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オランダ(働き方)

2011年01月21日 | ア行
    その1

 働き過ぎニッポン。労働時間を短くすると「キリギリス」になるとの主張まである。かたや、労働時間は世界最短国のひとつなのに、会社も働く人も家庭も丸く収まっているという国がある。それがオランダ。実際に見た「キリギリスの国」の人々は、よりよい働き方を求めて工夫や挑戦を続けていた。

 「隔週の火曜日は、この子の日なんだ」

 首都・アムステルダムのウオーターフロント。大きな窓から真っ青な湾を一望するマンションで、2歳になる長女ルイーザちゃんをいとおしそうに抱き上げ、ほおずりしたのは、父親のローランド・ファン・デル・ウィーレさんだ。

 ウィーレさんはオランダの新聞社で経済面のレイアウトを担当する記者。ルイーザちゃんのため会社と交渉し、労働時闇を「90%」にして働いている。フルタイムの週40時間よりも10%少ない働き方で、隔週で1日ずつ休める計算だ。そのかわり、給料もきっかり1割落ちる。

 フリー記者の妻(43)と分担し、保育所のない週2日、どちらかが家で娘と過ごす。同僚も16人のうち6人が「時短」組。シフトを組んで交代で働くので仕事に支障はない。

 労働時間を「50%」にしているのは、警備会社に勤め、オランダの玄関口、スキポール空港のテロ対策を担当するベルト・ファン・ダ・リンゲンさん(46)。妻は「75%」で働き、リンゲンさんのほうが家事を多く分担している。

 オランダでは、彼らのように「%」で働くのがごく一般的。給与明細を見せてもらうと、その人ごとの「%」の記入欄がある。

 オランダは、九州ほどの面積の小さな国。なぜこんな働き方が発達したのか。発端はわずか30年前だ。1980年代の不況期に、政労使で「労働者は賃金抑制に応じ、企業は時短を進め、政府は減税する」ことで合意した。よく知られた「ワッセナ一合意」だ。

 これにより雇用を分け合うワークシェアリングが進み、パート雇用が急拡大、経済も回復した。働く女性の割合が倍増し、失業率は欧州で最低レベルに改善。経済協力開発機構(OECD)のまとめでは、2005年のパート比率は35.7%と、ダントツ世界一だ。

 だが、短時間労働が一般化した本当の理由は、フルタイマーとの格差がないこと。日本のパートは立場が不安定で低賃金の代名詞だが、オランダ型は、賃金や休暇、年金などの権利が働く時間に比例するだけだ。

 1990年代には法律でパート差別を禁止。さらに、2000年には労働時間の変更を会社に求める権利を労働者に認め、会社は原則として断れない。最新の実態調査では、2割以上の労働者が時間変更を申し出たことがある。フルタイムかパートかではなく、「ライフサイクルにあわせてパートとフルとを行ったり来たりするモデル」(社会雇用者の担当者)だ。

 2005年のOECDのまとめでは、オランダの労働者1人あたりの年間総労働時間は1367時間で、日本に比べて400時間も短い。2004年の政府統計によると、残業は1人平均で1週間に40分ほどだ。

 労働者はそれでハッピーだろうが、会社経営に支障はないのだろうか。日本では、残業時間を半減するという政府目標案を、属身財務相がアリとキリギリスの寓話になぞらえて「日本をキリギリスの国にしてしまう」と批判した。

 そんな疑問を、金融大手INGの役員を務めていたアレクサンダー・R・カン氏にぶつけてみた。「大事なのは生産性で、労働時間の長さは問題ではありません。オランダ人の1時間あたりの生産性は欧州連合(EU)のトップクラス。企業からみても短く働きたい人の能力を活用できる利点が大きい」。カン氏は現在、オランダでの働き方の大枠を決める政労使の協議機関、社会経済評議会(SER)の議長。長く働くことに価値を置く発想自体が理解できない様子だ。

 生産性が高いのは、交易の要衝でサービス産業中心という産業構造や、国民の8割近くが英語を話す高い語学力があるが、働き方の違いも大きい。「働き過ぎはバーンアウト(燃え尽き症候群)につながる」と誰もが口をそろえる。

 IT技術者の男性(31)は「集中して仕事をするのは1日8、9時間が限度」と話す。それぞれの仕事にかかる時間や進行状況を上司とチェックし、勤務中に新聞を読んだり、昼食や会議に長持聞かけたりはしないと胸を張る。

 ただ、いくら生産性が高いといっても、仕事量の少なさは消費者へのサービスの少なさにつながっているようにも思える。

 「私はこれから休憩ですから」。スキポール空港で帰国便を変更しようと窓口に行くと、女性係員はそういって目の前で窓口を閉め、さっさと行ってしまった。スーパーは夜間や日曜に閉まり、新聞も週1回は休む。

 「人員不足で火災現場への到着が遅れる?」。3月末の新聞には、こんな見出しが載った。アムステルダムの消防署で労働時間を減らす労使協定が結ばれた結果、火災現場への到着が遅れたり、消防署を閉鎖したりする地域が出るというのだ。住民にはかわりに火災報知機を配るという。

 水島治郎・千葉大法経学部准教授は「労働者の権利を顧客サービスより優先する考え方が徹底している。当然それに伴う不便は甘受する社会」と指摘する。

 オランダ在住15年になるファン・リット・のり子さん(43)は最近、逆に日本のサービスの「過剰さ」が目につくようになったという。

 「24時間営業や宅配便の細かな時間指定など本当に必要なのか。だんだんオランダ人化しているのかもしれませんが、1時間長く働いて便利になるより、1時間分自分の生活に使えることの方が『豊かだ』と感じるようになってきました」

   その2

 働く人が労働時間を自在に調整するオランダ社会。出生率も高く、働き方への支援が何よりの子育て支援になることを証明していると言えそうだ。そんなオランダでも、男女の役割分担をめぐり、悩みはある。

 「おめでとう! 赤ちゃんを産むんだったらぜひ戻ってきて。復帰後は勤務を50%にして働く育児休暇制度があるんだよ」。

 オランダ人と結婚し、日系金融機関で働いていた由紀さん(43)=仮名=は12年前、長男の妊娠をオランダ人上司に報告したときの感動が忘れられない。日本の感覚で迷惑がられると思ったし、フルタイムで働きながらの子育てには迷いもあった。こちちから聞きもしないのにニコニコ顔で話す上司の言葉で、「週3日なら」と復帰を決めた。

 働く女性の割合が65%を超えるオランダ。だが意外なことに、政府の育児支援策は乏しい。特に、保育所の整備は遅れた。伝統的に子どもは家庭で育てるべきだとの意識が強く、保育料も高かった。今年から政府と企業による補助制度が始まったが、利用は週3日が平均。長い「入所待ち」も珍しくないという。

 なのに、子どもは生まれている。合計特殊出生率(女性が一生に産む子どもの数)は2003年に1.75人と、日本の1.26人に比べはるかに高い。短く働いても不利にならないので、働く時間を減らして子育てをする選択肢があることが、大きな育児支援につながったといえる。

 由紀さんは書う。「学校の送り迎えなど親の負担は大きいのに、なぜか子育てしやすい。職場も含めた社会全体が、子どもや子育てをする親を大事にする感覚を強く感じる」.

後日談がある。由紀さんが職場に復帰したら、日本人の上司に「50%で続ける気なら、毎日出勤してくれ」と言われた。日本との時差のせいで午前中に仕事が集中するからだが、毎日通勤するのでは時短の利点が半減する。何より、自分が歓迎されていないと感じて悲しかった。まもなく週3日の仕事に転職した。

 「日本だったら子どもは産んでないかもしれない」。オランダで子育てをする日本人女性からよく聞く言葉だ。

 一見、理想の国に見えるオランダにも課題はある。その一つが根強く残る男女の役割意識だ。もともと、欧州でも保守的な「男は仕事、女は家庭」の土地柄だった。

 プラム・ジョエルさん(44)は、男女の壁を痛切に感じる一人。2年半前に完全に妻と入れ替わり、4人の子を育てる「専業主夫」となった。

 国際的なIT企業に勤め、十分な収入も地位もあったが、仕事におもしろみはなかった。妻のアネ口ース・シュヒルテさん(41)は、もっと仕事に力を傾け、自分の力を試したいと考えていた。シュヒルテさんは、現在は大手保険会社のシニアマネジャーだ。

 2人にとって役割の交換は「パズルが奇跡的に合った」選択だったが、世間の風当たりは思いのほか強かった。「彼女は君と同じだけ稼げるのか」「子どもが母親を恋しがるだろう」「君のやりがいは」。同僚や家族、友人など、会う人ごとに質問攻めにされた。

 ジョエルさんは2人の決断の経緯や日々の生活をブログなどで公開。「男だから、女だからでなく、『自分が本当にしたいこと』に正直に」と訴えている。

 「仕事も料理も掃除も、やることがいっぱいで自分の時間がない。本も読めないし、友達とも会えない」。

 アネミエ・シュハウトマーカーさん(45)のオフィスには、切羽詰まって訴える女性からの電話やメールが引きも切らない。

 仕事と育児の両立に悩んだ自身の経験から、2003年に「キャリア&キッズ」を起業。子育てや就職について助言するビジネスを始めた。ほとんどの利用者は女性。料金は週1回、1時間半の面談10回で2000ユーロ(約32万円)と安くないが、利用客は1000人に達した。当初3人で始めたスタッフを25人に増やす急成長ぶりだ。

 「仕事をしながら母親の役割を完璧にやろうと考えすぎる。優先順位をつけること、夫と話し合い、人の手を借りることなど、肩に載った荷物を一つずつ降ろすよう助言します」。

 そういってシュハウトマーカーさんは、相談にきた女性に、自身もアイロンがけを25ユーロ(約4000円)で人に頼んでいること、夫はスパゲティしか作れないが「おいしい」と言って食べることなどを話し始めた。

 ある政府調査によると、1975年からの30年間で、男性が家事や育児をする時間は、週2時間半増えただけだが、女性の仕事時間は10時間近く増えている。

 専業主夫のジョエルさんは言う。

 「オランダのこの30年の変革で、変わったのは女性だったと思う。今度は男性が変わる番だ」。

 (朝日、2007年05月09-10日。足立朋子)