- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

あの井上通泰が柳田国男の兄貴だったとは

2019年08月05日 | 断想および雑談

                        


 



 


柳田国男の著作集は最近更新された。その最新版に別巻1(2019年3月刊)としてこの年譜が入っている。



私の調査旅行経験に照らしあわせて、日本民俗学(Ethnology)の父と呼ばれる大学者柳田国男の行動力のすさまじさには脱帽だ。飛騨では「山窩」の件に関しヒアリング。この辺り(岐阜県郡上八幡、白鳥を経由して石徹白/いとしろの大師堂(岐阜県郡上市白鳥町石徹白祠山 4(中在所))までの郡上街道)を私自身何度か訪れたことがあるのだが、この件(既知の事柄でもあった三角寛のサンカ研究)に関して柳田にその端緒があったことはうかつにもいままで不知だった。明治44年段階の話だが、この段階にすでに京都帝大のばりばりの研究者たちと交流をもっている。柳田を郷土研究(農学者新渡戸稲造が中心となって発足)を介して当初よりアカデミズムの中枢部において浸透を図ろうとしていたことが判る。


 



 


「農村経済と村是」は定本柳田国男集(第十六巻、1-160㌻)に「時代ト農政」に改題の上、所収明治41年に村田露月は沼隈郡書記に任官。明治44年には地方改良運動の郡側の受け皿:先憂会を立ち上げ雑誌「まこと」を創刊


 


 


 


東京帝大卒の医学博士井上通泰の著書『播磨風土記新考』、『万葉集新考』、『上代歴史地理新考』を若い頃何度かひもといてみたことがある。江戸時代の国学の学風を継承していた方であり、その当時のわたしは海外からの新着文献のチェックが日課でこちらのほうは古めかしすぎて活字を追うのもやや苦痛を感じたくらいだ。必要に迫られ森田節斎と武井節庵の勉強をしたことだし今後は井上の著書にも触れる機会を作ってこの香川景樹の傾倒者の誠に古めかしい著書を一度精読しなおしてみたいものだ。香川景樹の弟子といえば近世後期における町医者で松永村きっての文化人だった高橋景張(賴山陽が今津宿滞在時は今津薬師寺で漢詩の会を催し、宿泊は高橋屋敷で)がそうだった。 明治40年5月、柳田国男は兄貴井上通泰の話(「蕃山先生考」)を聞きに帝国教育会主催の報徳講演会に出席


 



 


 柳田国男の研究はソシュールの『一般言語学講義』中の語を使えば、生活者から得た情報を雑誌論文という形で柳田国男が「通訳」「翻訳」する作業を通じてパロール(Parole)としての個別具体的な形での農民生活誌の書記化を行ったもの。柳田国男の後継者たちが『定本 柳田国男集』全36巻と言う形で提示したのは、いわばその総体としてのパロール全集(いまや柳田民俗学の「経典」的存在)。このパロール全集中から果たして、ランガージュ(language)を共有する「郷土」の人々のラング(langue,「辞書」 として、その社会集団の構成員のほとんどがその意味を理解し普遍的に運用できる言葉=folkloreの体系)を抽象可能なのかどうか。科学というカテゴリーからは外れるが三大編纂物として群書類従・古事類苑・国書総目録というのもある。そうではなく、柳田の意識の中にあった「科学」(scienceといった厳密なものではなく、やや情緒的な科学的と言うくらいの”科学”)というカテゴリーの内側において、もし可能とすればラングというのは一体どのようなものになるのかを今一度考えてみる事も必要だ。なお、周知のごとく後藤総一郎編『柳田国男研究資料集成』(日本民俗学を樹立した柳田国男に関する研究論文・評論・随想・座談会・著作解題・書評など1000篇以上を第I・II期/全22巻で集成)という編纂物がある。 関連記事 例えば伝統の発明ー郷土研究の時代ー写真で見る旧沼隈郡の昭和10年代-村田家資料中の古写真たち-あの井上通泰が柳田国男の兄貴だったとは

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王子権現について

2019年08月05日 | 断想および雑談
「郷土研究」創刊号(大正2年3月15日発行


高木敏雄「郷土研究の本領」を読むつもりでなにげに次の川村杳樹(はるき・・・柳田がつかったペンネームの一つ。ほかに久米長目といった筆名も使用)「巫女考」の論攷を見ていて思い当たるところが2点ほどあった。一つは尾道渋谷家文書(広島県史・古代中世資料編Ⅳ所収)に「神子(みこ)」の語が・・・。石見守は石井石見守だろか、それとも寺岡石見守(この場合は伊勢宮さんの神主)?まあ文書が沼隈郡神村の土地台帳なので、石井石見守だろ。そうだったとすれば、近世の地誌類の中では神村石井家の祖でどこかの城主ということになっているが、明らかに、この人物は沼隈郡神村の荘鎮守八幡宮神主だ。神子は職掌の「みこ」を言い、三郎衛門と五郎衛門(男性)という人物だったことが判る。 次に「巫女考」の中の「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神があった」に注目。沼隈郡内には王子神社とか王太子宮(備後国一宮:吉備津神社境内にも摂社としてあり)という呼称のお宮さんがかなり目立つ。大阪辺りの旧熊野街道(熊野古道)沿いには一里塚のような感じで「王子」というものが沢山あった。この語のルーツを考えるヒントが川村の論考を通じて得られたような気がする。そういえば風俗問状答書からのネタらしいが「備後福山領では毎年6月と11月の13日に神酒燈明を供え赤飯と膾とで御子神の祭りする」とも書いていた。ここにも柳田国男執筆の福山情報




熊野信仰においては少年あるいは少女の姿であらわされる神としての若王子/若一王子が(、地方社会において)熊野権現を勧請する際に、多くの場合この神が祀られるということはあったようだが、川村杳樹こと柳田国男の言う「今日の王子権現若王子はほとんど熊野の信仰であるが、古くは八幡にも王子の神(若宮八幡ー筆者注)があった」については、美味しそうな話題だったが、やはりわたしの姿勢としてはすぐに飛びつかず、今後とも確認作業を進めていくことになろう。


旧沼隈郡東村・大谷の「王子権現」。『沼隈郡誌』には大己貴(おおなむち)神社。近世絵図には王子権現(平の王子権現)。同様の事例は高須町阿草の王子社で祭神は大己貴(おおなむち)神、ちなみに高須町大山田の大己貴社の祭神は大己貴神&スクナヒコ神で、通称「瘡/かさ神」。



 なお沼隈郡今津村には町上荒神の東隣に伝承上の「若宮」(これとの関係は不明だが地名「若宮畠」)、字「王子丸」に王子社(現在高諸神社境内摂社)があった。


 

『沼隈郡誌』には山手村・郷分村・瀬戸村・金江村(皇子神社)、浦崎村(無記載だが、高尾に王太子神社、検地帳上は字「わうたいし」)、山南村(皇子神社)、柳津村(無記載だが実在)に王子神社とある。現段階では『元禄13年備後国検地帳』は一部をのぞき、その他は未チェックだが、『備後郡村誌』(沼隈郡分)には藁江の王太子(皇子神社は未記載)、田島及び下山田の王子大明神という形で記載。尾道市向島(旧御調郡)には王太子社あり。


わたしは柳田国男の郷土研究をチェックするためにその復刻版の創刊号を読みだしたところだが、東京高等師範などで教鞭を執ったドイツ語教師高木が執筆した「郷土研究の本領」よりも川村の「巫女考」の方が興味深かった。高木は人類学の父フレーザーの名前をあげていた。こちらは後刻、目を通すことにしよう。まあ、たいしたことは書いていなかったように思う。

 

投稿原稿は潤色をさけ、民話・伝承はその地方の方言でと注文をつけている。
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融道玄(1872-1918)

2019年08月05日 | 断想および雑談

融道玄


April 05 [Fri], 2019, 13:19

参考メモ 融道玄に関しては融道男『祖父 融道玄の生涯』、2003.融ら明治期における古義真言僧侶としての宗教史的な評価は阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から」、現代密教23号、平成24,303-325頁。 思想的には融道玄は海外宗教学の紹介に終わった密教僧侶だが、その底流にはscience(唯物)-art(唯心)を論理化する途中で融自身行き詰ったからだと思う。あえて誤解を恐れずに言えばそれをうまく彼一流のレトリックでインテリたちを納得させてしまったのが物/心、水/油、主/客とかといった価値軸上で相反する両極に位置付けられるようなものを統合することを試みた西田幾多郎『善の研究』ではなかったか。 関連紹介記事(執筆中) 融道玄の東京帝大哲学専攻の先輩に心霊研究で東京帝大を追放された福来友吉(1869-1952)がいた。同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。姉崎(高島平三郎と懇意)とよりも朝永三十郎(ノーベル賞受賞の物理学者朝永振一郎の親父)とは昵懇だったようだ。 融道玄は哲学者(東京帝大文科に籍を置いた典型的な明治-大正期の御用学者)井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる融より5歳ほど年上の高楠順次郎に原始仏教研究面で薫陶をうけていたようだが、高楠自身からは美術史家のような職に就いたらどうかと言われ、誇り高き融は大いに憤慨)。梵語に造詣の深かった高楠(明治34年開講の梵語学講座では印度古文献=原典主義を推進)から見ればせいぜい英語・ドイツ語あたりでインドの原始仏教を研究していたに過ぎない融道玄などやはりどうしようもなくまどろっこしくとるにたらいない存在に感じられたのではあるまいか。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。彼は高野山に妻帯肉食を持ち込んだ紛れもない”破戒僧”だったが同時に当時の停滞した日本仏教に対する改革運動の有力な推進者の一人でもあった。 『祖父 融道玄の生涯』というのを公立図書館に寄贈したが、送り主からは書評を求められている。わたしは仏教史の専門家ではないのでその辺は丁重にお断りし、代わりに当該書籍を福山中央図書館に寄贈しておいた。


 

関連記事

「近代日本における知識人宗教運動の言説空間 ―『新佛教』の思想史・文化史的研究」 The Discursive Space of an Intellectual Religious Movement in Modern Japan : a Study of the "Shin Bukkyo" Journal from the viewpoint of the History of Culture and Thought 科学研究費補助金基盤研究B 研究課題番号 20320016 2008 年度~2011 年度 代表:吉永進一(舞鶴工業高等専門学校)
 

◎融 道玄(とおる どうげん) 生没年 未詳 (1)略歴 広島県福山の生まれ。真言宗僧侶。高野山大学教授。生年・家族構成共に不詳であるが、高島平三郎と同郷であり、かつ融の実家は高島の家の「すぐ向ふ側」にあったという。融の実母が高島家に世話になっていたとしているので、父小田銀八(福山藩の下級藩士だったが、同名の親父は山林奉行、阿部正弘の時代は関藤籐陰らと蝦夷調査に派遣されるなどの、能吏)を早くに亡くしている可能性がある(「他人の疝気」4-11)。 1883(明治16)年から84(明治17)年にかけて備中の寺にいたとあるが、詳細は不明。しかし融の師僧である葦原寂照(1833~1913)が岡山県出身であり、岡山では東雲院や性徳院にあったという(『密教大辞典』)。 1888(明治21)年に第三高等中学校に入学する。当初は宗像逸郎の家に寄宿していたが、その後中沼清蔵の家に移ったという。中沼家には有馬祐政も寄宿していたと回顧している(「山のたより」13-3)。 1894(明治27)年に東京の誠之舎という旧福山藩人の寄宿舎に入り、1895(明治28)年に東京帝国大学文科哲学科に入学。1896(明治29)年頃には本郷台町の北辰館に下宿しており、北辰館では三島簸川と同室であった。またこの頃から釈尾旭邦と交友があったという(「一日一信」8-9)。1898(明治31)年に同大学を卒業。同窓生に朝永三十郎、近角常観、吉田静致らがおり、朝永とは手紙のやり取りを続けていたようである(「一日一信」8-9)。同年、 同大学院に進み「密教ノ教理及其発達」という研究題目で1903(明治36)年まで在籍。 仏教清徒同志会の設立に際して創設者の一人であるが、当時の活動については明らかではない。『新佛教』上には宗教・宗教学に関する論説を多く翻訳しており、この時期にケアードの『宗教進化論』を訳出している。 1909(明治42)年末に、融が高野山大学の教授兼教務主任として現地に赴くことになったことを受けて送別会が行われているが、既に1905(明治38)年頃に高野山の大学林に関係しているような文章がある(「南山の一月」6-2)。なお送別会には同志会の中心的な人物の多くが参加しており、融の同志会における交友関係が窺われる。 送別会の段階で融には既に妻子があったようであるが、1912(明治45)年頃に高野山中の準別格本山自性院にて一家五人で暮らしていると述べている(「山のたより」13-3)。 1913(大正2)年2 月に融の師僧である葦原寂照が死去。葦原が京都高尾山神護寺の住職であったため、融は神護寺の住職となるべく京都に向かったという(「人、事、物」14-4)。 後、同年7 月には藤井瑞枝(=妙頑禅尼)を高野山で案内しており、その際に藤井は融のことを高野山新派の驍将であるとしている(妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。なお、この藤井の紀行記において、東寺の総黌(現、種智院大学)に高野山大学を合併するという動きがあることが述べられているが、おそらく藤井の訪高野山後に融はこの問題に関連して文部省に陳情している(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は不明であるが、1917 年の『現代仏教家人名辞典』に神護寺の住職を勤めていること、権小僧都であることが述べられており、かつ高野山大学教授として高名であるとされている。 (2)年譜 未詳 広島県、福山に生まれる。生年・家族構成共に不詳。 1883-4 この頃備中の寺(未詳)にいたという。 1888 第三高等中学校に入学。在学時にはまず宗像逸郎の家に寄宿し、その後中沼清蔵の家に移ったという。 1894 「東京丸山の阿部伯爵の前にある誠之舎と云ふ旧福山藩人の寄宿舎に入った」という。 1895 東京帝国大学文科哲学科入学。 1896 この頃本郷台町の北辰館に下宿し、三島簸川と同室であったという。 1898 東京帝国大学文科哲学科卒業、東京帝国大学大学院進学。研究テーマ「密教ノ教理及其発達」。 1903 東京帝国大学大学院に在学していた最終年度(翌年は名簿に名前がない)。 1905 この頃、高野山に滞在して学林に関係していたようであり、日露戦争戦勝祝賀の式を高野山小田原天神で挙げたという(「南山の一月」6-2)。 1909 高野山大学に教授兼教務主任として招かれ、現地に赴くことになる。12 月9 日に神田で送別会が行われ、同志会の主要な人物が集まった(「融道玄君送別会の記」11-1)。 1912 この頃、高野山中にある準別格本山自性院にて一家五人で暮らしているとのこと(「山のたより」13-3)。 1913 2 月19 日に師僧である葦原寂照が死去。これを受けて葦原が住職であった京都高尾山神護寺の住職になるべく高野山から京都に向かう(「人、事、物」14-4)。 7 月に藤井瑞枝(=妙頑禅尼)が高野山を訪れ、融はこれを案内(「私信の公開」14-8、妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。 その後(7 月から8 月にかけての頃)上京して文部省に高野山大学問題について陳情(「人、事、物」14-8)。 その後の消息は未詳。 (3)著作 訳書としてエドワード・ケヤード著、融道玄訳『宗教進化論』(帝国百科全書、第128 編)

博文館、1905 がある(原本、Caird, Edward The Evolution of Religion, 1894)がある。

また河南休男、越山頼治との共著で『註解英文和訳辞典』東華堂、1909 年を出している。(4)『新佛教』との関係 仏教清徒同志会の創設者の一人。融道玄、(融)皈一/帰一、(融)希山、(融)友世といった筆名で『新佛教』には70 本近くの寄稿をなしているが、やはり高野山に移った1910 年以降は寄稿が少なくなり廃刊号にも寄稿がない。 寄稿の多くは宗教学に関する論説の翻訳であり、宗教学に強い関心を持っていたことが窺われる。その集大成的なものとして11-1 に融道玄編述『宗教学』という全79 頁の冊子が附録として付けられている。これは融が編述したものであるが、冒頭でチーレ『宗教学綱要』(Tiele, Cornelis Petrus Elements of the science of religion, 2 vols. 1897-1899)、ジャストロウ『宗教研究』(Jastrow, Morris The study of religion, 1901)、プライデレル『宗教哲学』(Pfleiderer, Otto The Philosophy of Religion, 4 vols. 1886-1888)、ケヤード『宗教進化論』(前掲)、マックス・ミュラーの著作などを参考にしたとあり、当時の宗教学受容の一端を見て取る事ができるだろう。 融自身の著述としては、例えば2-5 の六綱領の解説では「迷信の勦絶」を担当しており、「平安時代の日本人は、加持や祈祷をよろこんでをッた。吾々にはこんなことでは満足ができぬ」としている。融が真言宗の僧侶であり、かつ後に高野山に招かれるように宗門との関係を保ち続けていくことを考え合わせると興味深い。 その一方で、「原始仏教と新仏教」(6-7)では『新佛教』で論じられている汎神論を「頗る自由なる進化論的汎神観」であると指摘した上で、しかしそれに基づいた「健全なる信仰」が「果して仏教なるや否やに疑なき能はず」として根本的な疑義を呈しており、同人の間での見解の違いが明らかになっている。 (5)関連事項藤井瑞枝は高野山の紀行文において、融の見かけが高野山の阿闍梨風であるとしながら「これがどうして野山で公然たる肉食妻帯を主張された青年文学士であるなどと思へよう!?」としており(14-9)、かつてそのような主張を公にしたことが窺われる。 また関樸堂は融と田中治六の名を挙げて両者共に学究肌で真面目であると評している(「人物漫評(一)」7-11)。 (6)参考文献 『シリーズ日本の宗教学(4)宗教学の形成過程』クレス出版、2006 年(訳書の『宗教進化論』 所収) 東京帝国大学編『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1926 年 『現代仏教家人名辞典』現代佛教家人名辭典刊行會、1917 写真が「新仏教編集員」写真(『新佛教』5-1)内にある。(星野靖二)  以上は全文引用(261-263頁) 同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。 融道玄は井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる高楠順次郎の薫陶をうけていたのだろか)。 融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。後年高楠や高島平三郎は東洋大学の学長を務めた。阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から、現代密教23号、明治維新前後の廃仏毀釈により衰弱していた仏教者の意識を鼓舞し、仏教の近代化に邁進したものとして、大谷派の境野黄洋、本願寺派の高島米峰、浄土宗の渡辺海旭らによって明治三十二年に結成された「新仏教徒同志会」がある。その活動は吉田久一や柏原祐泉といった近代仏教研究者により論究され、綱要である「健全なる信仰・社会改善・自由討究・迷信勦断・旧来的制度儀式否定・政治権力からの独立」の六カ条は、今日でも明治仏教の特徴として語られている。 なかでも同会が特に強く主張したのは、非科学的迷信と利己的欲望に基づく「祈祷」の否定であったが、その「祈祷儀礼の排斥」運動が仏教界全体の主流だったわけではない。少なくとも古義・新義の真言僧侶が、都会で開催される演説会の議論に大きな影響を受けることはなかったと言ってよい。明治期の真言宗は、明治五年の一宗一管長制、明治十一年の分離独立(西部大教院・真言宗・新義派)、明治十二年の再統合、明治三十三年の分離独立(御室・高野・醍醐・大覚寺・智山・豊山)、明治四十年の四宗独立(東寺・山階・小野、泉涌寺)に直面し、これに拘わる内部論争で紛糾していたという事情が大きいだろう ) 1 ( 。しかし、一部の若き真言僧侶―毛利柴庵、融道玄、古川流泉、和田性海、小林雨峰―が、宗団権力と離れたところで、「新仏教徒同志会」として活動していたことは注目すべきである。社会主義者で後に僧籍を剥奪された毛利柴庵以外に、学界で彼らの名前が挙がることは少ないが、いずれも明治三十三年七月に発刊された同会の会報誌『新仏教』において大きな役割を担っていた。 そのうち、融道玄、古川流泉、和田性海は、古義真言宗系の会報誌『六大新報』を創刊して学者や布教師として活動し、豊山派の小林雨峰は『加持世界』を創刊する。」 「○融道玄(皈一、帰一、希山) 融道玄は、これまで近代仏教研究者にほとんど注目されてこなかった。生没不詳であるが、明治三十八年にエドワード・ケヤード『宗教進化論』の翻訳を出版し、明治四十四年より高野山大学の教授となった人物である。「新仏教徒同志会」の評議員として活躍し、『新仏教』創刊号(明治三十三年七月)の「所謂根本義」では、輪廻転生や厭世観を排して中道に徹するべきであると示す ) 4 ( 。また、翌年の「迷信の勦絶」では、「宗教の心髄は、理想を渇仰し発現するにありといってよい。…平安時代の日本人は加持や祈祷をよろこんでをッた、当時の性情には、これでもよかッたのである。吾々にはこんなことでは満足ができぬ。時代の精神といふものがあッて、時代に相応する理想を立てさしてをる…彼等を導いて吾々と同様に時代相応の理想を立てさせようといふのが、迷信勦絶の真意である。」と、迷信祈祷の排斥という新仏教運動の綱要を説明している。 ) 5 ( しかし『新仏教』誌上では、最初期にこそ自らの主義を唱えるものの、その後は西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介に徹しており、後述するように、一貫してこの姿勢を保持したわけではなかった。」 tek_tekメモ:「西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介」という部分だが、高野山には元東大助教授福来友吉が[物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった。1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授。]


融道男(道玄の長男で医師の紀一の子:精神科医で国立大学医学部名誉教授) 著 『祖父 融道玄の生涯』 勁草書房 平成25年。 この本は書店購入は出来ず、創造印刷 白井担当、TEL 042-485-4466(代)より購入可能だ(¥3000)・・・・実際に読んでみたが、道玄の著書(英語辞書や翻訳書など)や主な投稿雑誌の抄録など掲載するなど貴重な内容を含んでいるが史料としては”融道玄日記”など翻刻されていないなどやや残念な部分が目立つ。本書が融道玄研究の出発点となることを願う。 わたし? ①融と高島平三郎との関係、②融の父祖;福山藩士小田(おだ)家のルーツが芦品郡有地・字迫出身の迫氏で、本姓は小田(『備陽6郡誌』外篇・芦田郡之2・小田家系、『備後叢書・1』、536-39頁)と言う点、そして③融が新仏教運動に参加した当初の思想を曲げて加持祈祷を肯定するようになった経緯:福来の高野山大学への招へいが何か影響していたか否か、以上3点には興味があるが・・・・・・雑誌「新仏教」CDーROM版 下有地の小田氏に関しては『備陽6郡誌・外篇 芦品郡の2』(備後叢書1、536-538頁に系図を掲載)

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