マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

悟性、der Verstand

2011年01月06日 | カ行
 ドイツ語のVerstandの訳語として生まれた物であろう。しかし、これをどう訳すかは、この語を使っている人がどういう認識論を持っているかによって変わってくる。そこでそれを考えるために、人間の認識能力を分析してみる。

 人間の(広義の)認識能力を感覚と思考(一般)とに大別し、後者を更に低い(有限な)思考と高い(無限な)思考とに分け、更に又、この高い思考を、低い思考の限界(内在矛盾)を指摘するもの(否定的理性、弁証法的思考)と自分のものを全面的・立体的・自覚的に展開する思考(肯定的理性・思弁的思考)とに分けると、次の表が得られる。

  まず、感覚と思考一般(知性)に分ける。
  次いで、思考一般(知性)を低い思考(悟性)と高い思考(理性)に分ける。
  3番目に、高い思考(理性)を否定的理性(弁証法的)と肯定的理性(思弁的)に分ける。

 さて、Verstandという語はこの思考一般の意味で使われる時は「悟性」と訳してもよい(こういう事が分かっているなら)が、なるべく「知性」と訳すべきである。ロックの「人間知性論」の「知性」はこの「思考一般」の意味である。

 Vernunftは「理性」としか訳さないが、その意味はこの思考一般を指す場合と高い思考を指す場合とがある。「人間は理性的な動物である」という場合は前者である。この定義は「人間は思考能力を持った動物である」という意味である。

 ほとんどいつも「知性」と訳されるのはIntelligenzだが、この「知性」は、ここで言う思考一般の場合と「超感覚的(感覚を源泉としない)思考」という意味の場合とがある。

 カント以前は思考一般を悟性と理性に分ける考え方がなかったから、注意の必要なのは Intelligenzだけだったが、カント以降現代ではVerstandが問題である。

 弁証法と訳されるDialektikは、有限な思考によって固定したものと考えられている事物の中にある自己矛盾と、そこから生まれる自己運動のこと(客観的な意味での弁証法)を指す場合と、対象のそういう面を見抜いていく思考能力(主観的な意味での弁証法)を指す場合とがある。

 こういう主観的弁証法は、固定していると見られたものの否定へと結びつくので「否定的理性」とも言われる。この弁証法が単に否定的な結論で終わると懐疑論になるが、この否定の生む肯定的結論を見渡せる立場に立つと、これを肯定的理性と言う。ヘーゲルはこれを「思弁的思考」と呼んで最高位に置いている。

 以上のように、ヘーゲルの言う「思弁的」とは、一部の自称マルクス主義者が研究もしないで勝手に決めつけているような「観念論的」という意味ではない。

 その第1の特徴は、世界全体を包括的に捉える理念の立場とその能力であり、しかも否定的理性(弁証法)を止揚して内に含むものとして、その全体性は悟性の外的形式的全体性とは異なる内在的全体性である。

 第2に、その内在性はまた事物を発展的に捉える動的なものである。そこで「発展的に見る」とは単に「事物は発展するものだ」ということを知っているだけの低いものではなく、発展の「論理」を自覚し、その発展の全行程の結節点を人間の発生と人間の自覚(人間であることの自覚)に見ることである。

 以上のように、ヘーゲルの「思弁的」は本来は必ずしも観念論とは結びつかず、十分に唯物論的でありうるものだったが、ヘーゲルにおいてはそれが観念論と結びついたことも事実である。

 なお、ヘーゲルの論理の最高点が思弁的思考であるから、ヘーゲルは自分の哲学を「思弁哲学」と呼んでいるが、実際には弁証法という言葉に力点が置かれ、一般にも「ヘーゲル弁証法」と言われる。悟性的思考と思弁的思考とを結び付ける弁証法的思考を根本的に改作することで、以前からあったこれらの考え方と用語を変革したからである。これら全体における弁証法の意義が決定的に高いからである。(関口ドイツ語学の研究257頁以下)

          関連項目

悟性的認識論と理性的認識論

悟性推理

  参考

 01、悟性は思考一般であり、純粋な自我一般である。そして、悟性的なものとは既に知られたものであり、科学と非科学的意識とに共通のものであり、そこを通って非科学的意識は直ちに科学に入りこむことが出来る。(精神現象学17頁)

 02、形式的な悟性は事柄の内在的な内容に入りこむことなくつねに全体を見ている。個別的定存在について語っていながらその上に立っている。即ち、悟性は個別的定存在を少しも見ていない。(精神現象学45頁)

 03、具体物を抽象的な規定へと分解し、区別の深みを捉えるのは悟性の無限の力である。この深みこそその抽象的規定の移行を生じさせる力である。直感の持つ具体物は全体性ではあるが、感性的な全体性でしかない。それは時空間の中で相互に外在的に並存する実在的素材でしかない。(大論理学2、250-1頁)

 04、悟性は規定された概念の能力とされている。その概念は抽象〔一面化〕と普遍性の形式によってそれとして固定される。それに対して理性はその規定された概念を全体性と統一の中で定立する。(大論理学2、308頁)

 05、悟性の欠陥は、一面的な規定を唯一の最高の規定に高めてしまうことである。(法の哲学5節への付録)

 06、悟性の本質は概念規定をその抽象の中でしか捉えず、規定を一面性と有限性の中でしか捉えないことである。(小論理学第1版への序文)

 07、その際の表象には〔高低〕二つの場合があり、低いものは「法は法である」、「神は神である」という〔無意味な同語反復〕にとどまるが、高いものは、「神は世界の創造主である」とか「神は全知である」とか「神は全能である」といったように、いろいろな規定を〔述語として〕挙示したりする。しかし、この場合でも、個別化された単純な規定がいくつか並べられているという点では低いものの場合と同じで、それらの規定は同一の主語の述語とされているのだから相互に結びつきがあるのだが、それにもかかわらず相互外在的に〔無関係に〕とどまっているのである。この点で表象は悟性と一致する。悟性が表象と異なるのは、ただ、悟性は、表象がその無規定の空間内で単なる「もまた」によって結びつけるだけで並存させ孤立させている諸規定の内に、普遍と特殊とか原因と結果といった関係をつけ、それによって必然的な関連を与えるという点にすぎないのである。(小論理学20節への注釈)

 08、単に有限であるにすぎない規定しか産み出さず、有限な規定の中で動いているにすぎない思考を、(語の正確な意味で)悟性という。(小論理学25節)

 09、たしかに有限な事物については、それは有限な述語で規定しなければならないというのはその通りでして、悟性はここにその正当な活動分野を持っています。それ自身も有限者である悟性は、また有限者の本性しか認識しません。例えばある行為を捉えて、「それは盗みである」と言う場合、それによってこの行為の本質的内容が規定されるわけです。そして裁判官にとってはこういう認識で十分なのです。同様に、有限な事物があるいは「原因」と「結果」として、あるいは「カ」と「外化」として捉えられる時、それによってそれらはそのようなものとして関係しあうことになりますが、その時それらはその有限な面から認識されるので〔あり、日常生活ではそれでよいので〕す。しかし、理性的な対象はそのような有限な述語〔を外から付加するという方法〕によっては規定しえないものです。〔それなのに〕これをしようとがんばった所が昔の形而上学の欠点なのでした。(小論理学28節への付録)

 10、悟性、論理的なものの第1の形式(小論理学80節への付録)

 感想・第2の形式は「弁証法」(否定的に理性的なもの)であり、第3の形式は「思弁」(肯定的に理性的なもの)です。

 11、小論理学の第80節及びそれへの付録は悟性論として好くまとまっています。全文引くのは長すぎますので、核心的なことを箇条書きにします。

 ①悟性の働きは一般に、その内容に普遍の形式を付与することである。その普遍は悟性的普遍だから、特殊に対立しており、従ってそれ自身特殊である。
 ②悟性は対象に対して、分離し、捨象するように振舞う。具体物を〔そのまま〕取り扱う直感や感覚とは正反対である。
 ③その原理は同一性、単純な自己関係である。それは或る規定から他の規定への進行を引き起こす同一性である。
 ④悟性を客観世界に探すと、それは神の仁慈である。有限物が存在し、自分の存在に必要なものを得ているのは神の仁慈である。

 12、悟性の頑なさは、有限なものを自己同一のもの、自己内で無矛盾のものとして捉える。(小論理学113節への注釈)

 13、一般に、反省的表象が現出存在している世界を無数の現出存在者の集まりという形で捉える時、それはこのような姿で現われるものでして、現出存在者は自己内に反省すると同時に他者内にも反省しているので、互いに根拠でもあれば根拠づけられたものでもあるという相互関係で現われるのです。このような現出存在者の総和である多彩な世界の中には、一見した所ではどこにもしっかりした支点がなく、どれもこれも相対的なもので、他者に条件づけられると同時に他者を条件づけてもいるものに見えます。そこで反省的悟性はこの全面的な〔相互依存〕関係を調べ追求していこうと考えることになるので〔あり、それはそれで思考の一段階として必要なことで〕すが、そのような思考では世界の究極目的は何かという問いには答えられないのです。そこで、概念的理性の要求は論理学の理念の一層の歩みと共にこの単なる相対性〔根拠と現出存在〕の立場を越えて進むことになるのです。(小論理学123節への付録)

 14、特殊を除去して共通のものを取り出すというのが悟性が概念を捉えるやり方です。
(小論理学163節への付録)
 cf. 悟性として働く理性(小論理学226節)

 15、悟性は本質的なものと非本質的なものとを、自分が歴史考察で追求している目的を基準にして規定〔区別〕する。(歴史における理性33頁)

 16、自己内に具体的で豊かな内容を持つ対象を1つの単純な表象(大地、人間、アレクサンダー、シーザー等)にして、1語で特徴づけ、そのような表象へと解消し、そこに含まれている諸規定をその表象の中で孤立させ、そしてそれらの規定に特殊な名称を与えるのは思考の行為であり、しかも悟性の行為である。(歴史における理性172-3頁)

 17、悟性は宗教の真理を捉えない。〔だから〕悟性が自己を理性と称し(啓蒙として)、〔世界の〕主人であり親方であると自認した時には、それは過ちを犯したのであった。(ヘーゲル「ズ全集」18巻113頁)

 18、過去の事なら人々は何でも是認し、起きてしまった変化の必然性は承認するが、現在の場合への〔そういう考え方の〕適用となると、いつでも極力反抗する。そして、それはその規則の例外だと思うのである。(フォイエルバッハ「根本命題」16節)

 感想・こういう箴言的な言葉にフォイエルバッハの真骨頂があります。

 19、悟性とは、主観性と個別化の中に固定された理性のことである。(マルエン全集1巻436頁)

 20、悟性の全ての活動、即ち帰納と演繹、かくして又、抽象(リドの類概念、四足動物と二足動物)と未知の対象の分析(クルミを砕くことは既に分析の」始まりである)、そして総合(動物の狡賢いやり方)、および分析と総合を合わせたものである実験(新しい障害物や慣れない状況に出くわした時)、これらは人間と動物とが共有しているものである。(マルエン全集20巻491頁)

 21、全体を諸々の側面ないし要素にまで分析すること、分割すること、及び一つ一つの側面を固定させることが Verstand の特徴である。固定させることからすると、Verstand は verständigen 或いは zum Stehen bringen という意味をもたせて用いられている。この点はフィヒテの知識学を参照すべきである。(金子訳「精神現象学」464 頁)