音楽はなんといっても自然でなければ多くの人に受け入れられない。でもその「自然」にもいろんな種類がある。それは現実の自然界と似ている。人間にとって不愉快なものでも自然は自然なのだ。演奏している時はもちろんこの自然な必然的な流れを感じながら演奏する。(不愉快で理不尽な自然も含めて・・・)それがインプロヴィゼーションの一番の良さでもある。でも商品としての音楽を発信する時、特に録音したりすると、どうしても他との個別化を図ろうとしてしまう。たとえばこの「isn't it romantic」を商品として市場を意識して録音するとしたらなんらかの独自のアレンジをしないとまずいと思ってしまう。いろんなプレーヤーの演奏を聞いていろんなパターンを知っていてもそれをそのまま使うのは気がひける。知恵を絞る・・・そこで「自然さ、必然性」という壁にぶち当たってしまうのだ。この流れは理不尽だけど「自然」なのか?いやこれは単なる「不自然」なのか?まあそれを乗り越えることによって新しい発見があったり、音楽的な成長もあるのだけれども、失敗することも多いのだ。特にこういうバラッドの場合、まず考えることはリハーモナイズだ。使い古された名曲のコードを変えるのはホントに難しい。奇をてらった不自然なサウンドに聞こえるのと新鮮なコードに聞こえるのとはホント、紙一重だ。こういう作業は面白いといえば面白いけど、同じところをグルグル回っているような虚無感に襲われることもよくある。もちろんジャズの演奏のため、よいインプロヴィゼーションのためとは理解していても、人間は止まって考えると変な方向に行ってしまうことがあるものだ。その時に思うのは「インプロヴィゼーションの世界はなんていいんだろう」ということだ。
物事を説明する時、しばしば他のジャンルの事柄を持ち出して相手に分かってもらおうとするのはよくあることだ。音楽にもよく適用される。結果的に真意が伝わればそれでいいのだけれども、基本的に音楽は時間の芸術だから、時間の経過とともに表現する演劇などは例えとして分かりやすいほうだけど、建築や絵画などはどんなに理解しようとしても分かったような分からないような・・・で終わってしまう。とくに絵画は「線と色彩」という例えで昔から音楽表現の説明によく使われてきた。作曲には建築や数学がモデルにされることもある。結論的には音楽というのはそれぐらい抽象的で説明するのが難しいということだ。こういうことを考えてくるといつも思いだすことがある。ヒンデミットの言葉だ。「ToneとMusicは違う」ということだ。これを「音と音楽」という言葉に置き換えてみると、音楽というのは人間のイメージの中にあってとても言葉に出来ないような抽象的なものだ。でもその音楽を表現するのに「音と時間」を使う。だから音楽を作ろうとしたらその音(音波)、と時間(リズム)の性質をよく知らなければならない。その上で音と時間という「音楽素材」を使って音楽を作っていくのだ。ジャズの演奏にはこの言葉の正しさが端的に現れる。瞬間的な色彩感を持ったイメージや物語性がなければ演奏できないけど、一方で音とリズムに対する数学的で理性的な知識がなければせっかくのイメージを表現できない。そしてまた楽器の技術という問題もある。どれが一番大事なんだろう?分からない・・・本当に分からない。
最初に紹介されたのは1932年だというからスタンダード曲としても古い。Richard RodgersとLorenz Hartの作品、その後Billy Wilder監督が自身の映画の中で何回か使い、一番ヒットしてよく知られたのが1954年の「麗しのサブリナ」。Billy Wilderはよほどこの曲が気に入っていたのか?その後というか監督と並行してジャズミュージシャンもこの曲をよく取り上げるようになり、歌手もよく歌うようになった。形式はA-B-A-Cの32小節、もちろんいろんなやり方でやっていいんだけど、この曲はさすがにあまり速くはやらない。メロディーラインをよく読み説くと3、4小節目と11,12小節目、つまりBの部分の3,4小節目が短3度ずれた平行調の関係になっている。つまりオリジナルの発想はコードもそういうことだ。映画の中にバンドはそういう風に演奏している。でもそれだとインプロヴィゼーションにちょっと合わない。ここがスタンダード曲の難しいところで、オリジナルの構造をどうとらえるか?どこまで変えるか?という問題になってくる。そういう時ピアノの前で考え込むのもいいけど、バンドで演奏してみたら正解がすぐ分かるケースが多い。やはりインプロヴィゼーションを前提に演奏するわけだからその感触のよいコードにしたほうがいい。で、ほとんどの演奏はオリジナルの構造を変え、それをまたリハーモナイズしたかたちで行われている。ヴォーカリストでその演奏のコードに違和感のある人は、オリジナルに沿ったものでバッキングしてもらえばいい。これもジャズの懐の深さの一端だ。
ビル・エヴァンス・トリオ・アット・シェリーズ・マン・ホール+1 | |
クーティー・ウィリアムス,サミー・カーン,サミー・カーン,ジェローム・カーン,ジョージ・ガーシュウィン,セロニアス・モンク,チャック・イスラエル,ニコラス・ブロッズキー,ニコラス・ブロッズキー,バーニー・ケッセル,リチャード・ロジャース,ヴィクター・ヤング,アイラ・ガーシュウィン,オスカー・ハマースタイン 二世,ネッド・ワシントン,バーニー・ハニゲン,ロレンツ・ハート,ビル・エヴァンス,ビル・エヴァンス・トリオ | |
ユニバーサルクラシック |
楽曲のイメージというのは頭の中だけのものだから、どんな風にでもなる。名曲やヒップなインプロヴィゼーションがすぐできてしまう。実際の演奏はもちろんそうはいかないけど、そのイメージ、音楽の目的地みたいなものがないと作曲や演奏ができないのも事実だ。楽器でどこまでのことができるか?自分のできる範囲を把握してないと、インプロヴィゼーションはできない。できないことをイメージしてしまって演奏を失敗してしまうことは相当なキャリアを積んでもよくある。でもできないことに挑戦していかないと技術も向上しないという一面もある。問題はそのできなさの程度なのだ。その場で何分か練習したらできそうなもの、完成させるのに何カ月もかかりそうなもの、そして一生がんばってもできそうにないもの・・・。見極めないとしょうがない。この見極める能力をつけるのに時間がかかるのだ。リストやラフマニノフの難曲とされるピアノ曲は人間が達成できるピアノ技術のギリギリのところで作られている。でも言い方を変えればこれは作曲家の「ワナ」なのだ。作曲家自身もここはやりすぎた、これでは誰も弾けないと分かると同じ音楽的内容で違う表現を書くと思う。しかしクラシックの音楽界にはすでに何百年という歴史があって名曲はどんな難曲であっても立派に弾きこなすピアニストが存在してきた。だからピアノで食っていこうと思ったらそう簡単に「出来ません」と白旗を上げることもできない。人間の限界ともいえるレベルの技術をつけるのは本当に大変なことだ。でも即興で音楽を作っていく場合は、なにを弾くかは自分の技量が判断材料の全てだ。向上心や挑戦する気持ちはもちろん大切だけど、今自分に何ができるか?ということを考え自分に向き合う・・・そして音楽のイメージを人に伝えるためにできるだけのことをする。ジャズインプロヴィゼーションから学ぶべきことは精神コントロールとでもいうべきものが実は多いのだ。
音楽の組織論は音楽を作ろうというひとにとっては必要不可欠なものだ。それは記憶するというようなものではなくて理解する、この一語につきる。だけど実際に音楽を演奏する、作るということを考えてみると、いろんな経験を積まないとその音楽理論がなんの意味もないものになることが分かる。楽器の演奏や習得経験のない人に「音楽構造とは・・」と押しつけてもそれは無理だ。音楽の腕がある程度のレベルに達してそういう「理屈」を受け入れる準備ができていないとまったくの空回りになってしまう。それと同じでジャズのアドリブの方法論をジャズの演奏経験のないひとに語ったところで無駄なのだ。ジャズ理論と言われているものは、音や音楽の基本的な組織論ではなくて、いわばインプロヴィゼーションの方法論だ。でもそれはジャズミュージシャンの英知を結集した有意義なものだと思う。うまく使えばとても役に立つ。こういうものがなかった時代は大変だった。いまでも実際に耳にすることができる昔の音(おおまかに言えば1950年代以前)、いわゆるみんなが手探りでジャズをやっていたころの演奏方法は正しいものもあればやはり穴もある。シートミュージックをどう改造するかというときにこれといった筋の通った方法がないからいろんなことが起きるのだ。いろんな紆余曲折を経て生み出された統一の方法論、このおかげでジャズの音楽的レベルは上がりそして面白くなくなった。私はジャズのこの変遷を批判したり悲観したりしているわけではない。これは音楽としての必然だと思っている。時計の針は逆には回らない。