ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

Prelude To A Kiss Ⅲ

2012-09-24 04:10:50 | Weblog
この曲の形式はA-A-B-A,Bの部分つまりブリッジは長3度上のキーに転調する。この調をどう考えるかというのはこれと言ったルールがあるわけではないが、12音を平行調を拡大解釈した短3度で4等分してそれをトニック、ドミナンテ、サブドミナンテの3つに分類する考え方だとすっきり理解しやすい。つまり長3度上というのはもとのキーのドミナンテにあたるわけだ。これはトニックを中心にしてドミナンテとサブドミナンテがトニックから同じ距離でつりあっているという考え方を応用したものだ。音楽の物語をつくるためのカデンツアを7音から12音に拡大するというのは、平均律が定着して結構早い時期に優れた作曲家は発見したようだ。ロマン派の作曲家はすでにこの方法を多用している。この仕組みを知った時は、なるほどな・・とは思ったけど、同時に感じた疑問がサブドミナンテの「サブ」という言葉だ。12音ではドミナンテと同じ重さの価値を担っているのに「サブ」というのはおかしい。サブドミに失礼だ。サブと呼ばれているのは7音のカデンツアの時に上に増4度を持たないからだけだ。でももう世界中に認知されたこの言葉の使い方を変えるのは無理だ。この「サブ」という言葉のおかげで初期のころは音楽構造の役割を誤解する人も多い。罪なところもある言葉だ。ここはひとつサブという先入観を捨てて、ドミナンテとサブドミナンテは同等の地位と権力を持っていると認識したほうが、幅広くいろんな音楽の解釈に役立つと思う。

Prelude To A Kiss Ⅱ

2012-09-17 01:27:40 | Weblog
リハーモナイズという言葉とアレンジはいわば同義語で、リハーモナイズは和声部門のアレンジということだ。で、どの部分をアレンジするか?それが問題だ。アレンジするにはあるルールに従わないと音楽自体が崩壊してしまう。和声進行をはじめとする音楽のルールはだれか個人が考えだしたものではない。そしてそれにはいろんな裏付けがある。もっとも強固なものは自然界の摂理に沿ったものだ。これは動かしがたい。そして人間社会の常識や道徳感に従ったものもある。個人の見方でどっちでもとれるゆるいものもある。すべてが音楽の「ルール」なのだ。でも広く世の中に通用するリハーモナイズやアレンジとなるとそのルールの種類をちゃんとわきまえて適応させたものということになる。ジャズインプロヴィゼーションを演る時に分かっていなければいけないのはそのルールの種類なのだ。ジャズの世界には過去に個性的なプレイヤーがたくさん出現した。現れた時その人がどのレベルの人なのか?本物なのか?違うのか?いろんな評価が出たこともある。でも基本的に音楽家にポッと出はいない。とくにジャズの世界は多くの経験を積みミュージシャンの仲間内で一人前だと認められないと評価の対象にならない。ルールをちゃんと守れる人しか認められないのだ。個人の特性はそのあとの話だ。デュークエリントンは確固たる独自のサウンドを持ったミュージシャンだ。でもその奥に音楽構造に対する深い理解と鋭い感性が備わっている。世界中のミュージシャンがデュークをそう認めているからこそデュークはデュークなのだ。

Prelude To A Kiss

2012-09-09 02:13:26 | Weblog
デュークエリントンの作品、演奏の素材としてもヴォーカルナンバーとしても無数に使われた曲だ。使い切られたと言ってもいいかもしれない。まあでもそれはアルバムという商品を基本に考えたことであり、好きな曲としてライブやコンサートでレパートリーとして演奏するのに「使い切る」という言葉は適当ではない。それぐらい魅力にあふれた曲だ。この曲はまずほとんどリハーモナイズができない。ちょっと低音を変えることぐらいはできるけど、基本のコードは変えていいことはなにもない。その原因はメロディーとコードが一体化していることと、オリジナルのコード進行がすでにリハーモナイズされたものであるからだ。形式はA-A-B-A32小節、最初の小節のメロディーはⅡ7ーⅤ7の時に内声に現れるカウンターラインであり、多くの楽曲に使われているものだ。これがドーンとメロディーになっている。こういう発想は作曲のレベルが高くないとかえって出てこないものだ。音楽構造の必然性に沿って音楽を作る。これはインプロヴィゼーションにも言えることで、音楽のルールに身を任せることでスムーズな音選びができる。音楽のルールのできてきた過程を考えるとこれは当然のことではある。でも他に何かないか探って挑戦してみたくなる。で、またその挑戦する意欲がないと音楽はパワーをなくしてしまう。とくに無数の解釈がなされたスタンダード曲ではいつも陥る精神状態だ。難しい。でもこれが音楽が生き物である証拠でもあるのだ。結果はあまり考えない。先のことは誰にもわからないのだ。

Who Cares Ⅳ

2012-09-02 03:38:27 | Weblog
コードネームはインプロヴィゼーションを演奏するための重要な手掛かりだ。この曲など3、4小節目と5、6小節目は5度がシャープした7thのコードが2小節単位で書かれている。そうかと思えば2拍単位でコードが書かれていることもあるし、1拍単位のこともある。コードネームの書き方にルールはほとんどないのだ。複雑なテンションを書き加えてあったり正確であるとはいえ演奏不可能な緻密さで書かれている場合もある。要するにその「コードネーム」という記号からプレーヤーは音楽構造を読み取りインプロヴィゼーションを演る。コードネームはそのための指針なのだ。書く方にその意識がちゃんとあったら演奏を想定して書く。でも演奏の経験のない人は演奏するためのコードネームをちゃんと把握できない。しょうがないこととはいえ現場ではしょっちゅう起きることだ。極端な話、ポリフォニックな音楽に正確にコードネームを打ってそれで演れといわれてもできない。またトライアードばかりが続く全音階的な曲にそのままコードが打ってあってもアドリブ素材にはならない。モード手法の音楽の場合五線紙にスケールを書くという手もあった。これはコードネームを使ってはいないがインプロヴィゼーションの指針を意識した立派なジャズのやり方だ。ジャズミュージシャンはコードネームを見ると常にアドリブを意識する。この見方が絶対的に正しいわけではないと思うが、コードネームと日々戦っているとどうしてもコードネームというものに正しい書き方があるのか?とかオタマジャクシではない記号にするわけがあるのか?とか・・その存在意義を考えざるを得ない。