一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【54】

2009-02-05 20:37:15 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【54】
Kitazawa, Masakuni  
 
 白梅は満開、紅梅も五分咲きとなり、むらがるメジロたちの羽根の鴬色が陽光に映える。苔の絨毯の合間に群生するスイセンも咲き、あたりに強い野生の芳香を放っている。今年は、立春の名にふさわしい春のきざしに満ちた日々である。

ダヴォス会議と反ダヴォス会議 

 トーマス・マンの『魔の山』の舞台、結核療養所の建ち並ぶ保養地としてかつて有名であったスイスのダヴォスで、世界経済会議が開かれるようになってから久しい。各国の首脳や経済界のお歴々を招いたこの会議は、グローバリズム推進のサロンの様相を呈していたが、さすが今年は、市場万能の新自由主義の招いた世界経済の危機と混乱を受け、暴走する金融資本主義を政治がいかにコントロールするかが話し合われたようだ。 

 そのなかで目をひいたのが、ガザ侵攻とパレスティナ人大量殺戮を弁護するイスラエルのペレス大統領を激しく非難し、途中退席したトルコのエルドアン首相である。日本の明治維新に相当するケマル・パシャの近代化と政教分離、あるいは国字のローマ字化などに示されるように、ながらく西欧を追いつづけてきたトルコが、国民の多くのイスラーム覚醒とともに選んだイスラームの福祉政党の首相のこの心底からの怒りによって、彼らの文化の基底がアジアであることを世界に表現した。喝采したい。 

 他方、ベネスエラのチャベス大統領やボリビアのモラレス大統領など南米左派のリーダーたちがエクアドルで開催した反ダヴォス会議がある。こちらはわが国のマスメディアの報道がほとんどないので詳細は不明だが、内容は推測できる。ポスト・グローバリズムの構想のためにも、彼らの健闘を称えたい。

リベリアを変革した女たち 

 アメリカ合衆国の解放奴隷たちの定住地として、アメリカの手によってアフリカ最初の独立国として19世紀に誕生したリベリア(英語発音ライベリア)は、今世紀の初めから悲惨な内戦の渦中にあった。当時、キリスト教を信奉する解放奴隷の子孫たちはアメリカとの貿易の富を独占し、その植民地的経済によって貧困に陥った先住民のイスラーム教徒たちを支配する体制を築いていた。またイスラーム教徒のあいだでの部族対立など、複雑な政治状況が、アフリカではもっとも遅い内戦の引き鉄となった。 

 だがテーラー独裁体制に反撃した反政府武装勢力も、たんに権力とそれにともなう富を手中にしたいだけであり、政府軍同様、殺戮・略奪・レイプお構いなしの暴力集団であった。この血にまみれた戦乱のなかで、とにかく内戦を終結させ、新しいリベリアを再建しようと立ちあがったのが、首都モンロヴィア(建国時のアメリカ大統領モンローの名に由来する)の女たちである。 

 キリスト教徒とイスラーム教徒、住民と各地からの避難民など、すべての障壁を超えて数千人の女たちが団結し、政府に対してだけではなく、アメリカ大使館をはじめ国際社会に停戦を働きかけ、ついにはアフリカ連合(AU)を動かして和平会議を開催させるにいたった。ガーナで行われた会議中にも彼女らは、合意が達成されるまで会場を包囲し、各国の首脳や代表団に陳情し、2ヶ月も粘った末についに会議を成功させた(もちろん合意が達成されないかぎり援助を停止するという欧米各国の「外圧」も大きかった)。その結果、AUを主体とする国連平和維持軍の駐留、そのもとでのテーラーの追放、民主的選挙による新大統領(女性が選ばれた)と新政府の樹立という偉業をなしとげたのだ。いまも彼女らは、リベリア社会のよりよい変革のために活動しつづけている。 

 アメリカ・インディアンの社会同様、アフリカは母系制が多く、もともと女たちの強い社会であったが、昼日中から銃声がひびき、着弾による黒煙が上がるさなかでの、文字どおり命を賭けたこの活動は、なみの意志や勇気ではない。そのうえ彼女らは、集会では常に白い衣裳やターバン(白にはもちろん土着の宗教的意味がある)をつけ、プラカードを手にして唄い、踊りつづけ、市民だけではなく、官憲や兵士にいたるまでも宗教的に畏敬の念をあたえたようだ。 

 2月2日NHKBS1の海外ドキュメンタリーの時間に放映された「リベリア内戦を終らせた女たち」(原題はPray the Devil Back to Hellつまり「悪魔を地獄へ返せと祈ろう」)は、きわめて感動的であった

ジネット・ヌヴー賛歌 

 いつもFMで聴いた演奏が不満のとき、同じ曲の手持ちのCDで「口直し」することにしている。シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」、これがいま聴いたのと同じ曲か、と思うほどのちがいであった。演奏者はジネット・ヌヴー、ヴァルター・ジュスキント指揮のフィルハーモニア管絃楽団である。 

 深い森の湖のような静寂のなか、管弦楽のさざなみにこだます清澄な旋律ではじまる冒頭から、低音の弦とティンパニのユニソンが、ひとつの音、ひとつのリズムでとどろき迫るなか、それに抗して低音から高音へと飛翔し、目の醒めるような音の空間を開いてみせるフィナーレにいたるまで、息つく間もないほどの緊張感でわれわれを惹きつけるこのジネット・ヌヴーとはだれなのか。 

 フィナーレの3度の重音による音階という「難所」でさえも、らくらくと越えてすべての音をひびかせるこの技術、この音量をたくみに駆使し、おどろくべき繊細なニュアンスと力強さとを同時に表現するこの魔女は、いったいなんなのか。 

 ラディオでこの演奏を聴いたシベリウスが、「私のこの協奏曲を不滅にしたのは、あなた、ジネット・ヌヴーである」と賞賛の電報を打ったという「伝説」(事実である)も、当然といえよう。はじめての渡米のとき、巨匠ミュンシュとニューヨーク・フィルハーモニーとのブラームスの協奏曲の演奏で、カーネギー・ホールの聴衆を熱狂の渦に巻き込み、次の演奏曲目になかなか進めなかったという伝説も、それに輪をかける、 

 1949年、アゾレス群島の山腹に衝突した乗機と運命をともにし、30歳で夭折したのは、おそらく音楽の女神たちの嫉妬からであるだろう。