ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

Lulu’s Back in Town Ⅲ

2015-03-29 04:17:39 | Weblog
音楽メーセージにはいろんな種類がありいろんな程度の複雑さがある。この「複雑さ」は人間の感性や分析力からの評価なので音楽の良しあしには本来は関係ない。でも聞いて分かりにくいと音楽そのものを受け入れにくくなる。だから音楽に限らず芸術は「シンプル」な表現を目指すということになる。そこでその手段として「形式」がある。形式はある一定の音楽メッセージを呈示する方法であり、その特徴は区分し限定することだ。そして具体的な原理は「反復」であり「変奏」であると言える。A-A-B-Aという形式、32小節という「長さ」、どちらも人間の感性が無理なく反応できる理想形ともいえる。形式の歴史上の変遷を理解すると、20世紀以降の音楽産業が音楽の形式や長さにいかにおおきな影響を与えてしまったかが分かる。でももう取り返しはつかない。世界中のひとがその「形式」に慣れてしまっている。曲を覚えるとき、いろんなケースがある。短い時間、少ない回数ですぐ覚えてしまうもの、コードだけなかなかは入らないもの、またその逆にメロディーが入りづらいというもの。覚える気になってしっかり練習しないと覚えられないものもある。でもそれらは内容の良しあしとは結びつかないものなのだ。で、その入りやすさ、入りにくさの原因に「形式」がある場合がある。こういう風にしたほうが、わかりやすいんじゃないか?とか、ここをこうしたらいいのに・・・とか、原作者に言ってみたくなるときもある。スタンダード化されている曲でもそういうものは存在する。そのちょっとしたやりにくさはインプロヴィゼーションの出来に大きくかかわってくる。だから演奏のために曲の形式そのものを変えることも「あり」、それがジャズだ。でもよく吟味したうえで、という条件つき・・・。

Lulu’s Back in Town Ⅱ

2015-03-18 00:25:27 | Weblog
インプロヴィゼーションに臨む時にやるアナライズは、主に和声構造、いわゆるコード進行を分析するという意味合いが多く含まれている。楽曲には和声構造という要素がひとつの分野として存在するからもちろんこのアナライズの方法は正しい。でも音楽を形作る分野として旋律のモティーフとしての音程関係とリズムの力というのがもうひとつ存在する。客観的に音楽を聴いた場合、この旋律の「成り行き」の方がインパクトがある。これはインプロヴィゼーションを演奏する上で重要なヒントになりうるものだ。もちろん調性音楽における和声構造はとても重要だ。アドリブもしかり。それを充実させたうえでこのメロディーの音程関係、リズムの組み立てを身につけることが重要なのだ。あるモティーフ(動機)があったとして、それを拡大したり変化させて「物語」を作っていくのは音楽を組み立てるうえでごく普通のことだ。もちろんいろんな複雑さがある。でもなんらかの「手」を加えることは自然に誰でも思いつくことで、人間本来の音楽に対する欲求に近いものだろう。コード進行は大事だ。でもそれにあまりに振り回されるとインプロヴィゼーションに閃きがなくなってしまう。客観的に音楽を聴くと簡単にわかることなのだが、複雑なコード進行を見るとどうしてもそれに夢中になってしまう。もちろんコードを無視はできない。頑張って克服する、それしかないのだ。

ソロ
オスカー・ピーターソン
ポリドール

Lulu’s Back in Town

2015-03-10 01:06:25 | Weblog
1935年にブロードウェイミュージカルのために書かれた曲だ。その後ファッツワーラーの演奏や、50年代になってメルトーメが歌ったりしてポピュラーな存在になった。もちろんこの曲をレパートリーにしているミュージシャンは他にもいっぱいいる。形式はA-A-B-A、リハーモナイズはやろうと思えばできるかも知れないが、基本はⅥ7から2拍ずつ7thが4度進行していくのがおもしろい。テンポもどうにでもなる。そう、ジャズの素材にうってつけだ。ジャズスタンダードは多種多様、千差万別、その曲に応じて対応するしかない。それぞれいろんな判断基準があるが、「縛り」の強さというのは必ずあると思う。リハーモナイズはほとんどできない、テンポやリズムの形も限られているもの、そして何もかもどうにでもなるもの・・・。もちろんこれは両極端をあげてるだけだけど、傾向としてどちらがやりやすいか?というのもかなり個人差がある。「縛り」のきつい曲は窮屈には感じるかも知れないが、ルールさえ守ればその曲の構造がインプロヴィゼーションをいい音楽にしてくれるという気楽なところもある。その逆、「縛り」のゆるい曲は自由に感じる半面、自分の力で即興演奏を音楽にしなければいけない責任が生まれてくる。演奏しているとそのプレッシャーもある。本当にどちらとも言えない。そしてその「縛り」にもいろんな段階がある。この「Lulu's Back in Town」はどの辺だろう?ちょっとキツいぐらいの類かな?でもほどよいキツさ・・・。ジャズを演奏していると当然いろんな曲をやるわけで、いろんな縛りを経験する。いい演奏ができる時というのはその「縛り」を心地よく感じたときなのだ。

It's Monk's Time
Sbme Special Mkts.
Sbme Special Mkts.

Little Lulu Ⅳ

2015-03-02 01:44:49 | Weblog
どんな音階素材を使ってインプロヴィゼーションに臨むかによって楽曲のニュアンスは大きく変わってくる。もちろんある程度の標準になるスケールはあるが、あとは個人の自由。自分のイメージするサウンド感覚でスケールを選べばよいのだ。その選択の基準になるのは、サウンドの緊張度である場合が多い。音楽の中での緊張度はどうあるべきか?もちろんこんな問いに正解はないのだが、できるだけ客観的な視点で捉えること、そして緊張度を即興的に変えられるアドリブの技術を持つことが重要だと思う。瞬間的に選んだ音こそがアドリブの正解なのだ。固定観念は音楽を堅苦しくしてしまう。それに一つの旋法にとどまって音楽が進むと三全音が威力を発揮しだして調性感も固定化されてしまう。いわゆるイオニア的になってしまう。インプロヴィゼーションは耳が頼りだ。旋律の半音階的な変化も事前に察知できる訓練がとても必要だ。ジャズスタンダード曲はミュージシャンが選んだ重要なアドリブ素材だ。それをいわば教材にしていろいろインプロヴィゼーションを試してみることがジャズ演奏の「耳」を鍛えることにもなる。結果を気にしても始まらない。後の分析は人にまかせておけばいいのだ。アートブレイキーがジャズはミスした音をどう処理するかが重要だと言っていた。ミスを不思議な音として正当化させてしまうしまうのもアドリブ芸術のひとつかもしれない。