一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【108】

2011-08-08 09:56:12 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【108】
Kitazawa, Masakuni  

 暑さが復活したが、こちらは安定した28度前後がつづく。梅雨の再来のような天候のあいだ、鳥たちのさえずりは少なかったが、今日は盛大にウグイスたちが鳴き競っている。わが家にはないが、サルスベリの淡紅色や夾竹桃の赤い花々が咲きそろい、道行くひとびとを楽しませている。テッポウユリの花芽が大きく膨らんでいる。

「バガヴァッド・ギーター」の英訳を読む 

 杉山直子さんから送っていただいた「バガヴァッド・ギーター」の何冊かの英訳本を読み比べはじめた。ひとつはもっとも権威ある訳とされるA.B.van Buitenenのもの(1981)で、「バガヴァッド・ギーターの書(パルヴァン)」とギーター本文全体の訳であり、サンスクリット原文と対照させてある。ひとつはBarbara Stoler Millerのもの(1986)で、自由な英語韻文で訳している。おそらく、厳密さや正確さではビュイテネン訳がまさるかもしれないが、詩的な点ではストーラー・ミラー訳が魅力的である。 

 これらの解説やあとがきを読んでいて、西欧におけるヒンドゥー哲学や思想の影響がいかに長く、かつ深いものであるかを再度痛感することになった。 

 再度というのは、青木やよひのベートーヴェン研究の手伝いで、19世紀初頭のドイツにおけるヒンドゥー哲学や思想の浸透度を調べたことがあるが、ゲーテやベートーヴェンという傑出した知識人だけではなく、シュレーゲルやフンボルトやショーペンハウアー、あるいは彼らを通じた二次的影響が、ひろくロマン主義の時代を蔽っていたことに感銘したからである。 

 英語圏では18世紀末からであり、「ギーター」の訳もすでに1785年に出版されている(Charles Wilkins訳)。アメリカでは19世紀の半ば、エマースンやソローなど超越主義者(トランセンデンタリスト)とよばれる一群の哲学者や思想家などが、これらヒンドゥー思想や哲学の決定的な影響を受け、自然そのものや内なる自然である人間の身体性を思考の根底に据えることによってのみ、近代キリスト教を含む西欧合理主義の狭い限界を超えることができるとした。 

 つまりドイツでもアメリカでもそれらは、哲学的合理主義や、産業革命によって台頭した経済的合理主義という人間存在の基盤を無視した──それが一方では実存主義的な非合理主義を生みだすことになるが──価値と思考体系の専制に対する反逆であったのだ。 

 1960年代末、アメリカにおいてヒッピーやステューデント・パワーとして爆発した「文化革命」が超越主義を再興させ、さらにその根源であるヒンドゥーに向かったのは当然である。

 それにくらべわが国ではどうか? いうまでもなく、仏教や仏教哲学を通じたインド研究は、わが国の長く深い伝統であった。だが明治の「開国」後、「富国強兵」としての経済的・軍事的合理主義の受容と、福沢諭吉を代表とする「近代化」あるいはその意味での「文明化」の積極的な受容によって、東洋思想や哲学は主流の地位から追いやられ、アカデミーの片隅に「文化財保護」としてほそぼそと継続するほかはなかった。「ギーター」も、《印度哲学》の専門の研究に限定され、一般の知識人にとっては疎遠な東洋の古典でしかなかった。

 だがいまほど「ギーター」が必要とされる時代はない。なぜなら、未曽有の危機のなかで、この苦境を解脱できる最高の知は、この苦境と取り組む意識的な行為(カルマ)を通じてしかえられないとする「ギーター」の説く真理は、生活のあり方を含めた自己の身体性と正面から取り組むことで思考体系を変え、それによってはじめて世界や文明の変革を手にすることができることを教えているからである。

時間とは死である 

 「ギーター」を読んでいて、深く教えられたことがある。それはサンスクリット語を含むインド・ヨーロッパ語では、《時間》という語は同時に《死》を意味することである。 

 1945年、トリニティ・サイトでの世界ではじめての原爆実験に立ち会ったオッペンハイマーが、爆発の瞬間に思いだしたとする「ギーター」の一節(おそらくPrabhavanandaC.Isherwoodの訳[1944]): 

I am become Death and the shatterer of worlds.  
「われ世界を滅亡に導く大いなる死なり、諸世界を打ち砕くためにここに来たれり」
(岩波文庫版[上村勝彦訳]と諸英訳を参考にした北沢試訳)

 では、死と訳した原語「カーラ」は、時間と同時に死や運命を意味する。多くの訳は「時間」と訳しているが、英語のTimeもドイツ語のZeitにも「死」という裏の意味がある(ハイデッガーの『存在と時間』は『存在と死』とも訳せるのだ! むしろこの方がハイデッガー哲学にふさわしい)。だが日本語にもロマンス語系言語にも「死」のコノテーションはない。私はこの場合日本語では「死」と訳すほかはないと考えた。

注■インドは地名であるが、文化や思想は地名を超えた地域に広がっているのでヒンドゥーという名称をとるのが最近一般的である。