変奏曲という発想はずいぶん昔からある。もとの曲の構造、主に和声構造をほとんど変えずに新しいメロディーをあてはめる。テンポを変えたり違う楽器のために作り直したり、長調と短調を入れ替えたりもする。作曲の課題としてやる時は伴奏の形を考えるのが結構大変だ。この「Scrapple From The Apple」の場合はファッツワーラーの作った原曲のコードに別のメロディーをくっつけるという作業だ。メロディーというのは音楽の勉強をちゃんとやってない人でも奇跡的にいいのができることもある。そういうものだ。だからスタンダード曲のコードに別のメロディーをくっつけるというのはさんざんやられてきた。でもいいものは少ない。メロディーとコードの関係というのはそう一筋縄ではいかない。このふたつのものは決して切り離せるものではない。分離したコードをメロディーがくっつけ不自然なメロディーをコードの流れが正当化してしまう。お互いに助け合っているのだ。そして両方があまりにスムースだと逆におもしろくない。不思議なものだ。チャーリーパーカーはこの曲のほかにもこのやり方で曲をいっぱい書いている。全部かどうかは分からないけど、いいのがいっぱいある。やはりそういうメロディーとコードの関係に対する感性がするどいんだ。そしてバンドで演奏するとより曲が生きる。インスパイアーする要素がつまっている。やはりパーカーはジャズの権化だ。
チャーリーパーカーの作品、といってもA-A-B-AでできたAの部分は「honeysuckle rose」、ブリッジの部分はいわゆるリズムチェンジと同じだ。だからジャズインプロヴィゼーションを前提に作られた曲ということだ。このやり方で作られた曲は無数にある。そして作曲者のメロディーセンスのおかげでスタンダードとなったものもいっぱいある。この曲はその典型だ。黒人ミュージシャンがわずかなギャラでレコーディングをしていた'40年代'50年代、著作権料の支払いから逃れるために考え出されたのがこのやりかたらしい。普段よく演奏している曲のコードに別にメロディーをつける。そして著作権の支払いを逃れインプロヴィゼーションは普段のコードで流暢にやる。リフもヒップだからジャズファンに受ける。一石三鳥か四鳥だ。言葉で言うとずいぶん安直なようだがやはりいい曲にするには相当の作曲センスがいる。要するに「変奏曲」なのだ。パーカーがこのメロディーをひねり出すのにどのぐらいの時間がかかったのか誰にも分からない。でもこのリフはパーカーの音楽そのものだ。当時の弱小レコード会社やミュージシャンが身を守るために編み出した曲作りの方法だけど、優秀なジャズミュージシャンのおかげでモダンジャズの文化がすごくわかりやすい形で示される結果になった。そしてジャズのおもしろさがよく分かるエピソードでもある。
音程に協和、不協和の線引きはない。過去に何度も試みられたけどその都度覆されたり根拠が希薄だったり・・・、今では明確な区別はできないというのが定説だ。一般的には音響学から説明する理論家の意見と実際に音を操っている音楽家の意見が分かれることが多いためだ。で、この議論はちょっとおいといて・・・。驚くべきことは多声部音楽が現れ始めた数百年前からもっとも濁りのない三和音だけの和声連結は敬遠されていたという事実だ。何種類かの本に書いてあった。人間は音楽に安らぎだけを求めているのではなく「刺激」も欲しかったのだ。そして最初に使った「刺激」は根音から短3度音と長6度音との間の三全音だった。ジャズ用語で言えばマイナー6THのコードだ。人間の感性は時代によって変わることもあるし変わらないこともある。もとに戻ったりすることもある。特に和声に対する感性ほどつかみどころのないものはない。インプロヴィゼーションの方法論としてのテンションの考え方はアバウトなところもあるし異論のある人もいる。でもボクはこの考え方が好きだ。アメリカのおおらかでなぜかちょっと可愛い部分が垣間見える気がするからだ。アメリカの全てに賛同しているわけではない。でもインプロヴィゼーションという芸術に市民権を持たせるためにはこういう考えかたしかなかったのではないかと思う。
音程は音楽の縦関係のほとんど全てを牛耳っている。複雑に見える和声進行もひとつづつ考えていくと二つの音の音程関係が組み合わさったものだ。和声進行のもとになる考え方も二声対位法を膨らませたものだ。それぐらい同時に鳴るふたつの音の音程関係は重要なのだ。綿密に組み立てられたクラシックの名曲ならそういう点ももちろん考慮されている。問題はそういうことを即興演奏をやっている時にどうやってクリアーするかということだ。バンド全体を考えた場合、一番聞こえてくる二声部はいわゆるメロディー(歌手が歌うラインであったりホーン奏者が吹くリフであったりする。ピアニストが右手でひくラインのときもある。)とベーシストが弾くベースラインだ。この音程関係がやはり音楽の成否のカギを握っている。でもそれだけではない。インプロヴィゼーションの場合メロディーを吹いている人はベースラインと同時にピアニストのバッキングのトップノートとの音程も気になる。ベーシストはピアニストの弾くコードの一番下の音とベースラインの音程も気になる。要するにジャズを演奏している時はいろんな二声部を同時に聞きながらやっているのだ。もちろん即興だから音程の進み方がうまくいかないこともある。相手が次にどの音を出すか分からないから当然だ。だから必要なのは第六感に似た察知能力ということになる。コルトレーンはポールチェンバースはソロイストのフレーズによってベースラインを自由に変えられるベーシストだと言っていた。チェンバースのそういう能力は実際には一緒に演奏した人にしか分からない。でもこれがバンド全体のサウンドの良し悪しに大きく影響する。音程に対する感性を磨くのは大切なことだけど、相手の先を読むのは至難の業だ。解決策はない。
この曲の特徴ともいえるメロディーとルートとの9度の音程、5度の5度上だから基本的にはどんなコードでもテンションとして耳が受け入れてしまう。9THは9THとしての独特の響きがある。テンションはうまく使えばサウンドは豊かになる。便利な考え方だ。でもいいことばかりではない。音楽の強さ、はっきりの度合いを失ってしまう危険性もはらんでいる。ものごとには必ず二面性があるものだ。芸術はそこで微妙にバランスを取っていかなければならない。ここにはいくつのテンションが必要なのか?倍音列にそった三和音の強さ、明快さにどれだけ豊かさを加えるのか、そして逆効果としておきる弱さ曖昧さはそれでいいのか?その音楽の状況によって慎重に選ばなければいけない。でもこれは当然内声の話だ。この曲のようにメロディーラインに9度音が頻繁にでてくる場合は最初からかなり明快さは損なわれている。でもそれがこの曲の特徴で、良さなのだ。気をつけなければいけないのは、バッキングのときだ。バッキングのときにトップノートに9度が頻出するとかなり音楽がぼやけてしまう。歌手やホーン奏者はやりにくそうな顔をする。やはりコードが分かりづらいのだ。9度そのものが悪いのではなくて程度の問題、音楽はやはりバランスの芸術なんだ。