ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

Whisper Not Ⅳ

2015-01-26 01:39:36 | Weblog
楽曲内におけるいわゆるベース音(低音)と根音は持つ意味合いがかなり違う。マイナーキーの場合は和音の構成上、根音の確定が難しいこともあるが、どちらにしてもふたつをはっきり認識しておくことはとても重要なことだ。根音は主に結合音をもとに算出されるが、これはいわば物理的に音楽を考えるということであって、現在の考え方にたどりつくにはいろいろ紆余曲折があったようだ。この「Whisper Not」のように音楽が7音的に移行し、根音の動きも明確なものは問題ないが、12音的な楽曲の根音を探り、そしてその動きからトナリティーをはっきりさせようとするのはむずかしい。というか、あまり意味のないことだ。でもインプロヴィゼーションが絡むとそう簡単に割り切れない。コードネームを見ただけで、ジャズミュージシャンはトナリティーを探してしまう。それは実際のジャズの演奏を想定してのことだ。これがアドリブのかなりの縛りになってしまう。でも逆に言うとこの感覚が人間の本来の音楽に対する「感覚」なのかもしれない。そして古い進行である根音の4度上行や半音下行がどんな音楽組織の中でも「強進行」として有効であることを体感する。現代の音楽にはいろんなルールや技法が存在するが、そのすべてにおいて本当の意味での違いや仕切りのようなものは存在しない。根音は音楽構造上重要なものではあるが、それはあとで分析するものであって、即興演奏の現場ではそれはミュージシャンが探って頼るコンパスのようなものだ。

Whisper Not Ⅲ

2015-01-19 02:12:36 | Weblog
この曲のトナリティーの特徴はマイナーキーが5度ずつ上行していくところだ。それぞれピボットになるマイナーのコードを挟んでいる。アナライズにはそんなに時間はかからない。ここで物理的な問題ではない「3度」について考えてみよう。12音で音楽をやっている以上、コードの3度音が長3度か短3度かは大きな問題だ。音楽のおおきな分かれ道でもある。でも音楽のいわゆる「ルール」にはその理由がありそれを理解すれば、へんな言い方だけどそれを逆手に取ることもできる。禁則とされる連続8度や連続5度も特定の声部が強調されて全体のバランスがくずれるのがその理由だと分かれば、それを逆利用して並行和声を増強したりもできるのだ。コードの3度音にも同じようなことが言える。メジャーなのかマイナーなのかはっきりしないじゃないか、コードの性質を明確に打ち出すのがアカデミズムの基本姿勢だ、というのがルールだ。(この場合サスペンションの技法について言うつもりはないので・・・。)しかしこの論理を裏返せばコードの性質をはっきりさせないのも音楽表現のひとつの選択肢でもあるのだ。優柔不断な音楽を表現したければ3度を除外すればいい。どっちつかずというのは悪いことばかりではない。動きが軽くなる。もちろん音楽に奇をてらうのは禁物だ。この曲のように明確なコード進行が音楽の根幹をになっている曲に無理やりそういう主張を放り込むのはちょっとセンスが悪い気もするが、常に音楽にはもっと自由な発想があることを頭にいれておくとインプロヴィゼーションの質も変わってくる。

Whisper Not Ⅱ

2015-01-12 02:12:54 | Weblog
音楽における形式というのは、もちろん長い歴史の中で人間の感性にもとづいて形作られてきたものだ。ソナタ形式、ロンド形式・・・、全てに理由がある。32小節にまとめられたジャズスタンダードの基になっているポップス曲も作曲家がいわば「一話完結」で作ったものだ。これは物語性を音楽に取り入れたものだ。一方、宗教と関わって長い歴史を経てきた西洋アカデミズム以外の音楽には別の価値観が存在する。人間の存在はただ生まれて次世代に引き継いで死ぬだけ、そこには望むようなクライマックスはない。始まりもなければ終わりもない。ブラックファンクの奥にある哲学は、多くの人の共感を呼んだ。正反対とはいえ、それぞれの音楽の考えかたは必然性を伴っている。転じて、ジャズの演奏方法を考えてみよう。32小節で完結している物語を何度も何度も繰り返す。回数に差はあるけど、ライブ演奏だと10回を超えることはしょっちゅうだ。モダンジャズがまだアヴァンギャルドであった時代はそれでも新しい試みとしてある程度大目にみられていたかもしれないが、まず演奏しているミュージシャンのほうがこのやり方にすぐに疑問を感じてしまう。同じ話を何度も聞かされているような感じを受けて退屈してしまうのだ。間もなく聞きなれたジャズファンも同じ感覚に陥る。だからそれから脱するために、回数を制限したり退屈しないアレンジをしたりと、エンターテイメントを考えるバンドは、ビバップの初期から工夫をこらしていた。そうなるのは必然だ。ピアニストはまずバッキング、ホーン奏者が何コーラスもソロをとるのを支える。管楽器奏者は複数の時もある。それが終わってソロが回ってきたときすでに10コーラスに達していることさえある。すでに感性は疲れている。もちろん音楽をやるスタミナは必要だし鍛えなければいけないのは分かるが限度もある。適度の長さを守らなければ何のためのインプロヴィゼーションであるのかわからなくなってしまう。そうなるとジャズは演っても聴いてもつまらない。
ウィスパー・ノット+1
ウィントン・ケリー,ケニー・バレル,ポール・チェンバース,フィリー・ジョー・ジョーンズ
ユニバーサル ミュージック クラシック




Whisper Not

2015-01-05 01:11:24 | Weblog

1956年に当時ジャズメッセンジャーズにいたベニーゴルソンが書いた曲。そのあと1958年にアニタオデイが歌詞をつけて歌ったことで、ボーカルチューンとしても有名になった。タイトルにもなったエラのアルバムもある。もちろんゴルソン自身の演奏も数多く残されている。形式はA-A-B-A、32小節、お決まりのセカンドリフもあるが、Aの部分のチェンジだ。ウソか本当か知らないが、ゴルソンがごく短い時間で思いついて書きあげたということで有名になっている。作曲に要する時間を特定するのは難しい、というかある意味ナンセンスだ。たいていは書き始めた時からの時間だろうけど、音楽を作るには、その前の音楽の勉強という膨大な時間が隠されている。反対に何年がかりの大曲といっても途中で休むこともあるし、頭の中だけで構想を練る時間も含まれている。絵画や小説などもそうだが確かに、筆の早い人遅い人さまざまだ。どちらがどうのこうのというのはない。良いものを作ればそれでいいのだ。作曲ははずれも多い。表面には出てこないけど、完成したけどよくないとか、途中でいやになってボツにしたとかという曲は作曲をしてるひとならいっぱいある。ジャズインプロヴィゼーションもそういう傾向がある。ただし、ジャズの演奏の場合だめだなあと感じても最後までやらないと責任は果たせないからとにかく最後までやる。途中でフッとよくなったりもする。最後まで全然だめな時もある。一晩で10曲、それ以上やる時もあるからいろんなことが起きる。いちいち気にしてられない。音楽作品に完璧なものが存在するのかどうか、ベートーベンのシンフォニーですらベートーベン自身に聞いたら修正したい部分があるかもしれない。アドリブのある部分、本人からしたらミスしたところが「味」になっているような名盤すらある。音楽のミスとはなにか?たいした問題ではないのかもしれない。

Bags Opus
Blue Note
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