参考
01、エリスというのは、嫉妬の女神であるが、嫉みによって、相手を実際にであれ、価値のつけかたを変えることによってであれ、引きずりおろすか、あるいは相手並に自分も強くなろうと努力して、やがては正々堂々と勝負しようとするかのどちらかとして現われる。つまり、相手の弱体化を狙うたんなる嫉妬か、自己の向上をめざす競争心かで悪いエリスと良いエリスとの差があるわけである。
後者はニーチェがギリシア人に見たアゴーンという名の闘争精神であり、またブルクハルト描くところのルネサンスの人間の徳でもあって、「力への意志」が自然なかたちで発揮された場合である。それに対して前者は、ソクラテスとキリストの、プラトン主義者とキリスト教徒の生態である。
「自分より卓越した相手に対するただひとつの救いの道、それは愛であるという考えに魅せられているのは、嫉妬深いが向上に努めている人のしるしであることに注意せよ」(『さまざまな意見と箴言』351番)(三島憲一「ニーチェ」岩波新書146頁)
01、エリスというのは、嫉妬の女神であるが、嫉みによって、相手を実際にであれ、価値のつけかたを変えることによってであれ、引きずりおろすか、あるいは相手並に自分も強くなろうと努力して、やがては正々堂々と勝負しようとするかのどちらかとして現われる。つまり、相手の弱体化を狙うたんなる嫉妬か、自己の向上をめざす競争心かで悪いエリスと良いエリスとの差があるわけである。
後者はニーチェがギリシア人に見たアゴーンという名の闘争精神であり、またブルクハルト描くところのルネサンスの人間の徳でもあって、「力への意志」が自然なかたちで発揮された場合である。それに対して前者は、ソクラテスとキリストの、プラトン主義者とキリスト教徒の生態である。
「自分より卓越した相手に対するただひとつの救いの道、それは愛であるという考えに魅せられているのは、嫉妬深いが向上に努めている人のしるしであることに注意せよ」(『さまざまな意見と箴言』351番)(三島憲一「ニーチェ」岩波新書146頁)