ジャズピアニストのジャズ批評

プロの耳で聞いたジャズをミュージシャン流に批評。

Somethin'Else Ⅲ

2007-07-31 17:42:47 | Weblog
このアルバムのタイトル曲、3曲目の「Somethin'Else」についてちょっと・・・。形式は12小節でブルースといってしまえばそれまでだけど、こういうやり方はこのころマイルスバンドでさかんにやっていた音の展開方法で、マイルスとキャノンボールだからやれたといえる。テーマは即興的にマイルスが吹いた短いフレーズをキャノンボールがなぞるというだけだ。問題はソロの部分の基本になるコードやスケールだけど、ブルースをこういうぶっ潰し方をすると必然的にディミニッシュコードの連続になってしまう。この当時マイルスは新しいインプロヴィゼーションの規範を求めていろんなことを試していた。キャノンボールとコルトレーンを加えたセクステットでブルースをやる時は「ほんとにこれがブルース?」みたいなことをやっていた。そして一方ではすぐ後で発表することになる「So What」のようなヨーロッパアカデミズムに反発するような全音階的、マイルスが言うアジア的なサウンドも同時にやろうとしていた。いわば半音階的なもの、全音階的なものという一見相反するものをジャズのインプロヴィゼーションの素材として両方試していたわけだ。マイルスバンドではうまくいっていたかもしれないけど、このアルバムは普段とリズムセクションが違う。特にピアノのハンクさんはとまどっている。サムジョーンズも頭では理解できても、体験が足りないとこういうやり方はあまりうまくいかない。それでも当時の最先端のミュージシャンの苦しみや迷いが見えて緊張感がある。それでいい。マイルスのすごいところは、コンビネーションディミニッシュだろうがドリアンスケールだろうが関係なく自分の歌の材料にし、出来上がったものはマイルスデイヴィスのメロディーになってしまっているところだ。これこそがマイルスの才能だ。このアルバムの中でこのタイトル曲だけがよく聴くととっちらかっている。でも逆に一番面白い。音楽が生きている。

Somethin'Else Ⅱ

2007-07-27 03:46:36 | Weblog
このアルバムが創られた頃は、モダンジャズが新しい方向に向かって動き出していたいわば流動期だ。パーカーというカリスマが死んで数年、ジャズの新しい秩序が必要だった。このアルバムはキャノンボールのリーダーアルバムだけど、やはりサウンドという意味では当時のマイルスバンドの影響を受けている。一曲目の「Autumu Leaves」のイントロは今では超有名なジャズのイントロのひとつだけど、確かによくできている。マイナーキー、要するに短調の時の6度音の扱い方は非常にあいまいで、またそのあいまいさを利用してバッハもショパンも音楽の表現の幅を広げてきた。このイントロはジャズの中でのマイナーキーの6度音の使い方の新しいアイデアだ。この曲はGmだから問題になるのはE♭とEだ。短調というのは、かなり人工的にできたもので半音階的なアプローチが許され、またそれを利用しないと音楽が窮屈になってしまう。またエオリアスケールに近いけど、そうではない。E♭はエオリアらしさを出すいわば性格音だ。Eはドリアンスケールが匂ってしまう。結局短調の音楽はそれらを和声や旋律にうまく使い分けて独特の位置を築いてきた。この「Autumn Leaves」のイントロのE音の使い方は、その短調の音楽の中のアカデミズムをモダンジャズの中で消化した新しいアイデアだ。そのポイントになっているのは「Jazzy」という詩的な言葉であり、オーバーに言えば哲学的な言葉だ。この言葉とこの音楽の匂いがジャズサウンドであり、これにジョージガーシュインもストラヴィンスキーも衝撃をうけたんだ。具体的には三全音の使い方の多様性だろう。進化しつつあったモダンジャズは単なるポップミュージックではなく20世紀の「現代音楽」としての価値を確立しつつあった。

Somethin'Else

2007-07-24 02:51:54 | Weblog
このアルバムは'58年の録音でブルーノート盤、キャノンボールアダレイのリーダーアルバムだ。サイドメンに当時のキャノンボールのバンマス、マイルスを使っている。マイルスはもうこの頃コロンビアとリーダー契約していたから、どうやって頼んだのか知らないけど、まあキャノンボールの頼みだからということだろう。リズムセクションも寄せ集めだ。アートブレイキーとハンクジョーンズ、サムジョーンズ。普通こういう企画はあまり成功しないもんだけど、マイルスとキャノンボールは普段一緒にやっていておたがいのことは分かっているし、アレンジもセンスのいいアレンジがされている。ちゃんとリハーサルもしたみたいだ。選曲もいい。モダンジャズ史上に残る名盤になった。ドラムのアートブレイキーはジャズ界の親分だからマイルスにだって睨みがきく。音楽をうまくコントロールしている。'61年に初めて来日した時に受けた厚遇が忘れられなくて、彼は大の日本びいきだ。ジャズメッセンジャーズを率いてその後何度も日本に来ていた。30年ちょっと前だったと思う。アートが日本へ来ていたとき、公演の後毎晩のように六本木のジャズクラブへ来ていた。いやがらずに演奏もよくやってくれた。ある時、ちょうどキースジャレットのバンドで来日していたベースのチャーリーヘイデンがその店にやってきてアートとばったり会った。それぞれ演奏もしていた。全部終わってお客さんも帰り、店をかたずけにかかった頃、アートがチャーリーを呼んで座ってふたりで話し込んでいた。アートが話すことをチャーリーは真剣な表情で聞いている感じだった。明らかに音楽の話のようだった。でもぼくからは離れているし内容は分からない。何を話しているのかな?と思っていたら、そばにいた人がこっちに来て「チャーリーヘイデンが怒られてるよ。」と言っていた。想像でこんなこと言うのはよくないけど、アートはとにかくジャズの基本、そして威厳を守ろうと体を張った人だ。その頃のキースのバンドはジャズのルーティーンを拒否したようなバンドだった。これはぼくの感だけど、ジャズにとっての大事なものとは何か、そしてジャズの進むべき道はどういうものなのか、アートはキースジャレット、そしてチャーリーヘイデンに言いたいことがあったのではないだろうか?それぐらいふたりの表情は真剣だった。

Mercy,Mercy,Mercy Ⅳ

2007-07-21 03:43:55 | Weblog
「Mercy,Mercy,Mercy」という曲はタイトルからも分かるように、ゴスペルサウンドを基本にしている。ザヴィヌルのもっとも好きなサウンドだ。でもちょっと形式が変わっている。形式(form)というのは、音楽を創る上で必然的にできてきたもので、音楽の歴史の中でいろんな形、名前がある。個別に詳しく説明するのはちょっと大変だ。でもどれも必要だから存在してきたわけで、その理由は音楽の内容を分かりやすく聴衆に伝えるためだ。でも20世紀になってその不文律が大きくくずれてきた。いろんな理由がある。やはり背景にあるのは経済最優先主義がもたらした、人間の「せっかちさ」だ。とにかくなんでも省略してしまう。人間の記憶力や感受性が前時代の人より勝っているとは思えないけど、とにかくそうやって省略された音楽で満足してしまう。またその反動で、しつこいくらい同じことを繰り返したりもする、両極端ではあるけど、ふたつとも奥にある理由は同じだ。何かに縛られていると振りほどきたくなる気持ちは分かる。でも音楽を創る上で形式を無視するのは勇気がいる。かなりの必然性が要求される。形式をも含めた規則を学ぶのが音楽の勉強のほとんどだからだ。ザヴィヌルの曲は法則破りの曲が多い。でも演奏してみると、不自然なところは全くないし、その流れの必然性に納得してしまう。これは彼だけが持っている新しい形式なんだ。現代人の要求している新しい音楽の形式をジョーは察知しているんだろうか?ひらめきとしか言いようがない。とてもマネは出来ません。

Mercy,Mercy,Mercy Ⅲ

2007-07-16 01:45:22 | Weblog
このアルバムは'66年の録音だから、まだ完全なアコースティック時代、ベースはコントラバスだ。ザヴィヌルも基本的にはアコースティックピアノを弾いているけど、このタイトル曲だけ当時できたばかりのフェンダーローズを弾いている。この楽器はこの数年後にはジャズ界にあっと言う間にひろがりジャズ界を席捲してしまった。まあ確かに独特の響きだ。でもチューニングの問題や、他にもいろいろ問題があったので、まだ開発中だったにもかかわらずプレーヤーからの需要があまりにも多くて不完全なまま世に流通してしまった。マイルスもすぐに気に入り、ピアニストにこの楽器を弾かせた。でもハービーハンコックもチックコリアも最初はいやがっていた。やはり慣れないと弾きにくいし、長年やってきたヴォイシングも変えなければならない。でもそのうち好きになったのかその後何年かして二人ともさかんにこの楽器を使うようになったし、チックはとにかくこの楽器の第一人者になった。ピアニストというか音楽家はまあ一般的に保守的なものだ。もちろん音楽全体のサウンドが大事なことは分かっているけど、とにかく何十年も磨いてきた自分の楽器に対する微妙な感覚を捨て去るのは勇気がいる。でもジョーザヴィヌルはそんなことは無関係だ。とにかく新しい良いものにはすぐに飛びつく。これがこの人の驚くべきところだ。できたばかりのフェンダーローズの響きが多すぎるので中にガムテープをはって響きを抑えて演奏している。この楽器のまさにパイオニアだ。その後もシンセサイザーの開発にも手を貸し、オーヴァーハイムのシンセサイザーはまさにジョーのためにあったようなもんだ。今はシンセサイザーも完全なデジタル時代だ。ザヴィヌルはコルグを気にいって使っている。プレーヤーからみたシンセサイザーの歴史、優劣はジョーザヴィヌルに聞けば全部分かる。ジョーの音源の選択はラヴェルのオーケストラアレンジのときの楽器選択に似ている。ピアノを弾く技術者であるピアニストとバンド全体の音を考える指揮者やアレンジャーと両方の感覚を備えている。とにかくこの「Mercy,Mercy,Mercy」はエレキピアノのサウンドがピッタリはまった。