和声はどの音を重複させるか?重複させてはいけないか?というのが実際のヴォイシングでは問題になってくる。和声学のトレーニングではできるだけ無駄な重複は避ける、特にコードの3度と7度は避けて和声を組み立てて行き、バランスの良い和声構造に耳を慣れさせていく、というのが基本だ。その感覚を身に着けるのはやはり実際のヴォイシングにも役にたつ。もちろんこの重複というのは、ピアノという楽器の上でのことだ。いろんな楽器やそれぞれの人数の問題がからんでくるとまた別の要素も発生してくるが、もとになるピアノ上での組み立てがしっかりしていたら応用も効く。和音は特定の声部を重複することによってその声部が強調され、和音全体が豊富になる。だから重複するのには明確な音楽的な目的が必要なのだ。二つの音が重複された場合、3、6度はその音程の色彩感がくっきりと出るし、2、7度は和音をより鋭くする。4つ5つの音の重複は打撃音のような効果ももたらす。コードによってどんなテンションを使うか?どういう並び方にするか?など個人的な嗜好の問題はあるが、どの音を重ねるか?というのもジャズサウンドの方向性を決めるおおきな要素なのだ。ヴォイシングのやり方は星の数ほどある。自分の好みに合ったもの、その楽曲に適したものを見つけるのは地道な試行錯誤しかない。
Substitute Chord(代理和音)の概念はあいまいだ。線引きが難しい。ジョンミーガンが増4度離れたドミナント7thだけを代理と呼ぶべきだ、と書いていた。まあこうすればはっきりしていいかもしれない。でもここでは、そもそも和音はなぜ代理がきくのか?ということをちょっと考えてみたい。その理由は和声というものの根本的なあいまいさ、人間の聴覚の限界にある。優秀な音楽家はわずかな構成音の違いを聞き分けることはできるが、その反面いくつかの「代理和音」をそれぞれ許してしまう聴覚も持ち合わせている。そしてこの許容力が調的中心を交換したり1つの調が12個のどの調とも関連されることを許してしまうのだ。12個の音を使った調性音楽は人間の感性の美的感覚とそのゆるさの上に成り立っている。転調には全音的なものと半音的なものがある。それぞれをうまく組み合わせて美的感覚に訴えるのだ。この「My Romance」の場合、旋律も転調も完全に全音階的だ。その和声が全音階的だとどうしても退屈に聞こえてしまう。いろいろなバリエーションの和声に慣れたジャズミュージシャンや聴衆には物足りない。定義や肩書にこだわらず、半音的な和声づけをしないと演奏が成り立たなくなる。
ブック・オブ・バラーズ | |
ドン・アブニー,ジョー・ベンジャミン,チャーリー・スミス,フランク・ハンター&オーケストラ | |
ユニバーサル ミュージック クラシック |
1935年Richard RodgersとLorenz Hartのコンビによって書かれた曲。ミュージカル「Jumbo」の中の曲だ。1962年に同名の映画が製作されたときはサウンドトラックでDoris Dayが歌っている。楽曲の形式はA-B-A-Cで32小節。プレーヤーもヴォーカリストもあまりにも多くの人が録音を残していて、文字通り「大スタンダード曲」であるといえる。10代の頃この曲の譜面を最初に見たとき、キーは演奏用のCで書かれていたのだが、メロディーはCのスケールの7つの音だけなのにコードを追っていくと黒鍵がいっぱい出てくる。なんとなく不思議な感じがしたけどその成り立ちの理由は分からなかった。もちろんその譜面はある程度ジャズミュージシャンにリハーモナイズされたすでに広く知られているコードだった。この曲は多くのミュージシャンがレパートリーにしていることでもわかるように「クッキング」がやり易いのだ。そしてハズレがない。リズムのかたちやテンポもそうだが、コードをいじくり出したらキリがない。まあなんでもやってみればいいんだけど・・・。でも間違いのリハーモナイズはだめだ。この曲はメロディーのトナリティーを優先すべきで、最初の4小節はⅠの調性で3小節目だけがドミナント、次の4小節はⅥの調性に移り前半の最後の4小節はⅤの調性で一旦落ち着く。だいたいこのへんのポイントをはずさずにリハーモナイズすれば間違いは起こらない。変奏曲を書くときの過程だ。こういう和声の選択肢が多いように見える楽曲ほど基本の過程を経てアレンジやリハーモナイズをしないと間違いを犯してしまう。で、間違ったリハーモナイズでは絶対に良いインプロヴィゼーションはできない、というかアドリブ自体ができない。これはジャズをやってる人なら体感でわかると思う。音楽の「正しさ」を見抜くのは難しい局面もあるが、インプロヴィゼーションをやることによって分かってくることがよくある。
Waltz for Debby | |
Ojc | |
Ojc |