色彩に無頓着で無知であったかといったはなはだしい誤解を招くものと思われますので、ご参考までに拙著からの抜粋と前田千寸『日本色彩文化史』からの古代の色名表のコピーをお送りします。 

 われわれの祖先は、現代日本人よりはるかに色彩に鋭敏で、微妙に異なる色彩を識別し、色名をつけていました。だがそれとは別に、古代の宇宙論にもとづいて、四つの色彩カテゴリー(白・黒・アヲ・赤)を立て、世界を解釈していたのです。 

 詳細は拙著『日本人の神話的思考』(講談社現代新書一九七九年)をお読みいただければ幸いです。残念ながら現在絶版ですが、グーグルの絶版本ファイルまたは図書館でご覧いただけると思います。 

 以上、失礼の段お許しください。》 

 前田千寸〔ゆきちか〕の『日本色彩文化史』(1960年)によれば、奈良朝時代約60、平安朝時代約120の色名が挙げられているが、彼自身それはあくまで文献に載っていたものであって、それがすべてではない、と断わっている。 

 この先人の業績は特筆に値するが、前田をはじめ、大野晋、佐竹昭広など日本の色彩について論考を発表している研究者たちがその根底で誤ったのは、この多様な具体的色名(多くは染料や花の色に由来する)と、宇宙論としての抽象的色彩カテゴリーを混同したことにある。 

 たとえばアヲは、紫や青から緑をへて灰色にいたる色名を統括する名詞であった。平安時代の宮中の「白馬の節会」は「あをうまのせちゑ」と訓ずるが、実際には灰色の連銭模様をもつ白馬をめでる儀式である。万葉に「青雲のむかぶす彼方」など「青雲」をうたった歌が多いが、それも「白雲」に対して「灰色の雲」をいう。なぜ「あをうま」や「あをぐも」か。それは「アヲ」というカテゴリーが、日(太陽)や火、血(生命)や雷電などを象徴するカテゴリー「赤」に対して、水を含むすべての色彩を統括するものだからである、灰色の雲は雨雲であり、春である旧正月の節会には、豊饒を約束する「アヲ」の馬が登場しなくてはならない。 

 アヲと赤が水と火という地上の元素の対称(シンメトリー)であるとすれば、白と黒は、「天」と「地」または父なるものと母なるものとの対称をあらわす。天の神々を祀るヤシロを白木で造営し、地の神々を祀るヤシロに黒木(皮つきの木材)の鳥居を構えるのはそのことを表わしている。 

 「世界音楽入門」のレクチャーでは、音や楽器による日本の古代人の宇宙論の一端に触れたが、われわれの祖先は、色彩という記号からもこのような壮大な宇宙論を組みたてていたのだ。