数々の演劇賞を受賞した永井愛さん作・演出の喜劇「歌わせたい男たち」(2005年初演)は、卒業式の日を迎えた都立高校が舞台だ。
教育委員会の指示通りに式を進めようと必死の校長。君が代斉唱の時、起立しないと決めている教師。そんな葛藤があることを知らぬまま、ピアノ伴奏を命じられた音楽講師……。
根はいい人ばかりなのに、みな消耗し、傷つき、追いつめられていく。
芝居の素材になった都立高校で働く教職員ら約400人が、君が代の際に起立斉唱したり伴奏したりする義務がないことの確認や慰謝料を求めた裁判で、東京高裁は請求をすべて退ける判決を言い渡した。「起立や伴奏を強制する都の指導は、思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」とした一審判決は取り消された。
極めて残念な判断だ。ピアノ伴奏を命じることの当否が争われた別の訴訟で、最高裁は2007年に合憲判決を言い渡している。高裁はこの判例をなぞり、斉唱や伴奏を命じたからといって個々の教職員の歴史観や世界観まで否定することにはならない、だから憲法に違反しないと結論づけた。
判決理由からは、国民一人ひとりが大切にする価値や譲れぬ一線をいかに守り、なるべく許容していくかという問題意識を見いだすことはできない。
「誰もがやっているのだから」「公務員なのだから」と理屈を並べ、忍従をただ説いているように読める。
それでいいのだろうか。
私たちは、式典で国旗を掲げ、国歌を歌うことに反対するものではない。ただ、処分を科してまでそれを強いるのは行き過ぎだと主張してきた。
最後は数の力で決まる立法や行政と異なり、少数者の人権を保護することにこそ民主社会における司法の最も重要な役割がある。最高裁、高裁とも、その使命を放棄し、存在意義を自らおとしめていると言うほかない。
近年、この問題で都の処分を受ける教職員は減っている。違反すると、罰は戒告、減給、停職と回を追って重くなるうえ、定年後の再雇用が一切認められなくなるからだ。そんな脅しと損得勘定の上に粛々と行われる式典とは何なのか。いま一度、立ち止まって考える必要があるように思う。
国旗・国歌法が制定された1999年、当時の有馬朗人(あきと)文相は国会で「教員の職務上の責務について変更を加えるものではない」と言明し、小渕恵三首相も「国民の生活に何らの影響や変化が生ずることとはならない」と述べた。
ところが現在、教職員ばかりか、生徒や保護者、来賓の態度をチェックする動きが各地で報告されている。
今回の高裁判決が、こうした息苦しさを助長することのないよう、社会全体で目を凝らしていきたい。
(朝日社説、2011年01月29日)
感想
国会での政府答弁は法律の条文と同じ意味を持つものではないのでしょうか。それにしても日教組が組織としてこれに取り組まなくなった(取り組めなくなった)のは本当に情けないと思います。