メロディーというのは人間の歌から発生しているわけで、歌えるということがメロディーの原則ではあるのだが、楽器が発達してからはいろんなタイプの楽曲が生まれるようになってきて、いちがいにメロディーが人間が歌えるものではなくなった。たとえ歌いづらくてもその楽曲が音楽として優れていれば良い音楽として残ってきたのだ。ビバップの代名詞のように言われる8分音符の羅列は半音階的なニュアンスが必ず含まれていてそれがこの音楽の魅力でもあり、またある一定の拒否反応を引き起こす原因でもある。でも即興演奏の中にこういう考えかたを取り入れたことがモダンジャズを世界に通じる現代音楽に確立できた大きな要因なのだ。そしてもうひとつモダンジャズを特別な存在に押し上げた要素にリズムがある。譜面に書かれている8分音符、1対1の割合は実際はそうは演奏されない。テンポによっては2対1に限りなく近いこともあるけどほとんどは簡単な整数比で表わせない割合だ。そしてなによりも個人差がある。バンドで演奏している場合シンバルレガートとピアニストの8分音符はそんなにぴったり合うはずもない。他の楽器もそうだ。でも何かの条件、音楽の方向性そして基本となるスウィング感を共有できたら演奏はうまくいく。そしてその音符の「ズレ」がかえってスリルとスウィング感を生むのだ。ビバップを「良い音楽」として受け入れるためには聴く側が音楽に対する価値観を多少変えるということが必要なのかもしれない。
この曲の成り立ちは前にも書いたように、「Lover Comeback To Me」のコード進行にシルヴァーがメロディーをつけたものだ。この作業、簡単にできそうでなかなかできない。結果は実際に演奏してみた感触それしかない。いろんな曲で自分なりのものを作ったりして試してだめなところを修正したり、なんだかんだやってみる。でもどんなに知恵をしぼっても「いい曲」にはたどり着かない。やはりなにか音楽的な根本的理由があるのではないか?こころあたりを取り出してみると・・・。まず音楽のメロディーと和声の関係だ。メロディーといえどそれは音楽構造の一部分であって和声のかけらでもある。が、一方で構造上メロディーとして認知される音符の威力はすごくてそれだけでリズムも和声も表現してしまう。そしてその一番強いパーツを抜いた状態で残りを利用して違った音楽を作るという試みだ。作ってみて一番感じることは和声に従おうとするあまり、メロディーが和声に埋没してしまうということだ。リードできない。ヒンデミットが言っているようにメロディーというのは強い推進力を持ってなかなか動かないコードを押し流すぐらいでないと音楽としてのインパクトに欠けるのだ。たとえ話をいろいろ考えてみた。ある強いリーダーのもと結束した優秀な集団がある。でもある時そのリーダーが突然いなくなる。そして外部からリーダー候補がやってくる。その人はもちろんその集団のことをよく知らなければいけない。でもその中に埋没するのではなく、その集団の特性を見抜いた上で自分が新しい強いリーダーとなって集団そのものを生まれ変わらせなければならない。想像しただけでも大変なことだ。
この曲はタイトルからも想像できるようにホレスシルバーの作品。著作権の登録は1956年になっている。ブレイキーとのトリオでも録音しているし、クリフォードブラウンが参加していたメッセンジャーズでの録音もある。当時の重要なレパートリーだったのだろう。もちろんカヴァーして録音しているミュージシャンはいっぱいいるし、今でも世界中で日々演奏されていると思う。ずばりこの曲は「Lover Come Back To Me」のチェンジだ。キーはA♭。ナットキングコールはFで歌っているし、A♭だと女性ヴォーカルの低い声の人のキーだ。シルヴァーが何を基準にキーを設定したのかは分からない。厳密に言えばタイトルが歌詞になっている部分のコード進行が全然違う。インプロヴィゼーションを前提に作られているからだ。幅広くとらえればこういう曲作りのやり方は何百年も前からあった。でもモダンジャズという音楽の特性、そして当時の黒人ミュージシャンやレコード会社の前にあった著作権という問題がバネになって逆に新しい音楽を作るといういい方向に作用してこの曲作りのやり方が広まった。今でもよく知られて演奏されている曲はいわゆる佳作で、消えていった駄作は数知れないだろう。作曲という立場から言えば、ずばりこれは変奏曲で、作曲者のメロディーセンス、リズムセンスが試される。この曲はまさに「シルバーらしさ」が発揮された曲と言える。ビバップの特徴である8分音符の連続や変化音が多い。キーの問題も含めて、こういう曲は楽器によって演奏の難易度がかなり違うケースがある。この曲はピアノはどうということはない。シルバーはまちがいなくピアノの前でこの曲を作ったのだ。
コードの緊張感や濁り度は内蔵されている音程の種類とその個数に支配されている。楽曲の和声がどのくらいの緊張感、濁り度で推移するかというのは具体的には、含まれる長短2度(7度)音程、そして増4度音程がいくつ含まれているかを数えればいいのだ。作曲のための著書にはこの実例を示すためにたびたびバッハのポリフォニーの楽曲が用いられている。そうなのだ。ポリフォニーの音楽こそこの考えが有効でまたその濁り度に偶然性がある。でもジャズスタンダードのようにコード進行が決まっているとあらかじめコードの緊張感、濁り度はかなり確定される。不確定要素はリハーモナイズによってコードが変わってしまうこと、そして使う音が個人によって違うことだ。でもこの不確定要素の占める割合は小さい。小さいというのは個人的な感覚で語弊があるかもしれないが、コード進行にしたがって演奏しているとどんなに緊張感を加えても限界はあるし、またそれで曲がよくなるとも思えない。世界中のジャズピアニストがこのわずかな不確定要素の中で個性を出そうとして工夫してるわけだけれども、やはりその楽曲を演奏する以上、変えられる範囲は限定される。そして一般的にジャズミュージシャンが作曲した楽曲ほど和声面では縛られることが多い。デュークの楽曲はそのコード進行だけでデュークエリントンの分身だ。自分のものにして演奏するという気持ちも大事だけど、ただそのままデュークサウンドを受け入れて楽しむというのもジャズなんだ。