リズムチェンジという形態がなぜモダンジャズの世界のインプロヴィゼーションの素材として長年存在しているかと言えばそれはその自由さ、それも適度の自由さだ。A-A-B-Aという形、ブリッジをはさむ形、もちろん縛りはあるけど自由な部分が多い。この基になったガーシュインの曲は歌詞もあり、トニックとドミナンテを繰り返す、いわゆる循環コードの曲だ。コードという縛りも大きい。だけどインプロヴィゼーションの世界でのリズムチェンジの意味するところはコードの縛りがないに等しいほどゆるいのだ。これにはジャズが編み出したスウィングリズムとベースのウオーキングラインが大きく関わってくる。コード進行の縛りが適度にゆるくなると音楽が「線的」要するに対位法的になってくる。それも即興的に・・・。まして複数のミュージシャンが絡んでやるからやるたびに新しいハーモニーが生まれる。それは計算された機能的なものではない。その独特の面白さを小節数や形式と言った守るべき最低限のルールの中で一緒に楽しむのだ。対位法的か和声的かというのはもちろん音楽家としての大きな個性でもあるけど、演奏する曲である程度決められる部分もある。美しいコード進行を持つバラッドはそのコードの中に音楽的価値を見出さざるを得ない。でもリズムチェンジをコード進行に縛られて演奏してたらアドリブが全く展開していかない。対位法的か和声的かという問題は別に白か黒かというものではなくて音楽は常に両面を持っているものだ。ただそのバランスがどっちに傾いているかということだ。ジャズインプロヴィゼーションはコード進行にそって和声的にやる、それは一面的な捉え方だ。2つ3つの線が自由に絡み合って即興で和声を作っていく。これもジャズインプロヴィゼーションの大きな要素であり楽しみだ。
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