- 松永史談会 -

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武者小路実篤『思い出の人々』(repost)

2019年08月08日 | 断想および雑談
武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41
November 07 [Mon], 2016, 16:05
尊敬する人々の中に、高島平三郎・徳富蘆花・三宅雪嶺が挙げられている。
武者小路は高島には興味はなかったが、兄貴の影響で強制的に高島邸で開催された「楽之会」に15,6歳ごろから作家としての駆け出し時代を通じ10年程度毎回出席していたようだ。



実篤の兄貴公共は終生、学習院初等科一年のクラス担任だった高島の、高弟であることを名誉に感じていたと述懐している。それは公共の弟である武者小路実篤にとってもそうであったはずだ。多少、つむじ曲がりのところがあった弟武者小路実篤は兄貴公共に関して自分との違いをいろいろ挙げているが、東大中退の時もそうだが、兄貴の了解を取り付けるなど母子家庭で6つ年上の姉も3歳の時に失うといった身の上に置かれた実篤は、若いころ、いろんな意味で兄貴の影響下にあった。

実篤はトルストイ一辺倒で高島の思想には興味を感じなかったらしい。とはいえ、「新しき村」運動は楽之会で受けた感化が契機になったと語っている。そういえば洛陽堂はこの当時盛んに「都会と農村」に関して、天野藤男らを動員して田園再生をテーマとした書籍を多数刊行していたなぁ。武者小路自身は「あたらしい村」運動はトルストイや半農生活を送っていた母方の叔父勘解由小路資承(すけこと)の影響から始めたというような印象の文章を『自分の歩いた道』の中に残していたが・・・・。



武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41はその後、『作家の自伝7―武者小路実篤―』1994に所収されている。



これらの本(中古品)はアマゾンでも比較的安価に入手できる。武者小路実篤全集・第十五巻を底本とした『作家の自伝7―武者小路実篤―』の方は武者小路の年譜・編集者による解説付で便利。


「楽之会」の言葉の由来は論語の『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)からきていることに言及にこの年になってその意味が解るようになったと書いている。

意味
あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人にはかなわない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばないものである。

武者小路の意識の中には高島平三郎からの教えを自らの中では欠落した実の父親に関する記憶&実父からの教えにも匹敵するものとして享受しようとするものがあったのでは・・・・。

①高島が信用できる人を呼んで講演させた
②(自分は)高島さんに敬意を感じている。
③好之者不如楽之者の境地に入ることの本当さ(武者小路にとっては本物・本当というのは最大限の賛辞)を老いてますます感じている。
これらの武者小路の言葉からも高島に対する尊敬の念がいかに大きかったかが判ろう。武者小路の漱石や露伴に対する感情と高島に対するそれとはまるで質が異なる。武者小路という生命体に大きな感化を与えたのは高島だった。
『思い出の人々』は昭和41年、実篤81歳時の作品であり、わたしには人生の晩秋に語られたその述懐には大きな質量(=真実味)が感じられる。

新しい村をはじめ僕の家で「村の会」を開いたのは高島邸で開催された楽之会の影響。そういう意味でも高島さんの僕への影響は無視できないとも書いている。
なお、河本亀之助に関しては楽之会で同席した洛陽堂主人に雑誌白樺の出版を頼んだという下りで触れられるだけだった。河本亀之助に関しては『作家の自伝7 武者小路実篤』所収の「自分の歩んだ道」においては”はげ頭の人の好い洛陽堂の主人はいまも懐かしく思い出す”という形で紹介されている(36-38頁)。雑誌白樺が洛陽堂刊として出版されるようになって予想外に売れたのは河本の営業努力(新聞記者に出版情報を流したこと)の賜物だと武者小路は少しく感じていたか・・・。

武者小路実篤の人柄(心配性タイプの無頼漢)がよくわかる一文

今回取り上げた話題に関する詳細は他日を期したい。武者小路とか志賀直哉の自伝に興味あるかって?
こういう作家連中の人格・人間性に関してもともと興味がない。
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新涯開発百年史』の中の書き込み考ー解釈の快楽ー September 28 [Fri], 2012, 21:42 (repost)

2019年08月08日 | 断想および雑談
藤井正夫『新涯開発百年史』、1967という本を東京・本郷の古書店で入手した。

この本は序文によると「福山市新涯町開墾百年祭を記念して、発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなどを収録して、『郷土百年の歩み』」を広大福山分校の藤井らがまとめたもの(本書1頁)。

わたしが購入した古書には、何カ所かにボールペンによる破線が引かれている代物だった。以下、線引きのある頁とその個所をすべて列挙してみよう。


6頁ー 山田家所蔵の「新涯村取設原由御届」
   川口村庄屋山田本三郎
7-川口村庄屋山田本三郎は御用達席
9-川口村山田本三郎
   川口村 山田熊太郎
12-脚注
   2)山田家所蔵文書による
   7,8,9)山田家所蔵、明治3年田地売払諸記録
23-図表B)熊治郎
25-山田本三郎が13町歩
    第七表 山田本三郎
27-山田本三郎、山田熊太郎、山田本三郎に従って
39-脚注)山田家所蔵
41-上納書上責任者は庄屋山田本三郎
    山田本三郎・山田熊太郎
42-川口村・山田本三郎(13町56畝27歩)
44-田地名寄御売払代銀上納書上帳、川口町山田家所蔵
56-(明治31年史料) 証、、山田熙殿、奉公人受状之事
65-川口村の多木家の記録
69-同じ川口村山田家の明治30年奉公人請状


79-明治29年山田熙が初めて試みたと言われ、山田はその他乳牛・錦鯉・家鴨・豚の先覚者的導入をはかって多   大な影響を与えた。山田はまた昭和3年にはアメリカから直接鶏の種卵を取り入れ、岡本吉太郎・高橋源一郎   などと企業的な養鶏を試みている。山田自身の農業経営が成功したとは決していえないけれども、すぐれた先   覚者として地域に大きな影響を与え

断っておくが、資料編(206-300頁)、年表(302-313頁)などには線引きはなし。

さてどんなご仁がこの本に線を引いたのだろか。

赤鉛筆とかボールペンとか使って線を引いている場合、前者は学習段階に、ボールペンは?
この本を消耗品として考え、普通は付箋の添付で済ませるところだが、ボールペンを使って論文でも書いているさなかに手っ取り早く同じ筆記用具を用い目印の線を引いたというところだろうか。それにしても訂正の効かないボールペンを使うなんて、無神経と言うか・・・・。蔵書印が不在だが、脚注の史料名にも配慮しているのでその人物は、やはり何らかの研究者かな~。

いやいや、線引き箇所が川口村庄屋で新涯村に13町歩以上の土地を有した山田家関係にほぼ限定され、新涯村全般への関心や併記されている他者への関心(たとえば6頁の「米掛りは、川口村庄屋山田本三郎、多治米村庄屋猪原保平」、の箇所では下線部だけ破線が引かれ、同じ米掛りとなった多治米村庄屋猪原保平はマークされていない)が全く希薄なので、自分、あるいは自己のルーツ探しを兼ねた、山田家の子孫(身内)の可能性もある。その可能性の方が大きいかな?!

まあ、どこまでも、何の根拠もない、詮索好きの、わたしの勝手な解釈だ(笑)。
解釈と言うのは、自己認識(自分はそう思うという水準の話)・自己了解のことを差す。この場合、現実にボールペンで破線を引いた人物はわたし自身ではない。わたしとその人物との認識(経験・思考様式)の地平が近似しているとは限らないので、所詮わたしの解釈(『新涯開発百年史』の書き込みを取り上げた遊び半分の解釈)は、そうであるかも知れないし、そうでないかもしれないといった可能性(蓋然性)レベルの話に留まるのだ。わたしと彼とが同じ「知の地平」を共有しているとか、患者(犯罪者)と医者(名探偵)といった関係にある場合には蓋然性は限りなく高くなるだろうが・・・・
「過去」とか「未来」といった象限のモノ・ゴトは概ねその種の解釈の快楽の対象にされるのだが、その解釈の中身は当該の関係性の中で、例えばこの大本営のいうことと狼少年のいうこととの間では信ぴょう性に差が生じてくる訳だ。

参考までに目次を紹介しておこう(省略)。



この古書には残念ながら正誤表がなかった。

正誤表の中身は本書329-342頁部分にある新涯町各家の出身地、入植年次(「入村者名簿」)。正誤表では悉皆的に住人すべての宗派・旦那寺名が付記されたものに差し替えられている。

たとえば五十川義一 深安郡大津野村野々浜、明治元年→、五十川義一 真言宗・大門 円寂寺、深安郡大津野村野々浜、明治元年


本書は巻末に「新涯町の発展を担う人々」として町内27組の各世帯の代表者の集合写真が悉皆的に掲載されているが、マルクスーエンゲルス型社会経済史が専門の歴史家が中心となって執筆した関係で「発展の歴史を回顧しながら、これらの思い出や、物語、または歌や踊りや行事、さては暮らしのしきたりなど」を収録を目指した割には社会文化面での記述が乏しく、地域史としては残念な面が目立つ。マルクスエンゲルス的な経済分析は居住者間の支配従属関係とその中での支配する者(または支配される)の側の動向(対立関係)を浮き彫りにするには向いているが、巻末で写真紹介された「新涯町の発展を担った(普通の・・・筆者加筆)人々」やその祖先たちのことは割愛(省略)されたり、概ね沈黙させられてしまいがちだ。
福山市新涯町は幕末期の福山藩の財政再建策の一環として行われた干潟の干拓事業の結果出現したところで、現在は特産物のクワイ等で知られる福山市南部を代表する生産緑地だ。

最後に差し替え部分(入村者名簿)をすべてご紹介しておこう。この史料はこの地方における新涯入植者の出自の傾向を推定(数理解析)する時の、一つの参考資料になりうるだろうと思う。
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それは浦崎梅林だった

2019年08月08日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

安政4年雲山山人作「松永湾岸風景図屏風」(福山城博物館蔵)に描かれた戸崎付近に咲き乱れる花 わたしは桜だと思っていたが、実はどうもそうではなかったようだ。



市立園芸センター(福山市金江町藁江609)から見た松永湾の風景(Xは戸崎)↑


昨日小畑正雄『浦崎村史』、1980を見ていて山路機谷の漢詩「遺芳湾雑景」(浦崎八景)に菅茶山が使わなかった「戸崎梅林」の表現をとっていることを知った(『沼隈郡誌』からの孫引きヵ)。わたしは桜かなと思っていたのだが、屏風絵の作者:雲山山人がそのことを認識していたかどうかは判らぬが、戸崎=梅の名所(風景写真のX地点、その向かって右側、山頂を低く削平した場所が古城跡)+海中につきだした古城跡ということをわきまえていたことが判る。

小畑正雄『浦崎村史』だが、千年藤に関して独自に自説(内容的にはfakelore)を展開していた(論証方法が普通に恣意的)

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