一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【55】

2009-02-22 16:02:41 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【55】
Kitazawa, Masakuni  

 今年は春が早い。ウメは白梅・紅梅ともに散り、緋寒桜や河津桜は満開だという。ツツジの根元のヒアシンスがいっせいに背を伸ばし、いまにも濃い紫の花を咲かせそうだ。 

 例年通り厳冬期だけ、朝食のリンゴの芯や皮をヒヨドリたちにだしているが、時間が近づくと、庭椅子やテーブルに乗り、けたたましい声をあげて催促する。ツツジの列のコンクリート囲いの突端に載せてやると、手の届かんばかりのところに飛び移り、精一杯喜びの声をあげ、つつきはじめる。

ダーウィン再考

 今年はダーウィンの生誕二百年・『種の起源』公刊百五十年記念の年というので、ダーウィンを称える行事や本、あるいはメディアの記事が溢れている。 

 創造主が世界を造りだしたとき、人間を筆頭に生物のすべての種が、いまあるがままの形で生みだされた、とするユダヤ・キリスト教的世界観が支配していた19世紀の西欧で、人間を含む地球上のすべての生物は、単一の原初的生物から自然選択によって段階的に「進化」してきた、とする画期的な生物学的世界観を提出したダーウィンの歴史的功績は、ここであらためて称揚するまでもない。 

 この「進化」概念そのものは今日まで、生物学に限らず、自然科学全体の共通の理解となり、前提となっている。だがそれはダーウィンひとりの「発見」ではなく、先駆者であるフランスのラマルク、ダーウィンより若いが、東南アジアのフィールド・ワークから生物が自然環境に適応して「変異」していくことを発見したアルフレッド・ウォレス(狭いロンボク海峡を挟んでバリ島とロンボク島では動物相と植物相がアジア系とオーストラリア系とまったく異なることを発見し、そこから有名な「ウォレス線」を導入した)など、同時代の学者たちの努力に負っている。メディアの扱いとは異なり、ダーウィンひとりがその栄誉を占めることはできない。 

 そのうえ私は、「進化」論(セオリー・オヴ・エヴォリューション)と、世にいう「進化論」(エヴォリューショニズム)とは厳密に区別されるべきだと考えている。なぜなら「進化」論(以下進化理論と呼ぶ)は科学理論であるが、「進化論」は近代の世界観であり、科学イデオロギーだからである。ダーウィン自身それを混同していたといわなくてはならない(「マルクス理論」と「マルクス主義」を混同したマルクスのように)。もちろん科学の知といえどもその時代の認識論の制約のもとにあるが、その概念や構造は継承可能だからである。

イデオロギーとしての進化論 

 事実、『人間の出自』でダーウィンは、西欧の近代が人類の進化の最終段階にあることを示唆し、それを継承したT.H.ハクスリーやハーバート・スペンサーは、人間の社会や文化にも「適者生存」の優劣があるという「社会進化論」を主張し、ついにはそれをメンデル以来の遺伝学に結びつけ、植物の品種改良の概念を人間の生殖にも適用する「優生学」にまで拡大した。優生学はナチスによる悪名高い実践にまでいたり、西欧が進化の頂点にあるとする「哲学」は、テイヤール・ド・シャルダンにまでいたっている。 

 これがイデオロギーとしての進化論であり、人種差別や西欧中心史観の根拠とさえなった。そのうえごく近年、ワトスンとクリックのDNAやRNAの二重螺旋構造の発見にはじまる分子生物学の展開は、遺伝子決定論という新しい装いのもとに、「新ダーウィン主義(ネオダーウィニズム)」を登場させ、経済グローバリズムに呼応する競争社会の生物学的正当性を主張するにいたったことは記憶に新しい。ある種のハエがレイプによって子孫を増やすという観察を根拠に、ヒトの雄のレイプを正当化する社会生物学(ソシオバイオロジー)などが現われたのも、この新ダーウィン主義流行の一端である。

ポスト・ダーウィニズムの登場 

 進化理論同様、分子生物学の基本はすでに自然科学の前提的な認識となり、遺伝子の配列やヒト・ゲノムの解読は、医療の分野にまで大きな影響をあたえているが、遺伝要因と環境との弁証法や、個体内部での心身の弁証法など、生物学的ヒトが「人間」となるメカニズムはほとんど未解明である(たとえば一卵性双生児の遺伝子はまったく同一であるが、成長するにつれ、個性や思考様式はもとより身体的特徴さえ異なってくる)。 

 さらに、近年の微生物学(マイクロバイオロジー)または微生物科学(サイエンス・オヴ・マイクローブ)の展開は、進化理論そのものの修正だけではなく、近代の科学的イデオロギーまたは世界観としての進化論を、根本的に批判する視点さえも開きつつある。 

 すでに19世紀、ロシアの生物学者クロポトキンは、植物の根に寄生する菌糸類が宿主から栄養素をえるだけではなく、宿主にとって困難な化学物質の分解や合成をおこない、宿主の成長を助けていることを発見した。彼は生物と微生物相互のこの「内共生(エンドシンバイオシス)」(外共生〔エグゾシンバイオシス〕つまり蜜蜂と花との関係のようなものに対して)をはじめ、万物の「共生(シンバイオシス)」が自然界の基本的な在り方であるとし、当時流行の適者生存の「社会進化論」を真っ向から批判し、人間の社会も「共生」のネットワークを基礎とすべきであると、無政府主義的ユートピア社会主義を説いた。 

 それから約一世紀後、微生物科学は細胞や分子のレベルにおけるバクテリアやヴィールスの作用や機能を明らかにし、内共生のさらに精密な体系がすべての生物の根底にあることを示すにいたった。

ポスト・ダーウィニズムの哲学 

 新ダーウィン主義の遺伝子決定論では、真核生物(細胞核をもつ生物)の遺伝は細胞核(ニュークレウス)によってのみ行われるとしていたが、最近の微生物学は、それを取り囲む細胞質(サイトプラズム)こそがすべての遺伝の母胎であることを示し、さらにそれが、酸素の貯蔵庫ともいうべきミトコンドリアをはじめ、無数のバクテリアやヴィールスを取りこみ、強力な内共生の体系をつくりあげる舞台であることを明らかにした。人間の健康や正常な生活も、それによって保証されているのだ。 

 たとえば妊娠である。精子を受胎した卵は胚として成長するが、その細胞核には父親の遺伝子が含まれ、母胎にとっては異物である。通常であるなら、母親の身体の免疫機構が働き、異物を排除するが、子宮に宿るHIVレトロヴィールス(酵素を奪う普通のヴィールスに対して酵素を排出するのでこの名がある)が免疫不全を起こし、胚を保護する。いうまでもなくHIVは、免疫不全病エイズのヴィールスと同種のものである。 

 これは一例にすぎないが、こうした共生関係は生物体だけではない。いわゆる有機物と無機物でさえも緊密な共生関係にある。 

 われわれ生物はすべて、太陽の光熱と水によって成長するが、雨(日本の古語では天も雨もアメ〔所有格や形容詞はアマ〕であり、雨は天の水を意味する)を降らせる雲は、水蒸気だけでは形成されない。核となるディメティル硫黄化合物が必要とされるが、海中や水中の微生物や藻類がそれを放出し、水に溶けて水蒸気とともに上昇することがごく近年明かとなった。これも原初的な有機物・無機物の共生である(こうした硫黄サイクルは、炭素サイクルや酸素サイクルより地球にとってはるかに古い)。 

 つまり母なる地球全体が「共生」の産物であり、そのダイナミズムのうえに成り立っているのだ。人間と大自然との関係だけではなく、人間の社会そのものも共生の産物であり、それを生かす体系として造りあげられてきた。ホピやナバホをはじめとするアメリカ・インディアン、あるいはオセアニアやアフリカなどのかつての社会の在り方が、そのことを証明している。 

 経済グローバリズム崩壊後の世界を考えるうえでも、この「共生の哲学」は重要である。  

●この問題を考えるうえで次の書物を参考にした:
Ryan,Frank. 2002.
Darwin’s Blind Spot; Evolution Beyond Natural Selection,
Houghton Mifflin Co.,New York.