参考
01、形式的思考──非現実的な観念の中をあちこち理屈をこねる。質料的思考──素材の中に入り込み、表象の中で動く。(精神現象学48頁)
02、外的反省の諸根拠からの理屈づけ(大論理学第1巻6頁)
03、始原論は始原についての理屈づけであって、始原を持って来るためではなく、全ての暫定的なものを取り除くために述べた。(大論理学第1巻64頁)
04、詭弁とは、人が無批判に無思慮に妥当させている「根拠なき前提からの理屈づけ」である。(大論理学第1巻92頁)
05、根拠を探し指摘するのは悟性推理の本質であるが、それはそれ故に、終わりの無い徒労で、いかなる終局的な規定をも含まない。ソクラテスとプラトンが「詭弁」(ソフィステライ)と呼んだのはこのような根拠を挙げてする悟性推理のことである。(大論理学第2巻88頁)
感想・小論理学の121節への付録にも詳細な説明がある。
06、räsonierenden, dogmatischen Reflexion (大論理学第2巻169頁)
07、理屈づけ、即ち反省的悟性的考察(法の哲学279節への注釈)
08、理屈づけは諸根拠のまわりをあちこち動き回る。(法の哲学326節への注釈)
09、通常の理屈づけは主としてこの反省の判断の中で起きることである。(小論理学174節への付録)
10、一般に小ソクラテス派の諸家では実践が主となり、彼らがソクラテスの実践精神に結びつけたエレア的ないしソフィスト的議論は、既にソクラテス自らにも著しかった破邪的論法を拍車として、一般に学的理論を軽視し真理認識の可能性を疑いあるいは否定する傾向を取り、彼らの主眼とした実践倫理に対しては、これを積極的に根拠づける理論というよりは、却ってその実践から理論(即ち理屈)を捨て去らせるための論議となり、理屈ぬきの実践への奨励手段となり果てた。
ソクラテスが新たに提出した魂やその徳の「何であるか」は彼らによっては答えられず、却って一般にものの「何であるか」を知ること(客観的・普遍的真理の認識)は不可能ないし無用とされて、そのために彼らの説き勧める実践道自身が他者を説得するに足る客観性と普遍性とを失い、遂に後には個人個人の悟りの術たるにさえ耐えなくなる。
この場合、彼等に対して、その詭弁的・懐疑的な傾向と戦いつつ、魂の何であるかを新たに探求しその個人倫理を超越して、社会哲学を建設しようと企図したのはプラトン及びアリストテレスである。
ついでながら、「詭弁家」という悪い意味で「ソフィスト」と呼ばれる者は、実は、主として彼等小ソクラテス派の連中であり、この悪い意味は、プラトン及びアリストテレスがこの連中の反理論的・認識否定的な態度や議論を非難し、論駁するに当たって、彼らを「ソフィスト」の名を以て呼んだのに起因する。(出隆「古代・中世哲学史」角川全書142-3頁)
感想
マルクス主義の運動におけるいわゆる「チンピラ左翼」あるいは「青二才左翼」はこの小ソクラテス派にそっくりですね。歴史は繰り返す。
01、形式的思考──非現実的な観念の中をあちこち理屈をこねる。質料的思考──素材の中に入り込み、表象の中で動く。(精神現象学48頁)
02、外的反省の諸根拠からの理屈づけ(大論理学第1巻6頁)
03、始原論は始原についての理屈づけであって、始原を持って来るためではなく、全ての暫定的なものを取り除くために述べた。(大論理学第1巻64頁)
04、詭弁とは、人が無批判に無思慮に妥当させている「根拠なき前提からの理屈づけ」である。(大論理学第1巻92頁)
05、根拠を探し指摘するのは悟性推理の本質であるが、それはそれ故に、終わりの無い徒労で、いかなる終局的な規定をも含まない。ソクラテスとプラトンが「詭弁」(ソフィステライ)と呼んだのはこのような根拠を挙げてする悟性推理のことである。(大論理学第2巻88頁)
感想・小論理学の121節への付録にも詳細な説明がある。
06、räsonierenden, dogmatischen Reflexion (大論理学第2巻169頁)
07、理屈づけ、即ち反省的悟性的考察(法の哲学279節への注釈)
08、理屈づけは諸根拠のまわりをあちこち動き回る。(法の哲学326節への注釈)
09、通常の理屈づけは主としてこの反省の判断の中で起きることである。(小論理学174節への付録)
10、一般に小ソクラテス派の諸家では実践が主となり、彼らがソクラテスの実践精神に結びつけたエレア的ないしソフィスト的議論は、既にソクラテス自らにも著しかった破邪的論法を拍車として、一般に学的理論を軽視し真理認識の可能性を疑いあるいは否定する傾向を取り、彼らの主眼とした実践倫理に対しては、これを積極的に根拠づける理論というよりは、却ってその実践から理論(即ち理屈)を捨て去らせるための論議となり、理屈ぬきの実践への奨励手段となり果てた。
ソクラテスが新たに提出した魂やその徳の「何であるか」は彼らによっては答えられず、却って一般にものの「何であるか」を知ること(客観的・普遍的真理の認識)は不可能ないし無用とされて、そのために彼らの説き勧める実践道自身が他者を説得するに足る客観性と普遍性とを失い、遂に後には個人個人の悟りの術たるにさえ耐えなくなる。
この場合、彼等に対して、その詭弁的・懐疑的な傾向と戦いつつ、魂の何であるかを新たに探求しその個人倫理を超越して、社会哲学を建設しようと企図したのはプラトン及びアリストテレスである。
ついでながら、「詭弁家」という悪い意味で「ソフィスト」と呼ばれる者は、実は、主として彼等小ソクラテス派の連中であり、この悪い意味は、プラトン及びアリストテレスがこの連中の反理論的・認識否定的な態度や議論を非難し、論駁するに当たって、彼らを「ソフィスト」の名を以て呼んだのに起因する。(出隆「古代・中世哲学史」角川全書142-3頁)
感想
マルクス主義の運動におけるいわゆる「チンピラ左翼」あるいは「青二才左翼」はこの小ソクラテス派にそっくりですね。歴史は繰り返す。