一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記⑦

2006-07-09 21:07:33 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記⑦    
Kitazawa, Masakuni


 雨に濡れた緑の樹々が霧にかすみ、かぐろい影となり、深山幽谷のような情緒をかもしている。この季節に七夕を祝うのも奇妙だ。昔の太陽太陰暦では、7月7日は早くても八月中旬、遅ければ九月であり、季語としては秋であった。『万葉集』では当然「秋の歌」となっている。ひとびとは、タナバタの祭りの深みを増した輝くばかりの星空に、秋の到来を感じたものである。革命後の中国でも、伝統行事はすべて旧暦で行われている。明治の暦「改革」で、すべてをグレゴリオ暦(いわゆる西暦)に変えたのは、暴挙としかいいようがない。

七夕コンサート 

 七夕コンサートと題して、ヴァイオリンの戸田弥生、ピアノのヨンヒ・パークによるデュオ・リサイタルが行われた。賢明にもというか、この季節とコンサートの題名にふさわしく、ブラームスの「ヴァイオリンとピアノのソナタ第1番“雨の歌”」が、モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」と並べられていた。

 もっともこのブラームスでは、横浜みなとみらい小ホールはあまりにも残響が大きく、ブラームス特有のあの分厚いピアノの音がひびき過ぎ、少々聴きにくかったが、表現内容には問題はなかった。

 二人とも、すぐれた技倆とみごとな表現力をもった演奏者で、各曲を堪能させてくれたが、とりわけヨンヒ・パークさんのピアノに深い感銘を受けた。 ピアニストにとってはあたりまえの要求なのだが、各時代や各作曲家によって異なる音色や様式を、明晰に弾きわけることを実現できている演奏者はごく稀である。ところが彼女は、ごく自然にそれを実現している。驚きといってよい。

 たとえばモーツァルトである。いわゆるピリオド(時代)楽器による演奏は、ほとんど歴史的再現の意味しかもたないような演奏が多く、私は好きではないが、もしモーツァルトが理想的なフォルテピアノの音を念頭において「キラキラ星」を書いたとすればこの音ではなかったか、という音色を、彼女は現代ピアノから引き出していた。

 また二人によるラヴェルの「ヴァイオリンとピアノのためのツィガーヌ」は迫力のある演奏であったが、パークさんのピアノは、まさにわれわれの期待している(ドビュッシーとはまったく異なる)明晰なラヴェルの音そのものであった。

 だがわが国では、こうした真に実力のある演奏家がひろく世に知られていないのはなぜだろう。演奏会やFMラディオなどでも、幅を利かせているのは、それほどすぐれているとも思えない外国人(とりわけ白人)演奏家である。もっとも音楽界に限らず芸術全体や知の世界でも、皮相な流行やいわゆる名声のみを追うマスメディアが、わが国の文化を荒廃させているのが現状なのだ。

戦後リベラリズムおよび戦後民主主義の終焉 

 ニューヨークタイムズに、チョムスキーの新著『挫折した国家(ステーツ);権力の乱用と民主主義への襲撃』の書評が掲載された。

 いうまでもなくチョムスキーは、個々の母語習得以前に言語能力は脳に構造化されていて、語ったり書いたりする文は、その構造の無限の変換(数学的意味で)であるという画期的な言語理論を提唱した言語学者である。私もその理論の恩恵を受けたひとりとして学恩を感じている。

 1971年5月にボストンで彼に会う約束を取りつけていたが、急に起こった「ペンタゴン・ペーパー事件」(国防総省のヴェトナム戦争にかかわる秘密文書の漏洩事件)で彼はワシントンに飛び、代わりの学者を紹介してくれたという思い出がある。

 それはともかく、60年代の終わりから、彼は「知識人の責任」から、アメリカの世界政策を批判する鋭い論考や提言を書きつづけてきた。今回の新著もその延長上にあるが、「ならずもの国家」アメリカに対して依然としてきびしい批判を投げつけているようである。

 彼の論点は60年代から変わらず、自由と民主主義によって世界の未来を照明するアメリカというイメージに相反して、合衆国は各国の内戦に暴力的に介入し、民衆の真の自由や民主主義への欲求を破壊してきた、というものである。だが書評者のいうとおり、あいかわらず批判は鋭く告発的であり、またそれは正当であるが、では世界の未来のためにアメリカはどのような方向に進路を転換すべきか、また世界の未来像はどうあるべきか、という代替案やヴィジョンは示していないようだ。

 つまり彼は、60年代以来の左翼的リベラリズムあるいはラディカル・リベラリズムの立場を護っていて、アメリカが真の自由と民主主義の原理に回帰し、政策や政治行動をそれと一致させることが問題の解決になると考えている。

 この書評に掲載されていた彼の近影が、奇妙なほど丸山真男に似ているのが気にかかった。つまり、アメリカの戦後リベラリズムを代表する知識人と、日本の戦後民主主義を代表する知識人との容貌の類似は、この二つの思想またはイデオロギーの共通性とともに、その共通の限界を物語っているように思われたからである。

 60年代の全共闘は戦後民主主義を「虚妄」と批判し、丸山はそれに応えて「戦後民主主義の虚妄に賭ける」と有名な言説を吐いたが、私はそれを「虚妄」とは考えていない。わが国でもアメリカでも、それらは歴史的役割をはたしてきたのであり、その意味で虚妄どころか政治的・思想的実体であった。だが全共闘による戦後民主主義批判の意味は失われてはいない。

 なぜなら、すでに18世紀のルソーの批判があったが、概念および制度としての近代の自由と民主主義そのものが問題だからである。むしろいまグローバリズムとして支配権をふるっている新保守主義と新自由主義こそが、ある意味でこれらの概念やイデオロギーのラディカルな徹底だからである。

 近代そのものを批判的に克服し、脱近代の立場に立たない限り、グローバリズムやそれを推進するネオコンズあるいはネオリベラルズを根本から批判することはできない。 詳細については、拙著『脱近代へ;知、社会、文明』(2003年 藤原書店)をお読みいただければ幸いである。